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「愛することはない」婚約者は、妹に譲ります  作者: 星舟能空


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第14話 私が選ぶ結婚

 求婚状を受け取ってから、十二日が過ぎた。


 私は毎晩、濃紺の封筒を抽斗から出した。結婚を望む理由、私の財産を公爵家へ組み入れないこと、子を得るためだけの婚姻ではないこと。アレクシス様の署名がある文面を読み、一度も返事を書かずに戻した。


 期限はないと言われると、今日決めても、十年後に決めてもよい。


 その自由が、かえって怖かった。


「今日は、ヴァレール公爵邸を見ていただきたいのです」


 アレクシス様がそう提案したのは、私が求婚状へまた目を落とした日の午後だった。


「妻になれば住む場所を、見ずに決める必要はありません。使用人も、私の普段の暮らしも。気に入らないところがあれば、遠慮なく」


「結婚をお断りする理由を探すのですか」


「受ける理由も断る理由も、どちらも知っていただくためです」


 王都のヴァレール公爵邸は、青薔薇館の三倍はあった。白い石の玄関、二階まで続く柱、磨かれた床。馬車を降りた途端、左右へ並んだ使用人たちが一斉に頭を下げた。


 足が止まった。


 この人々すべての名を覚え、家族の事情を知り、衣食住を管理し、夜会では一人の失敗も出さない。それが公爵夫人の役目だろう。私にできると証明できなければ、ここへ入る資格はない。


「並ばせないでと申し上げたでしょう」


 隣で、カミーユが兄を睨んだ。


「執事へは伝えた」


「皆、未来の奥様を一目見たかったのです」


 老執事が悪びれずに答える。アレクシス様は私を見た。


「人が多すぎますか」


「少し」


「では、紹介は三人までにしましょう。残りは仕事へ戻るように」


 叱責ではなく指示が飛び、列はほどけた。残った執事、侍女長、料理長が一人ずつ名乗る。覚えきれないことを謝ると、侍女長は名簿を差し出した。


「私どもも、奥様のお好みを一日では覚えられません。お互いさまでございます」


 館内を歩くと、飾られた豪華な部屋より、使われている場所が目に入った。書斎には書類が三つの山になり、一本だけ傾いた燭台がある。食堂ではなく小さな朝食室に、向かい合わせの椅子が二脚。書庫の窓辺には、読みかけの本を伏せて置いた跡があった。


