エジプト番外編 タメクと妻の思い出・中編 水路のほとりで
翌日の夜、タメクは筆を置くと、自分から切り出した。
「昨日の続き、聞くか」
「はい、聞きたいです」
結が身を乗り出すと、タメクは少し目を伏せてから、また語り始めた。
***
ナイルの水嵩が増す季節――氾濫の頃合いが近づくと、川は普段よりずっと荒々しくなる。水辺で仕事をする女たちには、いつも以上に用心するようにと、村では言い伝えられていた。増水期は、ワニが餌を求めて、村に近い水路にまで上がってくることがあるからだ。
「その日は、ちょうど氾濫の始まる少し前でな」
タメクは、そう前置きをした。
ネフェルトは、朝から水路のほとりで洗濯をしていた。歌うことが好きで、この時ばかりは誰に聞かれても気にせず、大声で歌っていた――もっとも、音程はいつも派手に外れていたが。
「本人はいつも、自分は歌が上手いと信じて疑わなかった」
タメクは苦笑しながら続けた。
その日も、ネフェルトは鼻歌交じりに布を洗っていた。だが、川面が不自然に揺れたことに、彼女は気づかなかった。
水面の下、褐色の背に藻をまとった長い影が、音もなくこちらへ近づいていた。
「――ネフェルト、動くな!」
少し離れた場所で仕事をしていたタメクが、異変に気づいて叫んだ。
「え……?」
振り返ったネフェルトの目に映ったのは、水際からわずか数歩先、水面から静かに持ち上がる、ワニの背だった。
「動くな。ゆっくり、こっちへ来い」
タメクの声は低く、けれど震えていた。ネフェルトは、恐怖で足がすくみ、その場から一歩も動けなかった。
近くにいた村人たちも異変に気づき、口々に叫び声を上げる。誰かが、犬を蹴散らすための棒を投げつけた。ワニは一瞬怯んだように見えたが、それでも水際から動こうとしない。
「パネブ! 太鼓を!」
タメクが叫ぶと、市場帰りのパネブが、駆けつけながら手近な壺を叩き始めた。周りにいた人も、口々に大声で叫んだり、手近にある壺を叩き始めた。大きな音と人の声に、ワニは苛立ったように尾を打ちつけた。
その隙に、タメクは一気に駆け出し、ネフェルトの腕を強く掴んで引き寄せた。
二人がもつれるように水際から飛び退いた直後、ワニは大きな水音を立てて川へと戻っていった。
***
「――怖かった、な」
タメクは、そこで一度言葉を切った。
「あいつは、しばらく声も出せずに震えていた。いつも気丈な女だったのに、あの時ばかりは、俺の腕にしがみついたまま離れなかった」
その夜、床に就いてから、ネフェルトはタメクの手を強く握った。
「手を握っていてもいい?」
震える声で、そう囁いた。
「ああ」
タメクが労わるように、そう答えるとネフェルトはようやく、少しずつ息を整えていった。
「それから、あいつは毎晩、寝る前に俺の手を握るようになった。何も言わずに、ただ握ってくる」
「――その時の、怖い記憶がずっとあったから?」
結が呟くと、タメクは静かに頷いた。
「本人は、そのことを一度も口にしなかった。俺も、聞かなかった。でも、たぶん、あの日のことを、忘れられずにいたんだと思う」
「握られると、俺も、何も言わずただ握り返した。それだけで、あいつの息が、少しずつ落ち着いていくのがわかった」
結の胸に、じんわりと温かいものが広がった。何も言わずに手を握る、という小さな仕草の裏に、こんな出来事が隠れていたなんて。
「タメクさん、その後、ワニは……」
「二度と、あの水路には近づかなかったよ。村の男衆で、しばらく見張りを立てたりもしてな」
「良かった……」
「ああ。良かった」
タメクは、そう繰り返しながら、どこか遠くを見るような目をしていた。




