第32話 如何にも、英雄こと
今度こそアリエッタが本当に去ろうとした時、「待って」と誰かが呼び止めた。
その声は扉越しからなのか少しくぐもって聞こえる。
「何ですか。早く帰りたいのですが」
「……エルラは、まだ帰っていないか」
ちら、と隣を見えればまだ苛立っていそうなエルラが目に入る。こんな彼女を見せたらネフィシーはいつものように萎縮しそうだ。
「はい。まあ、居ますが」
「少し、エルラと話がしたい」
その声を聞けばエルラがびくりと震わせる。複雑な表情をして、大きく首を横に振っていた。
「ま、まあ。このわたしと会いたいというのなら会っても良いわよ。わたしは、ネフィシーと会いたいだなんて微塵にも思っていないけれどね!」
「ということですので、会うのは問題ないかと」
わざわざ高らかに宣言することではない。久しぶりに会って会話したいと息巻いていたエルラは何処へいった。
だが、会いたいのに会いたくないと言ってしまう気持ちは何故か共感できてしまった。アリエッタなら、素直に言葉で伝えられる自信はあるのに。
「では、私は用済みですので、帰らせていただき……。何ですか?」
エルラが怯えたような何かを怖がっている表情でアリエッタにしがみついた。
「だって扉の先にいるのはネフィシーでしょ。確かに魔術の腕は凄そうだけれど。途中でぐわー、がおー! って化け物の咆哮を帯びてわたしを襲ってきたらどうするのよ」
獣が襲ってくるポーズをエルラは取る。残念ながら、そこに貴族の令嬢らしさは皆無に等しかった。何かを失っている。
エルラはネフィシーにどんな印象を抱いているのだろう。まだ化け物という言葉を信じていたのか。
「その時は討伐しましょう」
「え、殺すの? 嫌よ。できればネフィシーとはまだ……」
エルラは目を細めて扉をじっと見つめる。人差し指をこねこねさせて動かしていた。
会話の内容に合わせて適当なことを言ってしまった。失敗した。
「大丈夫ですよ。襲ってきたりなどしません」
今までのネフィシーを見てきた者なら縦に頷いてくれるだろうが。恐らくエルラには何も響かないだろう。偏見が巨大化しすぎて制御不能になっている。
エルラは手のひらをぽん、と叩いて閃いた表情をした。
「名案、思いついたわ!」
「ほう、何でしょう。聞くだけいたしましょう」
どうせ碌なこと言わないんだろうなと思いつつも否定的な言葉は避ける。こういう人種は聞いてくれる人がいるだけで喜ぶから。
「竜討伐の英雄! 竜討伐だけではなくあなたが体調を壊した時にも親身に寄り添ってくれた方がいるじゃない。ねえ、その青年に連絡をとっていただける? エルラ嬢がお呼びですって」
素晴らしいと言わんばかりにエルラは胸を張る。
何故アリエッタが英雄の連絡先を知っている設定になっている。そもそも竜討伐の英雄なんて謎めいた人物は存在しないのに。まだ存在を信じきっているエルラが不憫に思えてきた。
「その英雄に化け物を討伐してもらうのよ! 討伐してもらうのに加えてわたしは、彼をもう一度拝める……。まさに一石二鳥ね」
何故かネフィシーが悪しき討伐すべき化け物という前提で話が進んでいた。討伐というより頭が英雄のことでいっぱいいっぱいである故の発言なのだろう。
恋とは恐ろしい魔術だな、と思った。平静を失い、正常な判断ができなくなる。
まあ、アリエッタには芽生えることなど決してないだろう、一生関わりのない感情だけれど。
「英雄はふたつ返事でしょう。いえ、むしろ自分を殺すことになりますからね。そういう意味では願い下げかもしれません」
あのネフィシーだ。断る、という言葉を知らなそうなネフィシーだ。
妙なところで頑固だが、流れに任されて頷いてしまいそうなのだ。将来、変な壺でも買わされそうだ。
「まあ。心も寛容。行動も完璧。わたしは将来の伴侶を見つけたわ!」
それは良かった。是非良い伴侶になってもらいたい。
自分を殺すことになる、という明らかに筋の通っていない発言はエルラには聞こえていないのか、彼女が触れることはなかった。
「ではいつお伺いを立てましょう」
「今すぐよ!」
「分かりました。今すぐですね。後戻りはできませんよ」
アリエッタはにこりと笑みを浮かべて最後の忠告をする。エルラは「ええ」と高揚を隠せない声で言う。いつ気がつくかと思っていたが一向に気が付かないようなのでもうそろそろ教えても良い頃合いだろう。
目の前の扉をノックした。
「ネフィシーさま。どうやら今から化け物討伐を依頼したい方が来たようです。よろしければ話を聞いてあげて……」
「ちょっと!」
エルラが声を荒げて、アリエッタの口を塞ぐ。邪魔だ、上手く喋れない。
「勘違いはやめてちょうだい! わたしはネフィシーじゃなくて英雄を呼んでいるの! ネフィシーとなんか関わりたくないわ」
エルラらしかぬ顔の歪みようで主張してくる。此処までやったのに何故気付かない。もしかして気が付かない演技でもしているのか。
エルラに抑えられた手をそっと退けて、アリエッタは口を開く。
「いえ、ネフィシーさまで良いのです。正解です」
「大間違いよ! どうして、どうして無理やりネフィシーに会おうとさせるの。わたしの言っていること理解している?」
胸ぐらを掴んできそうな勢いで必死に言葉を紡ぐエルラ。大人しく受け入れた方が身のためだと思う。これ以上恥を増やさないためにも。
「ええ。完璧に理解しているからこその行動です。エルラさま、あなたの方こそ間違っていますよ」
あんまり人間が間違っていると断定したくないが。許してほしい。
流石に面白がって、焦らすのも良くない頃合いに入ってきた。エルラのためにも。ネフィシーのためにも。
「とても、出てきづらいな。アリエッタ、余計なことを」
ようやく話がひと段落ついたと踏んだのか、今まで黙っていたネフィシーが口を開いた。
「知りませんよ。こうなりたくなければ早々に訂正すれば良いだけの話」
「そうかもしれない」
ふっ、とネフィシーは笑った。怖いと自らが言ったエルラと今から会おうとしているのに。その声は何だか楽しそうだった。
「何だか、聞いたことある声ね……。英雄に似ているわ」
そりゃあ本人ですから。似るのは当然だ。
ネフィシーはギギ、と嫌な音が鳴る扉を少しずつ開けた。黄金の刺繍が施された漆黒のローブが視界に映る。
彼は恐る恐る姿を見せた。フードを被ることなくしっかりと目元を見せて。彼はアリエッタと目を合わせた後、エルラの方へ視線を移した。
「そもそもエルラが憧れた英雄など存在しない」
第一声がそれだった。否定から入って絶望させる手口を使うとは。もっと良い言葉はなかったのか。
「え……」
エルラの頭上には大量の疑問符が浮かんでいる。
「如何にも。俺が英雄ことネフィシー・ラピスラズリだ」
そこには竜討伐の英雄がいた。あの時と同じ長い紺色の髪を後頭部でまとめ瑠璃色の瞳を輝かせる青年が。
仮面を被ることはなく、怯えながらも凛々しい姿でネフィシーは手を差し出してきた。




