第9話 割れた皿より私の手
青薔薇館へ来て十日が過ぎても、私は朝食の終わり方を決められずにいた。
ベルフォール家では、父が席を立てば食事は終わりだった。私の皿に残っているものがあっても、給仕はすぐに下げる。だからパンは先に食べ、空腹でない顔を作るのが癖になった。
けれど、この館では私が最後の一口を飲み込むまで、誰も茶器へ手を伸ばさない。
「もし冷めたのでしたら、お取り替えいたします」
侍女のマルタに言われ、私は慌てて苦い紅茶を飲み干した。好きでゆっくり味わっていたのだと伝えればよかったのに、待たせたことへの罪悪感が先に立つ。
せめて食器を厨房へ運ぼうとすると、マルタは困ったように盆を押さえた。
「それは私の仕事でございます」
「では、私は何をすればよいのでしょう」
問い返した声が、自分でも驚くほど切実だった。
彼女はすぐに答えず、窓辺の机へ目をやった。そこには庭師から届いた苗木の一覧と、町の商店からの請求書が置かれている。
「エレノア様にしか決められないことを、お決めくださいませ。食器は、私どもにお任せを」
もっともな話だ。けれど、自分にしか決められないことほど怖い。正解のある片づけの方がずっと楽だった。
「自分の分だけですから」
私は笑って盆を受け取った。マルタがなお何か言おうとした時、手の中で皿が傾いた。
皿が床へ落ちるまでの時間は、ひどく長く感じられた。
指先から白い磁器が滑る。傾いた皿の上で、焼き菓子が一つ跳ねる。伸ばした手は縁をかすめただけで、次の瞬間には甲高い音が朝の食堂へ弾けた。
青薔薇館の紋章が入った皿が、三つに割れていた。
「申し訳ございません!」
考えるより先に膝をついた。
今朝、厨房で茶の用意をしていた侍女のマルタに、自分の盆くらい運べると言ったのは私だ。何もしなくてよいと言われることに、まだ慣れなかった。せめて自分が食べたものくらい片づけなければ、ここに置いてもらう理由がなくなる気がした。
「エレノア様、触ってはいけません!」
マルタの鋭い声に肩がすくんだ。
「すぐに片づけます。弁償もいたしますから」
一番大きな破片をつかむ。薄い縁が手のひらを走り、赤い線が開いた。それでも指を離せなかった。床を汚す前に拾わなければ。叱られる前に、役に立つところを見せなければ。
「エレノア」
低い声とともに、黒い上着の裾が視界へ入った。
アレクシス様は私の前に片膝をついた。破片にも、床へ転がった焼き菓子にも目を向けず、握り込んだ私の右手を見ている。
「手を開いてください」
「ですが、皿が」
「皿は逃げません。血は流れます」
責める響きはなかった。それがかえって怖い。怒りを堪えている人ほど、後で声を荒らげることを私は知っていた。
「本当に申し訳ございません。私のお金から同じものを――」
「手に触れても?」
思いがけない問いに、言葉が止まった。
アレクシス様は手を伸ばしかけた姿勢のまま、私の返事を待っていた。床に膝をつき、公爵の袖口を汚しながら。
「……はい」
答えると、彼は私の手首をそっと支えた。拳を無理にこじ開けず、親指で手の甲をゆっくり撫でる。
「破片を握っています。力を抜けますか」
一度ではできなかった。息を吐くたびに指を一本ずつほどくと、血に濡れた小さな欠片が現れた。アレクシス様の眉間に深いしわが寄る。
「痛いでしょう」
「これくらい、平気です」
「では、私が同じ傷を負っても平気だと言いますか」
反射的に首を振った。
「そんなはずはございません。すぐに手当てを――」
「私も同じです」
彼はマルタが運んできた清潔な布を傷へ当てた。赤が白へ染みていくのを見て、ようやく痛みが追いついてくる。
執事のルネは箒とちり取りを手に現れ、割れた皿を一瞥した。
「在庫帳へ損耗と記しておきます」
「あの、母の代からの皿では」
「ええ。ですが、食器棚に飾るためではなく使うための品です。使用すれば、いつか割れます」
あまりに当然の口調だった。
「私を、青薔薇館から出さないのですか」
食堂がしんとした。
口にしてから、ひどくおかしな質問だと分かった。皿一枚で、この館の持ち主を館から追い出す者はいない。それでも私の中では、割れた皿と失う寝床が一本の糸で結ばれていた。
