第2話 玄関は開けた、だが誰も靴を脱いでくれない
数日後。
僕は再び、文芸部室の扉を叩いていた。
ガラリと開けた視線の先、雨宮先輩は相変わらず部室の隅にいた。
今度は激辛ペヤングをすすっている。
「だろうの王」の主食は、どうやら常に麺類らしい。
「先輩。タイトル、直してきました」
僕はスマホを突きつけた。
画面には、あれから血の滲むような推敲――という名の妥協と格闘――を重ねた新しいタイトルが躍っている。
『祖父の形見の傘が折れた日、僕はようやく別れを知った――十四歳、大雨の踏切で立ち尽くした僕と、遺された記憶の物語』
前半の文学的な響きを残しつつ、後半に「年齢」「状況」「ジャンル」を詰め込んだ。
我ながら、プライドとサイトの流行をギリギリでブレンドした傑作だ。
あらすじ欄にも、二百字の本文からエッセンスを抽出した紹介文をしっかり書き加えた。
先輩は激辛麺を口に含んだまま、僕のスマホを凝視した。
ごくり、と喉が鳴る。
「……ふむ。玄関に『表札』と『チャイム』はついたな」
「合格ですか!?」
「いや、赤点から脱出しただけだ。で、数字はどうなった?」
僕はごくりと唾を飲み込み、画面をスワイプしてアクセス解析を開いた。
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【現在のステータス】
・PV:42
・ユニークユーザー:18
・総合評価:0ポイント
・ブックマーク:0
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「動いた……!」
僕は声を震わせた。
「ゼロじゃありません! 見てください先輩、四十二回もページが開かれたんです! 地球上のどこかの誰かが、僕の小説のタイトルをクリックして、中に入ってきたんです!」
大進歩だ。
ゼロとフォーティーツーの間には、宇宙ほどの隔たりがある。
なおき賞への第一歩が、確かに今、刻まれたのだ。
しかし、先輩は箸を置くと、気の毒なものを見るような目で僕を見つめてきた。
「おい、喜びの舞を踊る前に、現実を見ろ」
「現実って、アクセスが増えてますよ?」
「評価とブクマの数字を読んでみろ」
「……ゼロ、ですけど」
「そうだ。四十二回も玄関のドアが開いたのに、誰一人として靴を脱いで上がってくれていない。つまり、全員が『あ、すんません間違えました』って秒でブラウザバックしたんだよ」
秒で、ブラウザバック。
その言葉が、僕の胸に鋭く突き刺さる。
「なんでですか! タイトルを見て、納得して入ってきたはずです! そこにあるのは、僕の魂の二百字ですよ!?」
「魂が重すぎたんだろ。お前、本文の一行目は変えたのか?」
「いえ……そこは変えていません。『雨の日、祖父の遺した傘を差して歩いた』です。これのどこが悪いんですか。静かで、情緒があって、最高じゃないですか」
先輩はため息をつき、エナジードリンクを一口飲んだ。
「お前さ、自分が『だろう』の読者になったつもりで想像してみろ」
「だろうの読者……」
「夜、ベッドの中で、スマホを片手に、片手間で小説を探してる。そこで『大雨の踏切で立ち尽くした』っていう刺激的なタイトルに惹かれてクリックしたとする」
「はい」
「……で、最初の一行目がそれだ」
「綺麗ですよね」
「かったるいんだよ」
「かったるい!?」
文学に対する最大の侮辱だ。
僕は思わず拳を握りしめた。
「読者はな、タイトルで『踏切』とか『別れ』っていうドラマを期待して入ってきてるんだ」
先輩は赤ペンを指に挟み、くるくると回した。
「なのに一行目が『雨の日、傘を差して歩いた』。状況説明から入るな。カメラを引いた位置に置くな。そんなお上品なカメラワーク、最初の三行で飽きられる」
「じゃあ、どうすればいいんですか! 『うおおお! じいちゃんの傘が折れたアアア!』とでも始めればいいんですか!?」
「極端だな。だが、勢いとしてはそれくらいでいい」
「それくらいでいいんですか……」
「いいか。文学の基本は『起承転結』かもしれないが、ネット小説の基本は『結承転結』だ」
「結承転結?」
「まず、一番感情が動くところ、あるいは一番謎めいている瞬間を一行目に持ってこい。読者の胸ぐらをつかんで、無理やり家の中に引きずり込むんだよ」
