第10話 私の好きなもの
「お出かけ用なら、こちらの灰色がよろしいかと」
鏡の前で私が手にした肩掛けを見て、カミーユが首を傾げた。
「よろしい、というのは?」
「汚れが目立ちませんし、どの服にも合います。フローラも地味な色なら欲しがりませんでしたから」
そこまで答えて、私は灰色の布を置いた。
妹はもう、この部屋にはいない。私が何色を身につけても、奪いに来ることはできない。
隣には若草色と、薄い青の肩掛けがある。青へ手を伸ばしかけ、しかし今日の服には若草色の方が合うのではないか、季節にはどちらが正しいのかと考え始める。
カミーユは答えを教えず、長椅子へ腰掛けた。私が選び終えるまで本当に待つつもりらしい。
「皆様をお待たせしてしまいますね」
「兄は玄関で三十分早く待っています。今さら五分増えても誤差ですわ」
「三十分も?」
「エレノア様との初めての市ですもの。落ち着かないのでしょう」
頬へ熱が集まった。期限のない交際を受け入れてから、アレクシス様の態度が急に変わったわけではない。訪ねる時刻を前日に知らせ、滞在予定を告げ、私が疲れたと言えば帰る。けれど、その整った振る舞いの下にある気持ちを、一度知ってしまった。
私は薄い青の肩掛けを選んだ。
青薔薇館から馬車で半刻ほどの町では、月に二度、市が開かれる。石畳の両側へ色とりどりの日除けが張られ、香辛料と焼いた小麦、革、石鹸の匂いが混じっていた。
ベルフォール家にいた頃も買い物には出た。継母の後ろで品物を持ち、フローラの顔色を見て、欲しがりそうな物を先に差し出すために。
今日は、誰の背中も追わなくてよい。
その自由は、広すぎる道と同じだった。どちらへ足を向ければよいのか分からない。
「右は布と装身具、左は食べ物と茶です」
アレクシス様が市の案内板を示した。
「どちらから参りましょう」
「皆様のお好きな方へ」
「私は、エレノア様のお好きな方を知りたいですわ」
カミーユが笑う。
三人とも私を見ていた。急かしてはいないのに、心臓が早くなる。
「……布を、見たいです」
「では右へ」
アレクシス様はそれだけ言って歩き出した。正解だったとも、よく選べたとも言わない。二十三歳の女性が行き先を一つ決めただけなのだから、当然のように扱ってくれた。
布商の店先には、春色の反物が滝のように垂らされていた。深紅、山吹、白、薄桃。もっとも目立たない生成りを指しかけた私の目を、奥の一巻きが引いた。
夜明け前の空のような青だった。光が当たると銀糸が細く浮かぶ。
「こちらを広げていただけますか」
店主が台へ載せる。柔らかな布を手の甲へ当てると、青灰色の目が明るく見えた。
「お姉様は青だとますます地味に見えるわ」
いないはずの妹の声が、耳のすぐ後ろでした。
「お顔の色が悪く見えますか」
店主へ尋ねると、彼女は鏡と私を見比べた。
「いいえ。華やかというより、凜として見えますね。あとは、お客様がお好きかどうかです」
好きだった。
その一言を胸の中で認めるだけで、手のひらが汗ばむ。
「一着分、ください」
自分の声で注文した。銀貨を支払う時、アレクシス様は財布を出さなかった。贈られたのではなく、母が残してくれたお金で、私が私のために買った布になった。
「仕立て上がったら、見せていただけますか」
店を出てから彼に言われる。
「青がお好きなのですか」
「今、好きになりました」
あまりにまっすぐ答えられ、私は肩掛けの端で口元を隠した。
食べ物の通りでは、香ばしい匂いに足が止まった。蜂蜜を塗った細長い焼き菓子へ、赤い香辛料がまぶされている。
「辛蜜ねじりはいかがですか。最初は甘く、後から火が来ますよ」
露店の主人が紙包みを差し出す。
フローラは香辛料の匂いだけで涙を浮かべた。食卓から辛い料理が消えると、父は「妹を思いやれる姉でよかった」と私を褒めた。だから私は、好きだと言うのをやめた。
紙包みを受け取り、一口かじる。蜂蜜の甘さの奥から、舌を刺す熱が広がった。
「おいしい」
「それほどですか」
アレクシス様が興味を示したので、まだかじっていない方を勧めた。
「かなり辛いですよ」
「あなたが平然と召し上がっているので、大丈夫でしょう」
