平安編 第21話 几帳の内側 (前編) (平安編 1)
目を開けると、まず耳に届いたのは、衣擦れの音だった。
絹の重なり合う、しゃらり、という涼やかな音。見上げれば板張りの高い天井、御簾越しに差し込む淡い光。結が立っていたのは、いくつもの棟が渡り廊下でつながった、寝殿造りの屋敷の片隅だった。
「今度は、ずいぶん静かなところに来たね」
隣にはいつも通り、トキが立っていた。ただし、その支度はいつもよりずっと簡素だ。
「今回は、これだけ」
差し出されたのは、几帳の陰でそっと着替えるための薄い衣一式。それと。
「あとは、ちょっとした口利き」
「口利き?」
「うん。ここの女房頭に、話は通しておいた。名前は――」
トキが軽く指を鳴らすと、結の中に、するりと新しい名前が馴染んだ。
「小夜。今日からあなたはそう呼ばれる」
自分のものではない名前を、すんなりと受け入れている自分に、結は少し戸惑った。
板張りの床、御簾越しの光、絹の衣擦れ(きぬずれ)の音――どれも初めて目にするものばかりのはずなのに、肌に触れる空気のどこかに、覚えのある懐かしさがあった。理由はわからない。それでも、この国の匂いや、光の色合いや、遠くから聞こえる衣擦れの音の一つひとつが、初めての場所には思えないほど、すっと身体に馴染んでいく。
――この国、知ってる気がする。
そんな予感だけを胸に、結はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
「――およそ千年前。ここは、平安時代だよ」
説明をしながら、トキは結の様子を見ていた。ここがどこの国か、気づくだろうか。そんな含みのある表情を浮かべている。
「平安時代……」
その言葉を耳にした瞬間、結の心臓が、どくん、と大きく跳ねた。すごく聞き覚えがある。よく知っている――そんな感覚が、腹の底から込み上げてくる。木造の建物も、この空気も、「懐かしい気がする」という以上の、親近感があった。
トキは結の懐かしむ様子を見てから、次の場所へ向かうように、几帳の方へ視線を向けた。
「今回も、あんまり側にいてくれないの?」
「うん。装束とちょっとした顔つなぎまで。あとは自分の足で歩いてもらうよ。行こうか。女房頭に、顔を見せておかないとね」
トキに促されて、結は女房頭のもとへ挨拶に向かった。女房頭は結の顔をしっかりと確かめるように見つめた。
「小夜と申します。よろしくお願いいたします」
深く頭を下げると、女房頭は値踏みするような目で結を一瞥し、それから小さく頷いた。
「トキ殿から話は伺っております。姫様付きということで。粗相のないよう、務めなさい」
「はい」
短いやり取りだったが、それで挨拶は済んだらしい。口利きと簡単な顔合わせだけで、あとは実際の働きぶりで信頼を積んでいくものなのだと、結は肌で感じ取った。
一通りの顔合わせを終えると、トキはそのまま几帳の向こうに姿を消してしまった。困ったら呼んで、とだけ言い残して。
そういえば、とふと思う。エジプトを発つ前、トキは「次の時代で、調べていた事について話してくれる」と言っていた。あれは、いつになったら聞かせてもらえるんだろう。
――さすがに、着いたばかりの今は、まだ話せることもないのかもしれない。
そう自分を納得させて、結は目の前の暮らしに意識を戻した。
***
小夜として出仕することになったのは、中流貴族の姫君、千早に仕える女房の一人としてだった。
ただし、女房である結がこの名を口にする機会はない。女房頭からも「姫様」「御前」とお呼びするようにと言い含められている。
姫君は、母方の伯父にあたる大納言家に、行儀見習いを兼ねて身を寄せているのだという。
実家は都から離れた中流貴族だが、こうして格上の親類の邸で行儀作法や教養を学ばせてもらうのは、よくあることらしかった。
「あなたが、新しく来た子ね」
御簾の内側、几帳の陰から聞こえてきたのは、思いのほか若く、頼りなげな声だった。
「今日からお仕えします。小夜と申します」
「よろしくね。……あの、変なことを聞くようだけど」
姫君は少し声を落とした。
「あなた、和歌は得意?」
「え……」
和歌、という響きに、結の中で何かが小さく波打った。五・七・五・七・七の、聞き覚えのあるリズム。
家族と札を取り合った記憶が、堰を切ったように蘇る。
お正月に親戚が帰ってくると、いつもみんなで百人一首をやっていた。自分は全部覚えていて、強すぎるからと、札を読む役目を任されていた。読み上げているうちに、途中から喉が痛くなったんだった――。
あまりに鮮明に、次々と像が浮かんでくることに、結自身が驚いていた。今まで、こんなにはっきりと思い出せたことなんて、一度もなかった。
(どうして、急に……)
「正直に言っていいのよ。私、本当に苦手で。歌会のたびに、恥をかいてばかりで」
姫君の声に、結ははっと我に返った。慌てて意識を目の前に引き戻す。
顔は見えない。声だけの向こうに、結は年下の姫君の、素直だけれど自信のなさそうな気配を感じ取った。
「……私は、和歌を覚えるのは得意なのですが、詠むほうは苦手です。お力になれず、すみません」
そう答えつつ、今思い出した事を忘れないように、結は胸の中でそっとその記憶をなぞり直した。お正月の匂い、家族の笑い声、喉に残った痛みまで――今はまだ、消えてしまわないでほしかった。
***
女房の仕事は、思っていたよりずっと忙しなかった。
姫君の身支度、髪を梳くこと、来客への取り次ぎ、退屈な午後の話し相手。給金というものはなく、代わりに季節ごとの絹の反物や食事、部屋があてがわれる。
「ここでは、お金というものがないんですね」
先輩の女房に尋ねると、くすりと笑われた。
「お金? ああ、都でも近頃はあまり流通していないのよ。お米や絹の方が、よほど頼りになるもの」
なるほど、と結は思う。この時代もまた、独自の理屈で回っている。
けれど、一番戸惑ったのは、顔を見せない、という決まりごとだった。同じ主人に仕える女房同士は顔を見せ合うが、男性はおろか他家の女房にすら、素顔をさらすことはない。声と、几帳の隙間からわずかに覗く衣の色だけで、人となりを察するしかない。
「声とわずかに覗く着物の色だけで見分けるのは難しいです」
思わず先輩の女房に愚痴ると、くすっと笑われた。
「そう? 生まれた時からずっとこうだったから、難しいなんて、考えたこともなかったわ。でも……こうして声だけで話していると、案外、素直になれるものよ」
その言葉に、結はなるほどと頷いた。
だけど、声やわずかに覗く衣の色を頼りに人を見分けたり、話したりする……。
果たして、この先そんな事が自分に出来るようになるのだろうか。
結は一抹の不安を覚えた。
※本作に登場する生き霊や平安時代の文化・歴史などの描写は、作者が独自に調べた情報に基づいています。できる限り史実に近づけるよう努めておりますが、一部に誤りや独自の解釈が含まれている可能性がございます。あらかじめご了承ください。




