第13話 幕間・姉なら分かるのに
婚礼まで、あと四十日。
フローラの前には、三種類の招待状と、四種類の献立と、予算を超えたことを知らせる帳簿が並んでいた。
「銀箔はこちらの方が上品だけれど、金箔の方が豪華に見えるわ」
彼女が二枚を重ねると、向かいにいたジュリアンは時計を見た。
「どちらでも構わない。エレノアなら、客の身分に合わせて使い分けるだろう」
まただ。
仕立屋を選ぶ時も、席次を決める時も、侯爵家へ贈る品を相談した時も、彼は同じ名を口にした。
エレノアなら知っている。エレノアなら間違えない。エレノアに一度、見せればよい。
「お姉様は来ませんわ」
「今は意地になっているだけだ。君から頼めば、最後には妹を見捨てられない」
「姉は私を祝福しないそうです」
「祝福文の件は、私からもう一度話す」
ジュリアンは面倒そうに手を振った。青薔薇館を訪ねて以来、機嫌が悪い。何があったのか尋ねても、エレノアが公爵に取り入って思い上がっている、としか答えなかった。
姉は、人へ取り入るような器用な女ではない。俯いて相手の欲しい言葉を探すだけだ。
だからこそ、フローラは不安だった。
「金箔にしますわ。お姉様の婚礼より、ずっと華やかにしたいもの」
「エレノアとの婚礼は中止になった。比べる必要はないだろう」
「ええ。そうですわね」
比べる必要がないのなら、なぜ彼は姉の名ばかり出すのだろう。
フローラがエレノアの婚約者を欲しいと思ったのは、最初からジュリアンを深く愛していたからではない。
夜会のたび、父は姉の婚約を家の誉れだと語った。継母である母でさえ、侯爵夫人になる娘には礼儀を学ばせねばと、時折エレノアを気にかけた。姉は地味で、かわいげもなく、何でもフローラへ譲るはずなのに、将来だけは輝いて見えた。
ジュリアンがフローラの手を取り、「本当に愛しているのは君だ」と告げた夜、胸を満たしたのは恋より先に勝利だった。
最も価値のあるものを、姉より自分が選ばれた。
その証明が欲しかった。
最初にその甘さを知ったのは、フローラが十一歳の年だった。
姉の十五歳の誕生日に、母方の祖母から届いた青石の髪飾りを見て、きれい、と一度口にした。欲しいとは言わなかった。ただ、自分にはお母様から受け継ぐものが何もないと泣いた。母が困った顔をし、父は姉へ譲るよう促した。
エレノアが髪飾りを差し出した途端、父は姉の頭を撫でた。
『さすがお姉様だな。フローラも、よい姉を持って幸せだ』
髪飾りを受け取ったフローラも褒められた。よく似合う。エレノアより華やかだ。母は鏡の前で何度も金髪へ挿し直してくれた。
姉が欲しいと言えば、大人たちを困らせる。何も言わずに渡せば、全員が笑う。それなら姉だって、譲る方が嬉しいのだとフローラは思った。
成長すれば、そうではないと分かる場面はいくらでもあった。
暖炉のある部屋を譲った冬、姉の指は冷えて紫色だった。舞踏会の相手を譲らせた夜、姉は無人の馬車寄せで一人、音楽を聞いていた。恋文を代筆してもらう間、姉が何度も便箋へ落とした涙の跡を、フローラは砂で消した。
気づかなかったのではない。気づいたと認めれば、自分は愛される妹ではなく、姉の苦しみを食べて育った人間になる。
だから、姉は何も欲しがらないのだと信じた。
婚約者まで受け取った今、その信じ方を変えることはできなかった。
「それより、誓詞はできたのか」
ジュリアンに問われ、フローラは微笑みを固めた。
「もちろんですわ。もう少しだけ整えます」
「君の言葉を楽しみにしている。手紙にあった、『愛とは、相手の孤独へ灯りを置くこと』という一節を覚えているか? あのような誓いがいい」
「ええ、覚えております」
本当は、覚えていなかった。
恋文を書くよう母に言われた時、フローラは最初の一通だけ自分で書いた。会いたい、好き、姉には内緒にして。ジュリアンから届いたのは、礼儀正しいだけの短い返事だった。
そこで母がエレノアへ命じたのだ。妹は繊細で気持ちを文章にできない、姉なら助けられるでしょう、と。
姉が清書した手紙を送ると、ジュリアンは熱のこもった長文を返してきた。彼が愛していると繰り返すたび、フローラは自分が姉より優れていると感じられた。誰が文を書いたかなど、小さなことだと思った。
「今日は母と宝飾店へ参りますので、誓詞は今夜仕上げます」
「青石の首飾りか」
「花嫁衣装に、あれ以上の品はありませんもの」