彼は一口食べ、二度噛み、動きを止めた。
「……水を」
低い声が掠れている。濃い青の目にはうっすら涙まで浮かんだ。カミーユが呆れた顔で水筒を渡す。
「兄上は胡椒一粒でも大騒ぎする方ですのに」
「先に教えてくれ」
「私、かなり辛いと申し上げました」
「大丈夫だと勝手に考えたのは私です」
公爵が真剣な顔で水を飲み続けている。それがおかしくて、唇から小さな音が漏れた。一度出た笑いは止まらず、私は紙包みを持ったまま声を上げて笑った。
道行く人が振り返る。慌てて口を押さえると、アレクシス様は咳き込みながら私を見ていた。
「ご、ごめんなさい」
「謝らないでください」
彼はまだ赤い目元を細めた。
「もう一度聞けるなら、辛い菓子にも価値がありました」
「もう一つ召し上がりますか」
「それは遠慮します」
即答だった。私たちは同じ物を好きにならなくても、笑っていられるらしい。
茶商では、花の香りがする甘い茶と、燻したような香りの苦い茶を試した。私は後者を、アレクシス様は蜂蜜を入れた前者を選んだ。カミーユは両方を混ぜて店主を青ざめさせた。
店の奥には、客が試飲できる小さな卓があった。カミーユが向かいの文具店へ走っていき、私たちは二人で残された。
「お疲れではありませんか」
アレクシス様が尋ねる。
疲れていないと言いかけて、足の裏に意識を向けた。人混みを歩き、いつもより多く話したせいで、たしかに少し重い。けれど、帰りたいわけではなかった。
「座っていれば、もう少しここにいたいです」
「では、カミーユが店を買い占すまで休みましょう」
「止めなくてよろしいのですか」
「止めても買います」
兄妹らしい諦めが声に滲んでいて、また笑いそうになった。
彼の茶には蜂蜜が二杯も入っている。厳めしい顔には不似合いで、私はつい見つめた。
「甘い物がお好きなのですね」
「意外ですか」
「少し。辛い物にも強そうに見えました」
「顔と舌は別の生き物です」
私は、彼について知っていることを数えてみた。公爵で、カミーユを大事にしていて、約束の時刻を守り、私へ選択肢を差し出す人。けれど、好きな食べ物さえ今知ったばかりだ。
「アレクシス様は、何がお好きですか。甘い物のほかに」
彼はすぐに答えなかった。私に質問する時と同じように、本当に考えてから口を開く。
「雨の日の書庫。馬を走らせた後の冷たい水。妹が吃らずに話せた時より、吃りながらも言いたいことを言い切った時。それから、梨のジャムです」
「最後だけ急にかわいらしいですね」
「昔、そう言われて部下の前では隠していました」
耳の先がわずかに赤い。何でも整って見える彼にも、人からどう見られるかを気にして隠したものがある。
「私も梨のジャムを食べてみたいです」
「青薔薇館の料理長は上手ですよ。次に伺う時、持ってきます」
「いいえ」
断ると、彼の目が瞬いた。
「次は、私が用意します。私ばかり好みを知っていただくのは、不公平ですから」
彼はしばらく黙り、それから茶杯を持ち直した。
「楽しみにしています」
その声は、辛い菓子を前にした時よりずっと嬉しそうだった。大切にされるとは、与えられ続けることではないのかもしれない。私から差し出したものを、奪わず、当然とも思わず、喜んで受け取ってもらうことでもある。
帰りの馬車には青い布と辛い焼き菓子、苦い茶葉が並んだ。どれも大きな物ではない。それでも袋が膝へ触れるたび、私の輪郭が少しずつ戻ってくるようだった。
「本日は、何が一番お気に召しましたか」
アレクシス様に尋ねられ、私は布、菓子、茶の順に見た。
「笑ったことです」
「私が辛さで苦しんだことではなく?」
「それも少し」
「正直で結構です」
彼の肩が私の肩へ触れそうになり、馬車の揺れが収まると離れた。追わないことに安堵しながら、離れた温度を惜しいとも思った。
青薔薇館へ戻ると、玄関卓に一通の手紙が置かれていた。
モンテーニュ侯爵家の封蝋。ジュリアンの筆跡で、エレノアへ、とある。
以前なら、封を見ただけで自室へ逃げ、返事の正解を一晩探しただろう。
私は青い布の包みを抱えたまま、ペーパーナイフを取った。
「ここで読みます」
誰に命じられたのでもなく、封を切った。




