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「愛することはない」婚約者は、妹に譲ります  作者: 星舟能空


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10/30

第10話 私の好きなもの

「お出かけ用なら、こちらの灰色がよろしいかと」


 鏡の前で私が手にした肩掛けを見て、カミーユが首を傾げた。


「よろしい、というのは?」


「汚れが目立ちませんし、どの服にも合います。フローラも地味な色なら欲しがりませんでしたから」


 そこまで答えて、私は灰色の布を置いた。


 妹はもう、この部屋にはいない。私が何色を身につけても、奪いに来ることはできない。


 隣には若草色と、薄い青の肩掛けがある。青へ手を伸ばしかけ、しかし今日の服には若草色の方が合うのではないか、季節にはどちらが正しいのかと考え始める。


 カミーユは答えを教えず、長椅子へ腰掛けた。私が選び終えるまで本当に待つつもりらしい。


「皆様をお待たせしてしまいますね」


「兄は玄関で三十分早く待っています。今さら五分増えても誤差ですわ」


「三十分も?」


「エレノア様との初めての市ですもの。落ち着かないのでしょう」


 頬へ熱が集まった。期限のない交際を受け入れてから、アレクシス様の態度が急に変わったわけではない。訪ねる時刻を前日に知らせ、滞在予定を告げ、私が疲れたと言えば帰る。けれど、その整った振る舞いの下にある気持ちを、一度知ってしまった。