「エレノアが持っていったと聞いたが」
「借りるだけです。姉妹ですもの」
ジュリアンが帰ると、フローラは招待状を腕で脇へ寄せた。ベルフォール家の書庫、その一番下の抽斗に、姉が残した紙束がある。
エレノアは無駄な紙まで大事にした。書き損じた恋文も、使わなかった挨拶文も、裏へ日付を書いて束ねている。
フローラはそれを机へ広げた。
『あなたの孤独へ、私の小さな灯りを置くことをお許しください』
探していた一節が見つかる。その後には、病める時も健やかな時も、相手の沈黙を自分に都合よく決めつけない、と続いていた。
「少し堅すぎるわ」
自分らしく見えるよう、二、三の言葉を甘くする。誓詞はあっけないほど簡単にできた。
問題は首飾りだった。
その日の午前、仕立屋は二着目の花嫁衣装へ使う真珠の見本を持ってきた。一粒ずつなら小さいのに、裾へ縫いつければ馬車一台分の値になる。
「こちらは予定にございませんでした」
父の会計係が青い顔で言った。
「でも、一着目は式でしか着られないでしょう。祝宴では踊れる衣装が必要よ」
「通常は袖と上掛けを替えて――」
「お姉様の予定していた式より地味になるのは嫌」
会計係は助けを求めるように母を見た。以前なら、その視線の先にはエレノアがいた。姉が高価な花を一つ減らし、既存の真珠を縫い直し、誰も損をした気にならない答えを出した。
「青薔薇館の年金があるでしょう」
フローラが言うと、会計係は、それはエレノア様個人のものです、とかすれた声で答えた。
個人のもの。その言葉が、ひどく意地悪に聞こえた。姉妹なのに、フローラが一生に一度の花嫁になるのに、姉だけがお金を抱えている。
「管理人が、アニエス様の信託品はエレノアの許可なしに動かせないと申しております」
継母エレーヌは、法律家から返された申請書を持ってきた。
「それに、青薔薇館の年金も今年分は本人の口座へ移されました。式の不足分へ充てるなら、こちらもエレノアの署名が必要です」
「お姉様は、私へくださると言っていたわ」
「幼い頃の話でしょう。婚約解消の席では、はっきり拒んだではありませんか」
母の声には苛立ちだけでなく、珍しく恐れが混じっていた。
不足額は小さくない。金箔の招待状、王都一と評判の料理人、輸入した白薔薇、二着目の花嫁衣装。どれも一つずつなら払えたが、姉より豪華にしようと重ねるうち、父から認められた額を大きく超えた。
「招待状を銀箔へ戻し、二着目を諦めましょう。首飾りも別の物を」
「嫌よ」
考えるより先に答えた。
「お姉様は青い花がお好きだった。あの首飾りも本当は、自分の婚礼につけるつもりだったのよ。それを私がつけてジュリアン様の隣へ立てば、皆に分かるわ」
「何が分かるのです」
「私が選ばれたのだと」
母が黙った。
フローラは申請書を取り、姉の紙束から署名のある手紙を探した。エレノアの文字は、右上がりで細い。幼い頃、代わりに礼状を書いてもらった時から何百回も見てきた。
羽根ペンへインクを含ませる。
「おやめなさい」
母が手首をつかんだ。
「これはお願いの手紙ではありません。財産の使用許可です。本人でない者が署名すれば――」
「お姉様は訴えたりしないわ」
「今までのエレノアとは違います」
「違わない。少し怒っているだけよ」
フローラは母の手を外した。
招待状を延期することもできた。式を小さくして、首飾りを諦めることもできた。ジュリアンへ不足を打ち明ければ、怒るかもしれないが、まだ取り返せた。
けれど一度でも姉に負けた形になれば、ジュリアンまで自分を選んだことを後悔する気がした。
フローラは、エレノア・ベルフォールと書いた。
一枚目は最後の跳ねが不自然だった。破って暖炉へ入れる。二枚目はよく似ていた。青薔薇館年金からの前払いと、首飾りの婚礼当日までの貸し出し。その二つを許可する文章の下で、姉の偽りの署名が乾いていく。
「お姉様は最後には許すわ。いつも、そうだったもの」
翌日、ジュリアンへ誓詞を見せた。
彼は最初の数行を読み、顔を輝かせた。
「これだ。私が愛した手紙と同じだよ」
フローラは一瞬、すべてを言えると思った。
それを書いたのは姉だ。自分は、姉の言葉を借りただけ。そう告げれば、少なくとも嘘はここで止まる。
「さすが、私の愛した女性だ」
ジュリアンがフローラの指へ口づけた。
言えるはずがなかった。
「あなたのために書きましたの」
姉の言葉で愛されながら、フローラは微笑んだ。




