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「愛することはない」婚約者は、妹に譲ります  作者: 星舟能空


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12/30

第12話 同情ではありませんか

「私との交際を、終わりにしてください」


 翌朝、私は青薔薇館の庭でアレクシス様へ告げた。


 夜の間に雨が降り、土は濃い色をしていた。庭師が残してくれた青薔薇の枯れ枝には、丸い雫が連なっている。あの日、切らずに残したいと自分で選んだ枝だった。


 アレクシス様は驚いた顔をした。けれど、理由も聞かず承知するような優しさは見せなかった。


「終わりにしたいのですか。それとも、終わりにしなければならないと思っていますか」


「同じことではありませんか」


「違います。前者なら私は受け入れます。後者なら、そう思う理由を聞かせてほしい」


 逃げ道を塞がれたのではない。二つの道を示され、自分でどちらなのかを問われている。


「私は、あなた様の善意を利用しています」


 握った両手のうち、右にはまだ薄い包帯が巻かれていた。


「家から出していただき、法律家を手配していただき、食事も、医師も、皿まで。何も返せておりません。それなのに、あなた様がいなくなるのが怖くて、交際をお受けしました」


「返礼が欲しくてしたことではないと、お伝えしたはずです」


「だからこそです。あなた様は、傷ついた人を放っておけないのでしょう。カミーユ様を守られたように、私を守ってくださっている。それを恋だと取り違えては、いつかお互いに不幸になります」


 口にするほど、ジュリアンの言葉が私自身の声へ変わっていく。


「私には、愛していただくようなものがありません。見た目も地味で、楽しい話もできず、家族から離れただけで何度も吐くような人間です。妻として役に立つことなら学べますが、それを望まないと言われたら、差し出せるものが何も――」


「エレノア」


 名を呼ばれて、息を止めた。


「あなたを哀れに思う気持ちが、まったくないとは言いません」


 予想していなかった答えに、顔を上げる。


「傷ついている人を見て心が痛む。それ自体を否定すれば嘘になります。ですが、同情するすべての人と朝食を食べたいとは思わない。何年後の顔を知りたいとも、私以外の男に笑いかけたら面白くないとも思いません」


「面白く、ないのですか」


「かなり」


 厳格な公爵の口から出た言葉が、ひどく人間らしかった。


「もちろん、その感情を理由にあなたの交友を制限する気はありません。私の中に、行儀のよくない独占欲もあるという話です」


 彼は私へ近づきすぎない距離で立っていた。風が黒髪を少し乱している。


「私は、あなたが誰にも気づかれない使用人へ椅子を譲った話を聞いて、あなたを知りたいと思いました。実際に会って、何でもよいと言いながら辛い煮込みを選び、その辛さへ腹を立てて泣くあなたを見た」


「腹を立ててはおりません」


「匙を握る手が、料理人にではなく、十五年分の我慢に怒っていました」


 言い返せず、唇を噛んだ。


「枯れた枝を切らないと決めた時の頑固な顔も、皿をもう一枚割ろうかと冗談を言った時も、市で私が辛さに負けたのを笑った声も好きです。苦い茶を飲むと左の眉が少し下がるのも。あなたは、ご自分で思うほど空っぽではありません」


 そんなところまで見られていた。


 役に立った行いではない。整った微笑みでもない。私自身さえ見落としていた、小さく不格好な私ばかりだった。


「もし私の傷がすべて治ったら、あなた様は困りませんか。守る相手でなくなります」


「喜びます。そして、治ったあなたに叱られる新しい理由を見つけるでしょう」


「なぜ叱られる前提なのです」


「庭師によれば、私は青薔薇の剪定について口を出しすぎだそうです。あなたも同じ目をしていました」


 見抜かれていたらしい。


 彼は視線を枯れ枝へ移した。


「私が分けたいのは、救出の一場面ではありません。朝食の向かいにあなたがいて、雨の日には同じ書庫で別の本を読み、時々、庭のことで意見を違える。公務で帰りが遅ければ、眠っていてよいと言ったのに待っていたと文句を言いたい。あなたが何もしたくない日は、本当に何もしない姿を知りたい」