アレクシス様は笑わなかった。
「ここはあなたの家です。私にあなたを追い出す権利はありません」
「でも、私は失敗をしました」
「失敗した者は、怪我をしてもよいのですか」
「そういう意味では……」
「皿を投げて遊んだのなら注意します。毎日割って在庫を隠したのなら、理由を聞き、今後を相談するでしょう。ですが今日は、盆を運ぶ途中で手が滑った。それだけです」
何でも許すという甘い慰めではない。起きたことを大きくも小さくもせず、その大きさのまま置かれた。
医師が来るまでの間、アレクシス様は布の上から傷を押さえていた。私は何度も謝りかけ、そのたび唇を閉じた。代わりに言うべき言葉を探す。
「マルタ。お仕事を増やしてしまって、ごめんなさい」
「次からは、破片より先に私を呼んでくださいませ。それで帳消しです」
「帳消しでよいのですか」
「では、明日の焼き菓子を一つ余分に召し上がってください。料理長が、エレノア様は食が細すぎると申しております」
真面目な顔で言われ、困ってアレクシス様を見た。彼の口元にも、わずかな笑みがある。
「大変な償いですね」
「……努力いたします」
傷は二針縫った。医師には数日、水仕事を禁じられた。
医師が帰ると、アレクシス様は割れた皿の在庫番号と買い足す予定だった枚数を私へ見せた。曖昧に慰めて終えるのではなく、損失を隠さないのも彼らしい。
「一枚分の金額は、こちらです」
数字を見ると、胸を押さえていた恐怖が少しだけ形を持った。私の年金からなら、何十枚でも買える額だ。もちろん、だから割ってよいわけではない。それでも人生を失うほどの罪ではないと、帳簿が教えてくれた。
「実家では、物を壊した時に何があったのですか」
アレクシス様は向かいの椅子へ座り、急かさず待った。
「十一歳の頃、フローラが父の酒杯を割りました。私が片づけを手伝っていて、袖を破片に引っかけたのです」
「あなたが叱られた」
「妹を危ない場所へ近づけたから、と。新しい酒杯が届くまで、夕食を抜かれました」
口にしてみれば、筋の通らない話だった。だがあの頃の私は、もっと注意深い姉なら防げたのだと思った。フローラが泣きやみ、父が私だけを見て叱ったことに、どこか安堵さえしていた。
「今日のことと、十一歳のあなたのことは別です」
「はい」
「すぐには信じられなくても、何度でも確かめてください。この館では、壊れた物の責任を、怪我をした人間へ押しつけません」
彼が断言した後も、床を見ればまた破片が現れそうだった。それでも、次に何かを落としたらどうなるのか、ほんの少し知りたくなった。
「確かめるために、もう一枚割るのはだめですね」
「できれば別の方法にしてください」
真顔で返され、私たちは同時に笑った。
昼過ぎ、町の陶器商が見本箱を持って青薔薇館へ来た。割れた一枚と同じ品を取り寄せるのかと思えば、ルネは普段使いの皿がもともと不足しているのだと帳簿を見せた。
「館の主人として、お選びいただけますか」
箱の中には、丈夫そうな皿が六種類並んでいた。白一色のものが一番安い。花模様は高い。細い青線が縁を巡る皿は、その中間だった。
「白でよいと思います」
答えた途端、隣に立つアレクシス様の視線を感じた。けれど彼は、「青が好きでしょう」とは言わなかった。
「白が、お好きですか」
商人に尋ねられ、指が止まる。
安いか。妹が気に入るか。汚れが目立たず継母に叱られないか。そんな答えなら、いくつも浮かぶ。
けれど、好きかどうか。
私は青い縁取りを指でなぞった。晴れた日の湖に似た色だった。白い料理を載せたら、きっときれいだ。
「こちらにします」
言い直すと、商人はただ「承知いたしました」と帳面へ記した。アレクシス様も褒めなかった。ただ私と同じ皿を一枚持ち上げ、光へ透かしている。
「丈夫そうです」
「割って確かめてはいけませんよ」
思わず言うと、彼は目を見開いた後、低く笑った。
夕方、新しい皿が食器棚へ並んだ。私は包帯を巻いた手で一枚ずつ数え、扉を閉める。
割れた皿の跡は、もう床のどこにもない。手の傷はまだ疼く。
けれど戸棚には、私が選んだ青が残った。
