エジプト番外編 タメクと妻の思い出・後編 いちじく桑の木陰
それから幾日か経った夕暮れ、タメクは工房の裏手にある小さな庭へ、結を連れ出した。
「見せたいものがある」
そこには、まだ若い一本の木が立っていた。丸みを帯びた葉を茂らせ、夕陽を受けてやわらかく揺れている。
「これは……?」
「いちじく桑の木だ。所帯を持った年に、二人で植えた」
タメクは、幹にそっと手を触れた。
「『いちじく桑の貴婦人』とも呼ばれる、豊穣と愛を司る女神様――ハトホル様がな。死者があの世へ渡る道すがら、この木の陰で、パンと水を与えてくださるという言い伝えがあって。……いつか、どちらかが先に逝っても、この木の下でまた会えるように。そんな話を、あいつとしたことがある」
タメクは、木の幹に目をやった。
「二人で、決めたんですか」
「ああ。ネフェルトが言い出したことだ。『私が先でも、あなたが先でも、ここで待ち合わせましょう』ってな」
タメクは、静かに笑った。
「あいつが逝った日、俺は真っ先に、この木の下に来た。もしかしたら、本当に会えるんじゃないかと思って」
「……会えましたか」
「いや。何も。いちじく桑の木が立っているだけだった」
タメクは、木漏れ日を見上げながら続けた。
「それから、毎日ここへ来たけど会えなかった。それで、徐々に行かなくなった。だが最近になってようやく分かってきたことがある」
タメクは一度言葉を切ると、気恥ずかしそうに笑った。
「目に見えないだけで、多分あいつの魂はここに来ているんだろうなと」
「ここに来ると、よく思い出すんだ、値切りに失敗した事に気付かず威張っていた顔も、下手な鼻歌も、震える手で俺の手を握ってきた、あの夜のことも。全部、俺の中で、まだ生きてる」
タメクは、木の幹をもう一度、そっと撫でた。
「妻の顔を描き上げるまで、長い時間がかかった。思い出すのが、怖かったからだ。でも今は――
こうして誰かに話す事で、こんなに心が楽になるとは思わなかったよ」
夕風が、いちじく桑の葉を静かに揺らした。
***
タメクの話が終わると、太陽は沈みかけていた。
「聞かせてくださって、ありがとうございます」
結がそう言うと、タメクは小さく頷いた。
「こっちこそだ。あんたが聞きたいと言ってくれなけりゃ、また一人で抱えたままだったろうな」
結の胸に、そっと温かいものが広がった。同時に、ふと浮かんでくる思いもあった。
「タメクさんは、もう怖くないんですか。思い出すことが」
「まだ、少しは怖いよ。ただ怖くても、思い出す方を選べるようになった。これからは、今まで忘れてた分も思い出したい。それだけだ」
結は、その言葉を、そっと胸の内にしまい込んだ。
いつか自分も、そう思える日が来るのだろうか。
その夜、いちじく桑の梢の向こうで、星が一つ瞬いていた。




