身体双極性転換
「稜、そろそろおきなさい。母さんもう行くからね」
母が扉の向こうから声を掛ける。出張で3日間家を開ける時、母はそのことを伝えない。
「わかった〜」
返事をした時点で察することはできた。が、寝起きすぐの脳は自分の体に起こった異変に気づくことができなかった。
それから五分後、ベットから体を起こし、洗面所で顔を洗った。タオルで顔を拭き、鏡に写った自分と目を合わせる。その日の日課の流れはいつもと変わらなかった。ただ、起こった現象は違った。
鏡に写った自分は自分ではなかった。少なくともこんな人物は稜の記憶の中にはなかった。
「えっ、だれ?」
あまりにも非現実的な出来事に理解が及ばず思考が停止する。呆然と鏡の中の自分と見つめ合うこと数分。
「これ、私?」
不意に口から放たれた自分の言葉にすら恐怖を感じる。〝私〟なんて言葉は使ったことがない。稜の混乱は収まるどころか益々増していく。
「なんで女になって……」
この世界では稀に世界の不具合と呼ばれるものが発生することがある。その中でもいちばん有名な症状は心体双極性転換症候群だ。その名の通り体の性が男と女の二極に分けたとき、元の性別とは反転してしまうものである。そのため外見は、最初から中性的な状態であることが多い。
勿論、例外もある。巨大な体躯を持つ無骨な男が、その筋肉のまま転換し、体が壊れてしまうといったケースも実際起きている。
「あまり女子に興味が湧かなかったのはそういうこと……?」
意外にも、稜は冷静だった。
「どうしよ、今日の送別会行けるかな…多分、稜ってことわかんないよな」
そう、外見は中性的な見た目だったのが、転換すると、その性別にあった見た目へと変わるのだ。元の姿の欠片もない。更に、転換してから一ヶ月程は容姿が変動し、なかなか安定しない。
「えぇ……ッッッ!?」
どうしようか悩んでいると突如、激しい目眩と吐き気が稜の身を襲う。時刻は午前六時丁度。その場に倒れ込んでしまいたい衝動を抑えつけながらリビングのソファまでなんとか辿り着き、そのまま横たわる。
「まずい………助けが呼べない……」
ソファについたは良いものの、それから回復が見込めなければ意味がない。生憎母は今日からいない。救急車を呼ぼうとした次の瞬間、玄関のチャイムが押され、鳴った。人影が見えたが、確認する気力も体力もない稜はそのまま動かない。すると。
「おーい、りょうー、一緒に行こうぜー」
颯真の声が、玄関から聞こえてきた。彼なら助けてくれるかもしれない。そう思い立ち、残り僅かの体力と満身創痍の体に鞭を打ち、ソファから立ち上がる。
「開けるぞー?」
その言葉と同時に玄関の扉が開き、稜が膝から倒れこむ。ドサッという音とともにその体をすかさず受け止める。鞄を脱ぎ捨てて稜を支える颯真。
「稜、大丈夫!?」
彼は稜を迷うこと無く稜と呼んだ。そうして彼女の体を抱き上げ、ソファまで運ぶ。暫くしてから颯真が口を開く。
「稜さ、心体二極性転換症候群だよね?」
いきなり核心を突く問いが投げかけられた。いつの間にか目眩、吐き気は収まっていて、体を起こすことが出来た。
「……多分、そう。確証はないけど、それ以外にありえないからね」
「そっか。だからか」
「え、だからかってどういうこと?」
意味深な発言に眉を顰める。というよりかは小首を傾げる。
「いや、独り言だ。気にすんな」
颯真はそう誤魔化す。
「今日来れそうになさそうだな。終わった後にまた来ようと思うが、いいか?」
そう言いながら立ち上がり、稜に近づいてくる。
「大丈夫だけど、何か買ってきて。というか近い」
近づいてきた颯真を押しのけながら条件提示する。
「分かった。あと一つ」
少し間を開けて言う。
「ちょっと話したいことがあってな。その時間分、空けておいてくれ」
返事を待たず、颯真は去っていった。止めようとしたが、今度は激しい頭痛により、稜は意識を失いその場に崩れ落ちた。