「胸ぐらを……」
「そうだ。お前の小説の核はどこだ? 最後の一文だろ」
先輩は僕のスマホ画面を指で叩いた。
「『僕は濡れながら、初めて祖父を失ったのだと思った』。これを、一行目に持ってこい」
「えっ!?」
僕は絶句した。
「そ、そんなことをしたら、最後の大サビの感動がなくなってしまいます! 余韻が台無しです!」
「なくならない。むしろ、最初にその結末――感情を提示することで、読者は『なぜこの少年は、雨に濡れながらそう思ったんだろう?』という謎を抱えて、次の百九十字を読んでくれるようになる」
「でも……」
「お前のはただの二百字だ。最初からクライマックスで突っ走って、ちょうどいい長さなんだよ」
最初から、クライマックス。
僕はスマホの画面を見つめた。
自分の書いた、完璧だと思っていた二百字。
パズルのピースを組み替えるように、最後の一文を一番上に持ってくる。
【修正案】
僕は濡れながら、初めて祖父を失ったのだと思った。
雨の日、祖父の遺した傘を差して歩いた。
――中略――
パキリ、と音がして、骨が折れた。
頭の中で音読してみる。
……あ。
「……つながる」
「だろ?」
先輩がニヤリと笑った。
「一行目で感情を爆発させて、そこから回想に入り、最後に傘が折れて現実に引き戻される。こっちの方が、短い文字数の中でドライブ感が生まれる。読者が最後まで読む理由ができるんだ」
悔しい。
悔しいけれど、先輩の言う通りに変えた方が、圧倒的に「先が読みたくなる」文章になっていた。
「なおき賞の選考委員は、最後まで読んでから評価をくれる。だが、『だろう』の読者は、一行ごとに『次を読むかどうか』のオーディションを行っているんだ。一瞬でも退屈させたら、その時点で落選だ」
雨宮先輩は、激辛ペヤングのパックをゴミ箱に放り投げた。
「さあ、玄関の鍵は開けた。次は、上がってきた読者に『お茶』を出す時間だ。一行目を入れ替えて、もう一度投稿してこい」
「……わかりました」
僕は部室のパイプ椅子に座り、スマホの更新画面を開いた。
文章を並び替える。
僕のこだわりが、プライドが、ネットの荒波に合わせて形を変えていく。
だけど、不思議と「魂」が擦り減った感覚はなかった。
むしろ、研ぎ澄まされていくような――。
「よし、更新しました」
「結構。じゃあ、今日の放課後はもう終わりだ。俺はこれから新作のプロットを書くから邪魔するな」
「先輩、ちなみに先輩のその累計一位の小説って、どんな話なんですか?」
気になって聞いてみた。
トップクリエイターの作品。
読者の胸ぐらをつかむ一行目。
タイトル、導入、構成、引き。
それらが全部詰め込まれた、いわば実物教材である。
雨宮先輩はエナジードリンクの缶を掲げ、平然と言った。
「読めばわかる」
「タイトルくらい教えてくださいよ」
「いいぞ」
先輩はスマホを操作して、僕に画面を見せてきた。
そこには、信じがたいほど長いタイトルが表示されていた。
『【悲報】なろうの王、純文学の行間が読めない
〜読者に媚びすぎた俺が、最強のハイブリッド小説を目指す件〜』
「……文学をナメてます?」
「バカ言え。究極の状況説明だろ」
「究極すぎて、情緒が事故死してますけど」
「だが、何の話か一秒でわかる」
悔しいことに、それはそうだった。
タイトルを見ただけで、だいたいの構図はわかる。
なろう。
純文学。
行間。
読者に媚びること。
最強のハイブリッド小説。
ふざけている。
ふざけているのに、今日、先輩が僕に言ったことが全部入っている気がした。
「これ、本当に先輩の累計一位作品なんですか?」
「そうだ」
「こんなタイトルで?」
「こんなタイトルだからだ」
先輩は、空になったエナジードリンクの缶を軽く振った。
「読者はタイトルで玄関に来る。一行目で靴を脱ぐ。三行目で椅子に座る。そこまで連れていけたら、ようやく本文の勝負だ」
「……じゃあ、この作品の一行目は?」
「自分で読め」
先輩はそう言って、スマホのURLを僕に送ってきた。
通知音が鳴る。
僕の画面に、先輩の作品ページが開いた。
さっきまで自分のPVとブックマークに一喜一憂していた画面とは、まるで別世界だった。
桁の違うPV。
桁の違うブックマーク。
並んだ感想。