 私は薄い青の肩掛けを選んだ。


 青薔薇館から馬車で半刻ほどの町では、月に二度、市が開かれる。石畳の両側へ色とりどりの日除けが張られ、香辛料と焼いた小麦、革、石鹸の匂いが混じっていた。


 ベルフォール家にいた頃も買い物には出た。継母の後ろで品物を持ち、フローラの顔色を見て、欲しがりそうな物を先に差し出すために。


 今日は、誰の背中も追わなくてよい。


 その自由は、広すぎる道と同じだった。どちらへ足を向ければよいのか分からない。


「右は布と装身具、左は食べ物と茶です」


 アレクシス様が市の案内板を示した。


「どちらから参りましょう」


「皆様のお好きな方へ」


「私は、エレノア様のお好きな方を知りたいですわ」


 カミーユが笑う。


 三人とも私を見ていた。急かしてはいないのに、心臓が早くなる。


「……布を、見たいです」


「では右へ」


 アレクシス様はそれだけ言って歩き出した。正解だったとも、よく選べたとも言わない。二十三歳の女性が行き先を一つ決めただけなのだから、当然のように扱ってくれた。


 布商の店先には、春色の反物が滝のように垂らされていた。深紅、山吹、白、薄桃。もっとも目立たない生成りを指しかけた私の目を、奥の一巻きが引いた。


 夜明け前の空のような青だった。光が当たると銀糸が細く浮かぶ。


「こちらを広げていただけますか」


 店主が台へ載せる。柔らかな布を手の甲へ当てると、青灰色の目が明るく見えた。


「お姉様は青だとますます地味に見えるわ」


 いないはずの妹の声が、耳のすぐ後ろでした。


「お顔の色が悪く見えますか」


 店主へ尋ねると、彼女は鏡と私を見比べた。


「いいえ。華やかというより、凜として見えますね。あとは、お客様がお好きかどうかです」


 好きだった。


 その一言を胸の中で認めるだけで、手のひらが汗ばむ。


「一着分、ください」


 自分の声で注文した。銀貨を支払う時、アレクシス様は財布を出さなかった。贈られたのではなく、母が残してくれたお金で、私が私のために買った布になった。


「仕立て上がったら、見せていただけますか」


 店を出てから彼に言われる。


「青がお好きなのですか」


「今、好きになりました」


 あまりにまっすぐ答えられ、私は肩掛けの端で口元を隠した。


 食べ物の通りでは、香ばしい匂いに足が止まった。蜂蜜を塗った細長い焼き菓子へ、赤い香辛料がまぶされている。


「辛蜜ねじりはいかがですか。最初は甘く、後から火が来ますよ」


 露店の主人が紙包みを差し出す。


 フローラは香辛料の匂いだけで涙を浮かべた。食卓から辛い料理が消えると、父は「妹を思いやれる姉でよかった」と私を褒めた。だから私は、好きだと言うのをやめた。


 紙包みを受け取り、一口かじる。蜂蜜の甘さの奥から、舌を刺す熱が広がった。


「おいしい」


「それほどですか」


 アレクシス様が興味を示したので、まだかじっていない方を勧めた。


「かなり辛いですよ」


「あなたが平然と召し上がっているので、大丈夫でしょう」


 彼は一口食べ、二度噛み、動きを止めた。


「……水を」


 低い声が掠れている。濃い青の目にはうっすら涙まで浮かんだ。カミーユが呆れた顔で水筒を渡す。


「兄上は胡椒一粒でも大騒ぎする方ですのに」


「先に教えてくれ」


「私、かなり辛いと申し上げました」


「大丈夫だと勝手に考えたのは私です」


 公爵が真剣な顔で水を飲み続けている。それがおかしくて、唇から小さな音が漏れた。一度出た笑いは止まらず、私は紙包みを持ったまま声を上げて笑った。


 道行く人が振り返る。慌てて口を押さえると、アレクシス様は咳き込みながら私を見ていた。


「ご、ごめんなさい」


「謝らないでください」


 彼はまだ赤い目元を細めた。


「もう一度聞けるなら、辛い菓子にも価値がありました」


「もう一つ召し上がりますか」


「それは遠慮します」


 即答だった。私たちは同じ物を好きにならなくても、笑っていられるらしい。


 茶商では、花の香りがする甘い茶と、燻したような香りの苦い茶を試した。私は後者を、アレクシス様は蜂蜜を入れた前者を選んだ。カミーユは両方を混ぜて店主を青ざめさせた。


 店の奥には、客が試飲できる小さな卓があった。カミーユが向かいの文具店へ走っていき、私たちは二人で残された。


「お疲れではありませんか」


 アレクシス様が尋ねる。


 疲れていないと言いかけて、足の裏に意識を向けた。人混みを歩き、いつもより多く話したせいで、たしかに少し重い。けれど、帰りたいわけではなかった。


「座っていれば、もう少しここにいたいです」


「では、カミーユが店を買い占すまで休みましょう」


「止めなくてよろしいのですか」


「止めても買います」


 兄妹らしい諦めが声に滲んでいて、また笑いそうになった。


 彼の茶には蜂蜜が二杯も入っている。厳めしい顔には不似合いで、私はつい見つめた。


「甘い物がお好きなのですね」


「意外ですか」


「少し。辛い物にも強そうに見えました」


「顔と舌は別の生き物です」


 私は、彼について知っていることを数えてみた。公爵で、カミーユを大事にしていて、約束の時刻を守り、私へ選択肢を差し出す人。けれど、好きな食べ物さえ今知ったばかりだ。


「アレクシス様は、何がお好きですか。甘い物のほかに」


 彼はすぐに答えなかった。私に質問する時と同じように、本当に考えてから口を開く。


「雨の日の書庫。馬を走らせた後の冷たい水。妹が吃らずに話せた時より、吃りながらも言いたいことを言い切った時。それから、梨のジャムです」


「最後だけ急にかわいらしいですね」


「昔、そう言われて部下の前では隠していました」


 耳の先がわずかに赤い。何でも整って見える彼にも、人からどう見られるかを気にして隠したものがある。


「私も梨のジャムを食べてみたいです」


「青薔薇館の料理長は上手ですよ。次に伺う時、持ってきます」


「いいえ」


 断ると、彼の目が瞬いた。


「次は、私が用意します。私ばかり好みを知っていただくのは、不公平ですから」


 彼はしばらく黙り、それから茶杯を持ち直した。


「楽しみにしています」


 その声は、辛い菓子を前にした時よりずっと嬉しそうだった。大切にされるとは、与えられ続けることではないのかもしれない。私から差し出したものを、奪わず、当然とも思わず、喜んで受け取ってもらうことでもある。


 帰りの馬車には青い布と辛い焼き菓子、苦い茶葉が並んだ。どれも大きな物ではない。それでも袋が膝へ触れるたび、私の輪郭が少しずつ戻ってくるようだった。


「本日は、何が一番お気に召しましたか」


 アレクシス様に尋ねられ、私は布、菓子、茶の順に見た。


「笑ったことです」


「私が辛さで苦しんだことではなく?」


「それも少し」


「正直で結構です」


 彼の肩が私の肩へ触れそうになり、馬車の揺れが収まると離れた。追わないことに安堵しながら、離れた温度を惜しいとも思った。


 青薔薇館へ戻ると、玄関卓に一通の手紙が置かれていた。


 モンテーニュ侯爵家の封蝋。ジュリアンの筆跡で、エレノアへ、とある。


 以前なら、封を見ただけで自室へ逃げ、返事の正解を一晩探しただろう。


 私は青い布の包みを抱えたまま、ペーパーナイフを取った。


「ここで読みます」


 誰に命じられたのでもなく、封を切った。


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