第11話 祝福までは差し上げません
ジュリアンの手紙には、私を気遣う言葉が一行だけあった。
『青薔薇館で心を落ち着けていると聞き、安堵している』
その後には、モンテーニュ侯爵家とベルフォール伯爵家が、私とフローラの不和という根も葉もない噂に迷惑していること。真実の愛を貫いた二人を、私が嫉妬しているように見えては家の名誉を損なうこと。そして、それを防ぐのは私の務めであることが、便箋三枚にわたって記されていた。
最後の一枚には、新聞へ掲載する祝福文の案まで添えられている。
『妹の幸福こそ私の幸福です。私は自ら望んで婚約を退き、愛し合う二人の門出を心より祝福いたします』
私は一度、便箋を机へ置いた。
「息をなさってくださいませ」
向かいに座るカミーユに言われ、肺の中が空だったことに気づく。
「読むだけで息の仕方を忘れる手紙とは、珍しいですわね」
「ジュリアン様は、間違ったことは書いていません。醜聞が広がれば、二つの家に迷惑がかかります」
「婚約者の妹と恋仲になった方が、醜聞の原因では?」
「ですが、私が祝えば収まります」
「エレノア様は、祝いたいのですか」
そこで、言葉が途切れた。
祝えば皆が喜ぶ。父は家名が守られたと安堵し、継母はフローラが傷つかずに済んだと笑い、ジュリアンはやはり私なら分かってくれると言うだろう。私だけが、心にもない言葉を自分の名で残す。
「祝いたく、ありません」
口にすると、傷口から膿を出した時のように痛く、同時に楽になった。
私は新しい便箋を一枚出した。長い説明を書けば、言葉の端をつかまれて説得される。だから三行だけにした。
『婚約者は妹へお譲りしました。婚約解消が私の意思であったとの虚偽には同意いたしません。私の祝福まで差し上げる義務はございません』
自分の名を署名する。
「これで、よいでしょうか」
「それを決めるのは、わたくしではありません」
カミーユはそう答えてから、少しだけ笑った。
「けれど、わたくしは好きです」
返書を出した翌日の午後、ジュリアンは青薔薇館へ来た。
先触れもなく、公爵家の紋章がついた馬車で門を通せと迫ったらしい。ルネは応接間へ通す前に私の許可を求めた。
「お断りすることもできます」
その日は、アレクシス様と庭の植え替えについて話す約束があった。彼も書斎から出てきたが、ジュリアンを追い返そうとは言わない。
会えば、また丸め込まれるかもしれない。声を聞くだけで、十年近く積み重ねた従順さへ戻ってしまうかもしれない。
それでも、あの三行を偶然の勇気にしたくなかった。
「会います。日の入る応接間で。扉は開けたままにしてください」
「私は同席しても?」
アレクシス様に尋ねられ、頷いた。
「何も言えなくなった時だけ、助けてください」
「承知しました」
ジュリアンは、私が入室しても立ち上がらなかった。蜂蜜色の髪を整え、灰色の礼装をまとい、婚約者だった頃と同じ場所へ私が座るのを待っている。
「エレノア。ずいぶん面倒な返事をくれたね」
久しぶりに名を呼ばれ、指先が冷えた。
「ベルフォール伯爵令嬢とお呼びください。私たちの婚約は解消されました」
「言葉遊びをするために来たのではない」
「私もです」
私が向かいへ座ると、アレクシス様は斜め後ろへ立った。私より前には出ない。ジュリアンの視線が彼へ向かい、わずかに険しくなる。
「家同士で決めた婚約だった。私がフローラを愛したからといって、君まで敵になる必要はないだろう」
「敵になったつもりはありません」
「ならば祝福文へ署名を。君の一言で終わる話だ」
彼は鞄から例の文案を取り出した。私が書き直すことを疑っていない手つきだった。
「妹を愛しているのですね」
「もちろんだ。彼女ほど繊細で、豊かな心を持つ女性はいない」
「では、妹が自分の言葉で、ご自分たちの婚礼を整えればよいではありませんか」
「フローラは忙しい。花嫁に細々した実務を負わせる気か?」
「私は花嫁になる予定でしたが、すべて負っていました」
ジュリアンが口を閉じた。
私たちの婚礼予定表も招待状も、彼の母への季節の挨拶も、私が書いた。彼はそれを当然と思い、私も当然だと思い込もうとしていた。
