12 早朝×天使=サングラス必須
*
翌朝、前日の宣言通りにさっそく『彼』は現れた。
我が家の門扉のすぐ横――陽光を浴び、まるで天使が舞い降りてきたが如きその光景を前にして、私の背後で固まる弟。
「……何か日の下で見ると、余計に眩しいんですけど」
「同感だ。近々デパートに行ってサングラスを購入してこようと思ってる」
「俺の分もお願い」
「……ん、分かった」
弟の呟きに対し、こちらもやや声を潜めながら同意した。どうやら二つ分のサングラスがお目見えする日も近い。
「おはよう、遊里。あと君は……啓斗君で良かったかな?」
「おはようございます、未来の義兄さん」
「啓斗……」
さっそく弟が順応していた。
幼少の頃から『強者には従え』をモットーに穏便な人間関係を築くことに長けている弟だ。どこかでこうなることは予期していたものの、実際に目にすると複雑な胸中にもなる。
弟よ、姉は哀しい。
「じゃあ、あとはお二人で。朝練あるから先行くね、姉ちゃん」
「……朝練、ね」
足早に駆け去る弟を半眼で見送り、内心で思う。
運動部に所属しているなら兎も角として、美術部の弟に朝練が存在するとは驚きの事実だ。
「……相変わらず嘘が上達しないな」と零す姉心に対し、朝からさっそく背後霊化した天羽君は「可愛い弟さんだね」と返して来た。
まぁな、あれでいて可愛い弟だ。一番上の姉とは違った意味で、それなりに良好な関係を築いてきたと自負してきた。少なくとも先程まではそうだ。
身内からの離反者を二人数えるに至り「この世は儚いものだなぁ……」と現状ではしみじみしている。
あと、付け加えるとすれば――
「後ろからひっつくのも大概にしろ。歩きにくい」
「もう少し充電させて。遊里が足りない」
「知るか!……というか、待て。なんだその日本語は。意味が全く持って理解できないぞ」
「じゃあ説明してあげる。でも、その前にキスさせて」
「……」
言葉を介し、理解することを志半ばで放棄した。
ずるずる引き摺るようにして、バス停へ向かう。周囲の視線が痛いが、それを気にして立ち止まったら色々と終わる気がする。
何が、と聞かれても答えようがない。それでも強いて言うなら、自分のアイデンティティーというやつだろうな。心穏やかに生きるためには、時として鈍感力も必需なのだ。
「……遊里は本当に頑固だよねぇ」
「……重い、顎を肩に乗せるな。それに人のことが言えるのか?」
「ん? 自分は頑固というより、諦めるつもりが端から無いだけだよ」
「余計に質が悪い」
溜息を零し、俯いたところでふいに首元へ微かな吐息がかかる。
ぞわりと背筋を走り抜けたそれに、身を捩る間も無かった。後ろ背に響くリップ音。それに続く、微かな痛み。
周囲の少なくない通行人たちが一様に息を呑んだ様子を知覚した途端――みるみるうちに、頬に集まる熱。
「……な、な」
「んー、失敗したかな。遊里、そんな可愛い顔を周りに見せたら駄目だよ。今度からは人のいないところで印を付けるからね」
「この、阿呆っ……!」
「はいはい。そろそろ軌道も見切ったし、そう何度も当たらないよ?」
天高く突き上げようとした拳を、ぱしりと軽い音を立てて掌で受け止められた。それをまじまじと見上げ、ややあって思考が現状に追いついてくる。
涙目再びだ。対抗手段を封じられた以上、出来ることは限られてしまう。
僅か一日にして『見切られてしまった』らしい己の拳をしおしおと降ろしてこようとしたところで――ごく自然な動作で包み込まれていた。
絡み合う指と、蕩けそうな微笑み。
目の前で組み合わされたその形、いわゆる恋人つなぎというやつだろう。
「遊里、朝から死んだ魚みたいな目をしないで。流石に傷付くよ?」
「天羽君にそんな繊細なメンタルがある筈がない」
言い切って、死んだ魚の目をしたまま並んで歩く。
