エジプト番外編 タメクと妻の思い出・前編 値切り上手(のつもり)
結は洗った顔料皿を並べながら、ふと切り出した。
「タメクさん。前に言ってた、奥さんとの値切りの話。もっと詳しく聞きたいです」
タメクの手が、筆の穂先を整える手を止めた。
「……そんな話、したか」
「しました。『俺よりよっぽど交渉が下手で、それでいて本人はいつも上手くやったつもりでいた』って」
「よく覚えてるな」
タメクは苦笑いすると、しばらく灯りの芯を見つめてから、ぽつりぽつりと話し始めた。
***
まだ二人が所帯を持って間もない頃の話だ。
村の入り口に立つ市場は、十日に一度の休みの日になると、近隣の農夫や漁師が魚や麦、壺や籠を並べる、ちょっとした賑わいを見せていた。
「今日は私が、うんと安く買い物をしてみせます」
ネフェルトはそう言って、市場へ乗り込んでいった。タメクは半歩後ろから、そっとついていく。
目当ては、祭りの日に着る麻布だった。露店の主は、村でも指折りの交渉上手として知られる男――パネブだ。
「おや、タメクの奥方じゃないか。今日はどれがお望みで?」
「この麻布、いくら?」
「そいつは上物でね。大麦二十升ってところかな」
「高いわね! 十升はどうかしら」
ネフェルトは腰に手を当て、自信たっぷりに言い放った。タメクは、思わず横で息を呑んだ。
(値切るにしても十升じゃ、安すぎる……大丈夫か?パネブは交渉上手なんだぞ)
「十升では、安すぎる。とてもじゃないが売れないなぁ。……うーん。では十八升でどうですか?」
「ちょっとたかいわね。十六升にして!」
「イヤイヤ・・・・十八升です」
「仕方がないわね。そうだわ!十七升半で手を打ちましょう!」
「奥さんには、負けましたよ。十七升半で売りましょう」
ネフェルトは満足げに麦の袋を差し出した。パネブは、笑いを噛み殺すような顔で麻布を渡す。
「ありがとうございます、奥様! いい買い物をしましたよ、あなた」
意気揚々と歩き出す妻の背中を見ながら、タメクは何とも言えない顔をしていた。
***
家路につく道すがら、遠くから半笑いの声が追いかけてきた。
「ネフェルトさん、さっきの交渉、傑作だったわ!」
隣に住むメリトが、笑いを堪えきれない様子で駆け寄ってきた。
「何が傑作なの?」
「あの麻布、いつもは十二升くらいが相場よ。パネブさん、十七升半で売れて、今日はさぞご機嫌でしょうね」
ネフェルトの足が、ぴたりと止まった。
「……え?」
「タメクさん、知ってたんでしょう?」
メリトに水を向けられ、タメクは慌てて目を逸らした。
「い、いや、俺は……」
「あなた!」
ネフェルトが、頬を膨らませてタメクの腕を叩く。タメクは、たまらず声を上げて笑い出した。
「悪い。あんまり自信満々だったから、言い出せなかった」
「ひどい! 次はちゃんと教えてよ!」
そう言いながらも、ネフェルト自身も、しまいには一緒になって笑い出してしまう。
「それにしたって、十七升半って、半端な数字までよく思いついたわね」
メリトが、まだ笑いの余韻を引きずりながら言った。
「それは、私も自分でびっくりしたわ。なんだか、突然ひらめいたのよ!」
胸を張るネフェルトに、タメクとメリトは、また揃って吹き出した。
***
「――結局、その麻布はどうなったの?」
結が尋ねると、タメクは懐かしそうに目を細めた。
「祭りの日、あいつが得意げに着て歩いてたよ。高い買い物をしたことなんて、すっかり忘れた顔で」
「タメクさんは、それから何回、市場について行ったんですか」
「毎回だ。毎回、危なっかしくて目が離せなくてな」
そう言うタメクの口元には、確かに笑みが浮かんでいた。けれど、その先を続けようとした時、少しだけ声が沈んだ。
「――ただ、あの日の後、もう一つ、忘れられない出来事があってな」
「もう一つ……?」
タメクは、しばらく黙っていた。
「今日はもう遅い。続きは、また今度話そう」