そのすべてが、僕には遠い山脈のように見えた。
「……読んでいいんですか?」
「公開してるんだから読めよ。読者だろ、お前も」
「僕が読者……」
その言葉が、妙に胸に残った。
僕は作者のつもりでいた。
なおき賞を目指す、書く側の人間だと思っていた。
けれど、投稿サイトに作品を出した瞬間、僕は読まれる側になった。
そして、誰かの作品を開いた瞬間、僕は読む側にもなる。
作者と読者。
その境目は、思っていたよりずっと薄いのかもしれない。
「じゃあ、帰ってから読みます」
「今読め」
「えっ」
「一行目だけでいい。今読め」
雨宮先輩は、いつになく真面目な目で僕を見た。
「お前、今日一行目の話をしたばかりだろ。だったら一行目だけ読んで帰れ」
そこまで言われると、逆らえなかった。
僕はスマホの画面をスクロールし、第一話を開いた。
タイトルは、
第1話 ステータス・オープンと、1行の絶望。
すでに少し腹が立つ。
ステータス・オープンと絶望を同じ皿に盛るな。
僕は心の中でそう突っ込みながら、本文の一行目に目を落とした。
俺の名前はダロウ。
短い。
あまりにも短い。
けれど、次の一行で、僕の指は止まった。
WEB小説帝国『なろう』を統べる、絶対王者である。
「……あ」
僕は思わず声を漏らした。
誰が。
どこで。
何を背負っているのか。
たった二行で、全部わかった。
しかも、わかった瞬間に思ってしまった。
こいつ、絶対に負ける。
この偉そうな王は、きっと何かに叩き潰される。
そして僕は、その場面を少し見たくなってしまっていた。
「どうだ?」
先輩が聞いてきた。
「……腹立ちます」
「褒め言葉だな」
「でも、続きが少し気になります」
「それも褒め言葉だ」
雨宮先輩は満足そうに笑った。
「いいか。文学っぽい一行が悪いわけじゃない。短い一行が偉いわけでもない。大事なのは、その一行を読んだ人間が、次の一行に進みたくなるかどうかだ」
僕は画面を見つめたまま、何も言えなかった。
さっき、自分の文章の一行目を入れ替えたばかりだった。
それだけで、僕の二百字は少し変わった。
そして今、先輩の小説の二行目を読んだだけで、僕は続きを読みたくなっている。
悔しい。
ものすごく悔しい。
でも、面白い。
「……帰って、読みます」
「おう。読んだら感想よこせ。星も入れろ」
「そこは俗っぽいですね」
「作者は霞を食って生きてないんだよ」
やっぱりこの先輩、参考になるのかならないのか、時々わからなくなる。
◇
僕は苦笑しながら部室を後にした。
スマホをポケットに放り込み、自転車にまたがる。
夕方のロータリー。
赤信号で止まった拍子に、僕は我慢できずにスマホを取り出した。
まず、自分のマイページを開く。
PVは、相変わらず「42」のままだ。
一行目を変えた効果が、すぐに出るわけはない。
だが。
画面を一番下までスクロールしたとき、僕の心臓がどくん、と跳ねた。
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・総合評価:2ポイント
・ブックマーク:1
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ゼロが、イチになった。
世界の誰かが、僕の家に入ってきて、靴を脱ぎ、そこに足跡を残していった。
「……しゃあ」
誰もいない交差点で、僕は小さくガッツポーズをした。
なおき賞への道は、まだ果てしなく遠い。
だけど、ネットの片隅で、僕の二百字が確かに誰かの心を動かしたのだ。
信号が青になる。
僕は自転車を漕ぎ出そうとして――ふと、スマホに残っていた先輩の作品ページをもう一度見た。
『【悲報】なろうの王、純文学の行間が読めない
〜読者に媚びすぎた俺が、最強のハイブリッド小説を目指す件〜』
ふざけたタイトル。
ふざけた設定。
でも、なぜか胸の奥に引っかかっている。
読者に届くこと。
それでも、自分の書きたいものを捨てないこと。
今日、先輩が言っていた言葉の答えが、この物語の中にある気がした。
僕は、もう一度第一話を開いた。
俺の名前はダロウ。
赤信号が、青に変わる。
けれど僕は、しばらくその場から動けなかった。
次の一行を、読んでしまったからだ。
(第2話・了)