「あまり、立派な生活ではありませんね」


「暮らすとは、たいてい立派でない時間の連続です。私はそれを、あなたと分けたい」


 華やかな愛の言葉よりも、その光景が深く刺さった。


 ジュリアンとの結婚を考えた時、思い浮かべたのは、彼に満足してもらえる食卓や夜会ばかりだった。私はいつも立って働いていて、彼の向かいに座ってはいなかった。


「それでも、私があなた様を愛せなかったら?」


「その時は、悲しみます」


 アレクシス様は迷わず言った。


「私は聖人ではありません。望んだ返事を得られなければ傷つく。ですが、傷ついた責任をあなたへ負わせるつもりはない。青薔薇館はもともとあなたのものですし、法律家も引き上げません。あなたが私を選ばないことへの罰は、何一つありません」


「では、なぜそこまで」


「愛しているからです」


 初めて、はっきりと言われた。


 胸の内側に張りつめていた何かが、一度大きく揺れた。嬉しいと言えば、同じ言葉を返さなければならない気がする。黙れば、彼を傷つける。いつものように相手が欲しい答えを探そうとして、私は首を振った。


「今は、同じ言葉を返せません」


「承知しています」


「でも……あなた様がいなくなるのは、嫌です」


 これも愛なのか、救われた者の執着なのかは分からない。分からないまま、今の望みだけを口にした。


 アレクシス様の目元が和らぐ。


「それなら、交際を続けても?」


「はい。続けたいです」


 答えた途端、朝の空気が肺の奥まで入った。


「昨日、何もおっしゃらなかったのは、そのためですか」


「何のことでしょう」


「ジュリアン様が、あなた様を侮辱した時です。怒っていらしたでしょう」


 彼の眉がわずかに動く。


「よく分かりましたね」


「拳が白くなっていました」


「庭の池へ投げ込みたい程度には、腹が立っていました」


 想像して、目を瞬いた。彼なら本当に持ち上げられそうだ。


「なさらなかったのですね」


「あなたが面会を終えると決めたからです。私が怒りを晴らせば、彼はあなたではなく私と争い始める。あなたがご自分で閉めた扉を、私が開け直すことになります」


 ただ我慢したのではない。私が言った「何も言えなくなった時だけ助けてほしい」を覚え、その通りにしてくれた。


「もし、私が助けを求められなかったら?」


「危険があれば止めます。そうでなければ、後から、助けが必要だったかを尋ねます。正解を外すこともあるでしょう」


「あなた様でも?」


「頻繁に。カミーユには、心配している時の私は扉より邪魔だと言われます」


 完璧に私を扱える人ではないのだ。間違うかもしれないと認め、その時には聞き直そうとする人だった。


「私も、欲しいことをすぐには言えないと思います」


「では、言えるまで待ちます。待ちきれずに尋ねすぎたら、黙れと言ってください」


「そんなことを公爵様へ言えるでしょうか」


「練習が必要ですね。今、試しますか」


 彼は急に、青薔薇の植え替え時期について説明を始めた。春の土温から肥料の割合まで、わざとらしく言葉を重ねる。


「あの、アレクシス様」


「はい」


「少し、黙ってくださいませ」


 彼はぴたりと口を閉じた。怒りもせず、満足そうに頷く。


「お上手です」


「子ども扱いをなさらないでください」


「失礼しました」


 私の口元が緩んだ。愛が何かはまだ分からない。それでもこの人となら、分からないことを分からないまま話せる気がした。


 彼は私の左手へ視線を落とした。右手の傷を避けたのだと分かる。


「手へ口づけてもよいでしょうか」


 婚約者だった頃、ジュリアンは挨拶として何度も私の手を取った。私が手袋をしているか、指先が針で裂けているかなど見もしなかった。


 目の前の人は、触れる前に待っている。


「お願いします」


 私から手を差し出した。


 長い指が手のひらを下から支え、唇が指の付け根へ触れる。ほんの一瞬だったのに、触れられた場所から腕へ熱が駆け上がった。


 離れた後も手を引けずにいると、彼も握り込まず、私が動くまで支え続けた。


「もう一つ、受け取っていただきたい物があります」


 アレクシス様は上着の内側から、濃紺の封筒を出した。ヴァレール公爵家の封蝋がある。


「正式な求婚状です。今日、返事を求めるためではありません。私が同情ではなく、将来を望んでいるという証として、お預けします」


「いつまでに、お返事を?」


「期限はありません。断る時にも、理由は要りません」


 受け取った封筒は、恋文の束よりずっと薄かった。けれど、私が妹のために書いたどんな愛の言葉より重く感じられた。


 交際を終わらせるために出てきた庭で、私は返答期限のない求婚状を胸へ抱いていた。


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