青薔薇館へ来て十日が過ぎても、私は朝食の終わり方を決められずにいた。
ベルフォール家では、父が席を立てば食事は終わりだった。私の皿に残っているものがあっても、給仕はすぐに下げる。だからパンは先に食べ、空腹でない顔を作るのが癖になった。
けれど、この館では私が最後の一口を飲み込むまで、誰も茶器へ手を伸ばさない。
「もし冷めたのでしたら、お取り替えいたします」
侍女のマルタに言われ、私は慌てて苦い紅茶を飲み干した。好きでゆっくり味わっていたのだと伝えればよかったのに、待たせたことへの罪悪感が先に立つ。
せめて食器を厨房へ運ぼうとすると、マルタは困ったように盆を押さえた。
「それは私の仕事でございます」
「では、私は何をすればよいのでしょう」
問い返した声が、自分でも驚くほど切実だった。
彼女はすぐに答えず、窓辺の机へ目をやった。そこには庭師から届いた苗木の一覧と、町の商店からの請求書が置かれている。
「エレノア様にしか決められないことを、お決めくださいませ。食器は、私どもにお任せを」
もっともな話だ。けれど、自分にしか決められないことほど怖い。正解のある片づけの方がずっと楽だった。
「自分の分だけですから」
私は笑って盆を受け取った。マルタがなお何か言おうとした時、手の中で皿が傾いた。
皿が床へ落ちるまでの時間は、ひどく長く感じられた。
指先から白い磁器が滑る。傾いた皿の上で、焼き菓子が一つ跳ねる。伸ばした手は縁をかすめただけで、次の瞬間には甲高い音が朝の食堂へ弾けた。
青薔薇館の紋章が入った皿が、三つに割れていた。
「申し訳ございません!」
考えるより先に膝をついた。
今朝、厨房で茶の用意をしていた侍女のマルタに、自分の盆くらい運べると言ったのは私だ。何もしなくてよいと言われることに、まだ慣れなかった。せめて自分が食べたものくらい片づけなければ、ここに置いてもらう理由がなくなる気がした。
「エレノア様、触ってはいけません!」
マルタの鋭い声に肩がすくんだ。
「すぐに片づけます。弁償もいたしますから」
一番大きな破片をつかむ。薄い縁が手のひらを走り、赤い線が開いた。それでも指を離せなかった。床を汚す前に拾わなければ。叱られる前に、役に立つところを見せなければ。
「エレノア」
低い声とともに、黒い上着の裾が視界へ入った。
アレクシス様は私の前に片膝をついた。破片にも、床へ転がった焼き菓子にも目を向けず、握り込んだ私の右手を見ている。
「手を開いてください」
「ですが、皿が」
「皿は逃げません。血は流れます」
責める響きはなかった。それがかえって怖い。怒りを堪えている人ほど、後で声を荒らげることを私は知っていた。
「本当に申し訳ございません。私のお金から同じものを――」
「手に触れても?」
思いがけない問いに、言葉が止まった。
アレクシス様は手を伸ばしかけた姿勢のまま、私の返事を待っていた。床に膝をつき、公爵の袖口を汚しながら。
「……はい」
答えると、彼は私の手首をそっと支えた。拳を無理にこじ開けず、親指で手の甲をゆっくり撫でる。
「破片を握っています。力を抜けますか」
一度ではできなかった。息を吐くたびに指を一本ずつほどくと、血に濡れた小さな欠片が現れた。アレクシス様の眉間に深いしわが寄る。
「痛いでしょう」
「これくらい、平気です」
「では、私が同じ傷を負っても平気だと言いますか」
反射的に首を振った。
「そんなはずはございません。すぐに手当てを――」
「私も同じです」
彼はマルタが運んできた清潔な布を傷へ当てた。赤が白へ染みていくのを見て、ようやく痛みが追いついてくる。
執事のルネは箒とちり取りを手に現れ、割れた皿を一瞥した。
「在庫帳へ損耗と記しておきます」
「あの、母の代からの皿では」
「ええ。ですが、食器棚に飾るためではなく使うための品です。使用すれば、いつか割れます」
あまりに当然の口調だった。
「私を、青薔薇館から出さないのですか」
食堂がしんとした。
口にしてから、ひどくおかしな質問だと分かった。皿一枚で、この館の持ち主を館から追い出す者はいない。それでも私の中では、割れた皿と失う寝床が一本の糸で結ばれていた。