「君はそういうことが得意だった。フローラには別の長所がある」
「私の長所は、妹のためなら無償で差し出されるものではありません」
胸は激しく打っていた。それでも声は震えなかった。
「君は何を怒っているんだ。フローラは君を慕っている。あの手紙でも、いつも姉への感謝を書いていた」
「どの手紙でしょう」
「去年の冬には、家族とは互いの足りないところを補う小さな灯火だと。春には、愛は奪うことでなく待つことだと書いてくれた。彼女の言葉に、私は何度も救われた」
覚えている。冬の夜、フローラが暖炉の前で爪を磨いている間に、寒い北の部屋で私が書いた。春の手紙は、ジュリアンから二月も返事が来ない私自身へ言い聞かせた言葉だった。
今ここで真実を告げれば、彼はどんな顔をするだろう。少しだけ見たいと思った。同時に、また私が説明し、二人の嘘を片づけることになるとも分かった。
「その言葉を書いた方に、祝福文もお願いなさればよろしいでしょう」
私はそれだけ言った。
「フローラは今、気持ちが高ぶって書けないんだ。姉なら支えて当然ではないか」
「妹は十九歳です。自分で愛を選び、私の婚約者を得た大人です」
「君は彼女より四つも年上で――」
「四年多く生きれば、一生分の責任を負わされるのですか」
以前の私なら、口にする前にのみ込んだ問いだった。ジュリアンは答えず、私を扱いづらい別人でも見るように眉を寄せた。
ジュリアンは、初めて私の顔を確かめるように見た。視線が薄青の肩掛けへ落ちる。市で選んだ布は仕立て中だが、あの日の肩掛けを私は身につけていた。
「君は、そんな色を好んだのか」
「昔から青が好きでした」
「いつも灰色か茶色を着ていただろう」
「フローラが欲しがらない色でしたから」
彼は何かを言おうとして、やめた。八年近く私の婚約者だった人は、私の好きな色を今日初めて知った。
「顔色もよくなったようだ」
「食事を三度いただいておりますので」
「三度?」
その驚きが、何より雄弁だった。
ジュリアンに悪意がなかったとしても、私が昼食を抜いて妹の衣装を縫っていたことへ、彼は気づかなかった。気づこうとしなかった。それでも私は、いつか見つけてもらえると信じていた。
「もう、お帰りください」
「まだ話は終わっていない」
「私の返事は終わりました。祝福文には署名しません。婚礼のお手伝いもしません」
卓上の呼び鈴へ手を伸ばす。
「エレノア」
「その呼び方も、おやめください」
鈴を鳴らすと、廊下で待っていたルネが入ってきた。
ジュリアンは立ち上がったが、出口ではなくアレクシス様へ向き直った。
「公爵閣下。彼女が不幸な目に遭ったからといって、同情を恋と取り違えるのはおやめになった方がよい」
「それを判断するのは、あなたではありません」
アレクシス様の返答は短かった。
「昔から、傷ついた者を見れば放っておけない家だそうですね。妹君の件も聞いております。壊れた令嬢をもう一人拾えば、ご自分が善人だと確かめられるのでしょう」
拳を握る音が聞こえそうだった。それでもアレクシス様は動かない。私が面会を終えたのだから、今ここで彼が争えば、また話の中心を奪うと分かっている。
「お客様をお送りして」
私が言うと、ルネが扉を示した。
ジュリアンは最後に私を見た。
「哀れまれているうちに、愛されていると思い込まないことだ」
扉が閉まる。
私は自分の足で彼を帰した。祝福も、言葉も、もう渡さなかった。
呼び鈴のそばに置いた指が、遅れて震え始めた。アレクシス様が一歩近づく。
「座りますか。それとも、一人になりますか」
抱き締めることも、正しい答えを教えることもしなかった。私が選ぶのを待っている。
「一人で……少し考えたいです」
「分かりました。私は庭にいます。呼ばれれば戻ります」
彼は本当に出ていった。扉を完全には閉めず、廊下から中が見えないほどの隙間だけを残して。
ジュリアンの言葉が正しいなら、この丁寧さも恋ではない。怪我をした犬を怖がらせないための配慮と同じだ。
窓の外では、アレクシス様が庭師の話を聞いていた。私は彼に救われた。彼がいなくなれば困る。だから好意だと思い込みたいだけではないのか。
なのに最後の一言だけは、刃のように胸へ残った。




