第22話 几帳の内側 (後編) (平安編 2)
出仕して数日が経ったある日、几帳の陰に、いつの間にかトキが姿を見せた。
「そろそろ、外へのお使いも出てくる頃だろうから、話しておきたいことがあって」
トキは、結の顔をまっすぐに見た。
「この国では長い間、名前は、その人の魂そのものだと信じられているんだ。本当の名前を誰かに知られるということは、魂を握られるのと同じ。呪いをかけられたり、生き霊に操られたりして、簡単に命を落とすことだってあり得ると、本気で信じられている」
「魂を、握られる……」
「だから、この時代の人は、実の親――特に父親くらいにしか、本当の名前を明かさない。宮中や貴族の家で働く女たちも、本当の名前は誰にも教えず、代わりに『通り名』で呼び合っている。父親や兄弟の役職に、季節の言葉や見た目の特徴を組み合わせたような、仮の名前だよ」
「それで、私も『小夜』……」
「そう。この時代で、あなたを『結』と呼ぶ人間は、一人もいてはいけない」
トキの声が、いつもより低く、強かった。
「いいかい、この時代では本当の名前は口にしないこと。誰にも、教えないこと。もし、誰かに呼ばれても、答えないこと」
「うん……わかった」
それだけ言うと、トキはまた几帳の向こうへ姿を消した。
***
それからしばらくして、姫君に頼まれ、結は近くの社へ供物を届ける使いに出た。伴うのは、口数の少ない従者がひとりだけ。
市女笠に被衣を重ね、顔を隠して歩く。紐を結ばなくても、帽子をすぽりと被るような感覚で、思いのほかしっかりと据わった。笠の内側にある輪の形をした台座が、被衣の生地にちょうどよく引っかかっているらしい。風さえ強くなければ、これで十分らしかった。女が表を歩くときは、こうして顔を隠すものだと、先輩の房頭に教わったばかりだった。
社へ続く道は、都大路から少し逸れた、木々に囲まれた細い道だった。時折、荷を運ぶ牛車とすれ違い、遠くから読経の声のようなものが風に乗って聞こえてくる。市女笠越しに見る景色は狭く、結は従者の足音だけを頼りに、一歩ずつ歩を進めた。
社の門をくぐろうとしたとき、ふいに強い風が吹いた。被衣が大きくめくれ、笠が飛ばされそうになる。
「あ……」
慌てて押さえたが、間に合わなかった。素顔が、一瞬、往来にさらされる。
すれ違いかけていた男が、足を止めた。
素顔を見られることは、何よりの恥だと、先輩女房からきつく言われたばかりだった。
結の頭は、一刻も早く顔を隠さなければ、ということでいっぱいで、相手の顔をはっきりと見る余裕などなかった。
長い黒髪を束ねている、というのが辛うじて見てとれた。ただ、顔を見られた拍子に、その人の気配が、はっと強張るのだけは伝わってきた。
「――結?」
低い声が、はっきりと、結の名を呼んだ。
声を聞いた瞬間、結の胸が、どくん、と大きく震えた。ソウのことを思い出そうとするたび、いつも一緒にやってくる、あの覚えのある怖さ――それが、今もはっきりと、胸の奥から込み上げてきていた。
その次に恐怖が襲ってくる。今、この時代で、誰も知らないはずの名前。小夜ではなく、結。
「結」を知っているのはトキだけのはずなのに……
先日トキから「本当の名前を誰かに知られるということは、魂を握られるのと同じ」だと忠告されたばかりである。
「……どなたですか?」
震える声で、そう聞き返した直後に、トキの忠告を思い出した。
――誰かに呼ばれても答えないこと――
どうしよう。反射的に答えてしまった。
――怖くて体が震える――
「――大丈夫でございますか」
それまで黙って控えていた従者が、結を庇うように、すっと前に出た。
「市女笠の紐を、しっかりお結びください」
言われるがまま、結は慌てて紐を結び直した。
男性は、凍りついたように立ち尽くした。何かを言おうと、唇が動く。けれど、言葉にはならなかった。
数秒の沈黙が長く感じる。その人は静かに目を伏せた
「人違い……かもしれません――失礼、いたしました」
「――お引き取りを」
従者が、静かに、けれどきっぱりとそう告げた。
男は一度、踵を返しかけた。けれど、そのまま歩き去ることができないというように、その場に留まったまま、動けずにいるようだった。
男性が動かないのを見て従者が結を促す。従者にせき立てられ、先ほどよりも足早に社への道を急いだ。一度だけ、従者に気づかれないよう、そっと振り返る。
まだ、そこに立ってこちらを見つめている男の姿があった。
結は自分の胸に手を当てる。鼓動が、まだ治まらない。怖かったはずなのに、それだけではない何かが、そこに残っていた。理由のわからない、疼くような感覚。
――今の人、誰だったんだろう。
声に、聞き覚えがある気がする。
本当に、人違いなんだろうか。結の顔を見た瞬間、迷いなく名前を呼んだ、あの確信めいた響き――あれが、ただの見間違いだとは、どうしても思えなかった。
考えても、輪郭を結ぶ前に、すぐにまた形にならず消えてしまう。
社までの道を、結は最後まで思い出せないまま歩いた。
***
屋敷に戻ってからも、結の動悸はなかなか治まらなかった。
夕刻、屋敷の外を巡る板敷きの縁側に出た結は、庭先の露草に目を留めた。
夜露を受けて震える、淡い青。
結は小さく息を吐いて、気持ちを切り替えた。
もう、ここで何をすればいいのか誰かに聞いて、ただ待つだけの自分ではない。
この時代で、自分の足でどう生きていくか――それを考え始めている自分に、結は小さな驚きを覚えていた。