アレクシス様は笑わなかった。
「ここはあなたの家です。私にあなたを追い出す権利はありません」
「でも、私は失敗をしました」
「失敗した者は、怪我をしてもよいのですか」
「そういう意味では……」
「皿を投げて遊んだのなら注意します。毎日割って在庫を隠したのなら、理由を聞き、今後を相談するでしょう。ですが今日は、盆を運ぶ途中で手が滑った。それだけです」
何でも許すという甘い慰めではない。起きたことを大きくも小さくもせず、その大きさのまま置かれた。
医師が来るまでの間、アレクシス様は布の上から傷を押さえていた。私は何度も謝りかけ、そのたび唇を閉じた。代わりに言うべき言葉を探す。
「マルタ。お仕事を増やしてしまって、ごめんなさい」
「次からは、破片より先に私を呼んでくださいませ。それで帳消しです」
「帳消しでよいのですか」
「では、明日の焼き菓子を一つ余分に召し上がってください。料理長が、エレノア様は食が細すぎると申しております」
真面目な顔で言われ、困ってアレクシス様を見た。彼の口元にも、わずかな笑みがある。
「大変な償いですね」
「……努力いたします」
傷は二針縫った。医師には数日、水仕事を禁じられた。
医師が帰ると、アレクシス様は割れた皿の在庫番号と買い足す予定だった枚数を私へ見せた。曖昧に慰めて終えるのではなく、損失を隠さないのも彼らしい。
「一枚分の金額は、こちらです」
数字を見ると、胸を押さえていた恐怖が少しだけ形を持った。私の年金からなら、何十枚でも買える額だ。もちろん、だから割ってよいわけではない。それでも人生を失うほどの罪ではないと、帳簿が教えてくれた。
「実家では、物を壊した時に何があったのですか」
アレクシス様は向かいの椅子へ座り、急かさず待った。
「十一歳の頃、フローラが父の酒杯を割りました。私が片づけを手伝っていて、袖を破片に引っかけたのです」
「あなたが叱られた」
「妹を危ない場所へ近づけたから、と。新しい酒杯が届くまで、夕食を抜かれました」
口にしてみれば、筋の通らない話だった。だがあの頃の私は、もっと注意深い姉なら防げたのだと思った。フローラが泣きやみ、父が私だけを見て叱ったことに、どこか安堵さえしていた。
「今日のことと、十一歳のあなたのことは別です」
「はい」
「すぐには信じられなくても、何度でも確かめてください。この館では、壊れた物の責任を、怪我をした人間へ押しつけません」
彼が断言した後も、床を見ればまた破片が現れそうだった。それでも、次に何かを落としたらどうなるのか、ほんの少し知りたくなった。
「確かめるために、もう一枚割るのはだめですね」
「できれば別の方法にしてください」
真顔で返され、私たちは同時に笑った。
昼過ぎ、町の陶器商が見本箱を持って青薔薇館へ来た。割れた一枚と同じ品を取り寄せるのかと思えば、ルネは普段使いの皿がもともと不足しているのだと帳簿を見せた。
「館の主人として、お選びいただけますか」
箱の中には、丈夫そうな皿が六種類並んでいた。白一色のものが一番安い。花模様は高い。細い青線が縁を巡る皿は、その中間だった。
「白でよいと思います」
答えた途端、隣に立つアレクシス様の視線を感じた。けれど彼は、「青が好きでしょう」とは言わなかった。
「白が、お好きですか」
商人に尋ねられ、指が止まる。
安いか。妹が気に入るか。汚れが目立たず継母に叱られないか。そんな答えなら、いくつも浮かぶ。
けれど、好きかどうか。
私は青い縁取りを指でなぞった。晴れた日の湖に似た色だった。白い料理を載せたら、きっときれいだ。
「こちらにします」
言い直すと、商人はただ「承知いたしました」と帳面へ記した。アレクシス様も褒めなかった。ただ私と同じ皿を一枚持ち上げ、光へ透かしている。
「丈夫そうです」
「割って確かめてはいけませんよ」
思わず言うと、彼は目を見開いた後、低く笑った。
夕方、新しい皿が食器棚へ並んだ。私は包帯を巻いた手で一枚ずつ数え、扉を閉める。
割れた皿の跡は、もう床のどこにもない。手の傷はまだ疼く。
けれど戸棚には、私が選んだ青が残った。