「あの置き方は、本を傷めます」


「カミーユにも言われます」


「栞をお使いください」


「結婚前から叱られてしまいました」


 困ったように言う声は、少し嬉しそうだった。


 廊下の角で、若い従僕とぶつかりそうになった。彼の抱えていた紙束が床へ散り、インク壺が一つ転がる。


「申し訳ございません、公爵様!」


 従僕の顔から血の気が引いた。十二日前の自分を見るようだった。


 アレクシス様はインク壺を拾い、蓋が閉まっていることを確かめた。


「怪我は?」


「ございません」


「ならば急いで拾おう。西部の報告書は頁が混じると、私も困る」


 彼は腰を屈め、紙の番号を読み上げた。私とカミーユも手伝う。揃え終えると、従僕はもう一度頭を下げた。


「次からは、角で速度を落とすように」


「はい!」


 注意すべきことは注意し、失敗した人間そのものを傷つけない。私の前だけで作った顔ではなかった。


 私室のある東翼では、隣り合う二つの寝室を案内された。間には小さな居間があり、双方から鍵をかけられる扉がある。


「夫婦の寝室は、一つではないのですか」


「一緒に休みたい日には、どちらかの部屋を使えばよい。熱を出した時、一人で眠りたい時、私の帰宅が夜更けになる時まで、同じ寝台を義務にする必要はないでしょう」


 奥の部屋には濃紺の寝台掛け、手前には何も置かれていなかった。花嫁の好みを知らないまま調度を決めたくなかったらしい。


「扉の鍵も、私が持てるのですか」


「内側からしか掛からない物に替えます。鍵を掛けた理由を、あなたが説明する義務もありません」


 家にいた頃、私の部屋は外から施錠された。妹が寂しいと言えば夜中でも起こされ、父が命じれば抽斗まで調べられた。


 結婚すれば、夫は妻の部屋へいつでも入れる。それを当然と思っていた。


「私が、いつまでも扉を開けなかったら?」


「寂しくは思います。ですが、開けさせる権利が私に生まれるわけではない」


 彼は私を安心させるため、寂しさまでないことにはしなかった。望みを持ちながら、相手の境界を守る。その両方ができる人なのだ。


「壁紙も、寝台も、あなたが望む物を決めてください。結婚を選ばなかった場合は、客室へ戻します」


 空っぽの部屋は、私へ用意された檻ではない。入るかどうかも、入った後の形も、まだ何一つ決められていなかった。


「書斎で、お見せしたい物があります」


 机には二冊の薄い冊子が置かれていた。


 一冊目の表紙は、『ヴァレール公爵夫人の慣例的職務』。晩餐会の主催、慈善院の後援、領地祭への出席、親族への贈答。頁をめくるほど、胸が狭くなる。


 二冊目には、『代行・辞退・変更が可能な事項』とあった。


「これは?」


「過去の公爵夫人がしてきたことと、法的に必要なことを分けました。必要なのは年に二度の公式行事への同席と、家政方針の承認。病気や事情があれば、それも代理を立てられます」


「慈善院は」


「続けたいものを選べます。何も選ばなくても構いません」


「晩餐会を開かなければ、社交上の評判が落ちるのでは」


「落ちる可能性はあります。その場合の不利益は私も引き受けます。あなた一人の失点にはしません」


 アレクシス様は、美しいことだけを言わなかった。公爵夫人になれば、見られる。噂される。選択には時に損が伴う。それでも、損を避けるため私だけへ我慢を求めないと記されている。


「結婚後、青薔薇館はどうなりますか」


「あなたの所有のままです。年金も同じです」


「もし私が、今日お断りしたら?」


 彼は机の抽斗から別の書類を出した。青薔薇館の法律家との契約書だった。依頼主の欄には私の名だけがあり、五年分の報酬はすでに母の信託から確保されている。


「私との交際に関係なく、契約は続きます。館の警備も、あなたご自身が不要と言うまで。断られた腹いせに、あなたの安全を奪える仕組みにはしていません」


 逃げ道まで、本当に残されていた。


 私は安心するはずだった。けれど胸に浮かんだのは、ここから一人で青薔薇館へ帰り、もう彼が訪ねてこない朝だった。


「お庭も見ますか」


「いいえ。もう少し、ここにいたいです」


 初めて入った書斎なのに、窓から差す光も、書類の匂いも、彼がどの椅子へ座るかも知りたいと思った。


「アレクシス様は、結婚したら何を変えたいのですか」


「朝食室へ、あなたの椅子を置きたい」


「今も二脚ございます」


「あれは来客用です。背が高く、あなたには合わない。青薔薇館で使っている椅子の寸法を聞いて作らせます」


「ほかには?」


「苦い茶を置く。庭の一画を、あなたが選ぶ青い花にする。夜会から帰った後、どうしてあの客は三度も同じ自慢をしたのかと、二人で悪口を言う」


「公爵様が悪口を?」


「あなた以外には言いません」


 想像すると笑みがこぼれた。


「老いたら?」


 尋ねると、彼は少し考えた。


「今よりさらに頑固になり、医師の言うことを聞かず、あなたに叱られるでしょう」


「それは困ります」


「見捨てますか」


「いいえ。きっと、栞と薬を持って追いかけます」


 答えた声が、自分の耳へ返ってきた。


 私は、彼の向かいで朝食を食べたい。雨の日に同じ書庫で本を読みたい。老いた彼の頑固さへ腹を立てたい。妻として正しく働けるかではなく、この人と暮らしたいと思っている。


 鞄から濃紺の封筒を出した。


「署名するところを、お借りしてもよろしいですか」


 アレクシス様の呼吸が止まった。


「今日でなくても」


「今日がよいのです」


 求婚状を机へ広げる。最後の空欄へ、エレノア・ベルフォールと書いた。誰かの恋文でも、妹の祝福文でもない。私の未来を選ぶための署名だった。


「私はまだ、あなた様と同じように愛しているとは言えません」


「分かっています」


「それでも、朝食であなた様の向かいへ座りたい。うまくできない日も、老いたあなた様も知りたい。私は、あなた様と結婚したいです」


 アレクシス様は目を閉じ、一度だけ深く息を吐いた。


「愛しています、エレノア。今すぐ同じ言葉を返さなくていい。あなたが選んでくれた今日を、大切にします」


 彼は腕を広げかけ、止まった。


「抱き締めても?」


 私は待たれている距離を、自分から一歩進んだ。


「はい」


 腕が背へ回る。強いのに、いつでも離れられる抱き方だった。耳を胸へ当てると、落ち着いて見える彼の心臓も、私と同じくらい速い。


 しばらくして、彼が髪の上から尋ねた。


「婚礼に使いたい色はありますか」


 以前なら、ヴァレール家の慣例を聞いただろう。


 今は顔を上げ、迷わず答えた。


「青がよいです」


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