バス停まで辿り着いたところで、周囲に気を配る余力すら残されてはいなかった。
自然に集まってくる視線も、既知感を覚えるBGMも、全て左から右へとスルスルと抜けていく。
それをいいことに持ち上げられた指先を軽く食まれた時には、さすがに振り払ったものの。それ以外は、窓の外を見てぼやーんとしていた。
体力を失って休息を挟むように、心の疲れにも癒しは必要だ。
傍らの存在から意識を背け、朝の清々しい空気を吸い込み、忙しげに行き交うサラリーマンたちの背中を目で追う。
その視界を、不意に閉ざす陰。正体など今更だ。
被せられた手指の間から溜息を零した。
「……暇なのか?」
「僕以外の男を目で追わないで。あんまり遊里に自覚がないなら、一度家に閉じ込めて徹底的にその身体に教え込んであげようか?」
「朝っぱらからギリギリの発言をするな。公共の乗り物だぞ?」
「それが何? これはあくまでも僕らの問題で、他がどうこう言える話じゃない」
「僕ら、で括るな」
折よく学校前のバス停へ到着したところで、言い差してそのまま立つ。
相変わらず手は繋がれたままだったが、これ以上拒否すれば後々どんな副反応が引き起こされるか分かったモノではない。
仕方もなく、そのままでバスを降りて校門へ向かって歩を進めた。
ざわりざわりと、周りの空気が揺れている。遠くの方で上がる悲痛じみた声とそれを慰めるような数人の声を聞きながら、果たして今日一日でどれだけの人数の女子が目を腫らすことになるのだろうと遠い目にもなる。
恋というモノは、往々にして本質を知らずにいられればこそ甘く幸福なままであれる。
いつであったか姉がぽつりと零していた言葉を思い出し、今ならば成る程なぁと頷けた。
校庭を進み、ホールを抜け、階段を駆け上がり、教室へと早足で向かう。
たったそれだけの過程を『二人で』するだけで多大な心労が蓄積することが判明した。
既に音を上げたい。もう無理だ。本当に美形というモノは、疲労度と隣り合わせの存在だ。
平穏とはかけ離れた生活サイクルを余儀なくされるものだと思い知る。
B組のドアを潜り、事情を知るクラスメート達からの労わりに満ちた眼差しを受けた途端にじわりと目頭が熱くなった。昨日の今日で泣いたところで、彼らならばこの気持ちを分かってくれることだろう。
湧き上がる安心感に、心なしか緩んでいた警戒心。
それが切っ掛けで、思わず口走ってしまった内心の声。
「もう、別れたい」
「へぇ……それを僕が許すと思うの?」
すぐ上の方から、魔王の声がした。
氷雪の如きその声に、心身ともに凍り付いたものは半数以上に上ったであろう。
「遊里?」
一見したところそれは天使の如き微笑みだ。けれども、その目は人一人を容易く凍り付かせてしまうほどの怒りに満ちている。
焔のようなそれに、こちらが折れる一連の流れ。それはもはや定例化しつつあった。
「……冗談だ。でもな、少しは此方の身にもなって欲しい」
「二度目は無いからね? 遊里が他からの反応に気を回すゆとりが無いくらい、これから先は朝から夜まで愛し尽してあげるよ。それでいい?」
「よくない。天羽君の耳は一体どういう構造になってるんだ。切実に疑問しか覚えないぞ」
「ふぅん、僕の耳に興味があるの? そんなに気になるなら、一度耳かきでもしてみる?」
「いや、いきなり耳かきは流石になぁ……」
「遊里が膝枕をしてくれるなら、毎日だって構わないよ?」
「それは耳が腐るだろう」
呆れ顔で返せば、この上なく幸福そうな微笑みが返って来た。
ホームルームの予鈴を聞きながら、この魔王と天使の共存体である『彼』との今後の関わり方について、今一度頭を悩ませる事となったのは言うまでもない。
「遊里、今日は晴れているからお昼は中庭で一緒に食べよう?」
「…………」
とうとうお昼休みまでも占有された現状に、何も言葉を返せないまま午前の授業はスタートした。




