第8話 幕間・選ばれたはずなのに
フローラは、姉の返書をもう一度読んだ。
『私は帰りません。
フローラとジュリアン様の婚礼の文章も作りません』
たったそれだけの文章なのに、読むたび黒い文字が増えているように見える。
「意地悪だわ」
紙を握り潰そうとすると、父が取り上げた。
「証拠を傷めるんじゃない。公爵家から法律家までついている。こちらが脅したと訴えられたらどうする」
「お姉様が、お父様を訴えるはずがないでしょう?」
「以前ならな。今は誰に何を吹き込まれたか分からん」
書斎の机には、婚礼招待客の名簿が三種類広げられていた。ベルフォール家、モンテーニュ家、王都の儀礼官が作ったものだ。全員の順番が違う。
母エレーヌは朝から、どの公爵夫人を最上段へ置くかで仕立屋と口論している。招待状の紙は届いたのに、文面が一行も決まらない。
「花の配置なら、もう決めたわ」
フローラは自分で描いた卓上装花の図を広げた。白薔薇の中央へ薄緑のリボンを流し、燭台の根元へ真珠を散らす。母も仕立屋も、その趣味のよさだけは褒めた。
「問題は花ではないの」
母は三冊の名簿を指で叩いた。
「モンテーニュ侯爵家と対立中の伯爵を同じ卓へ置けば、乾杯前に帰られるわ。王弟妃の侍女長より、新任の子爵夫人を上座へ置くわけにもいかないでしょう」
「そんなの、皆様が大人として仲よくすればいいのよ」
「あなたが侯爵夫人になれば、その『仲よく』を取り持つのも役目です」
花やドレスなら、最も美しいものを選べばよい。人の恨みや古い約束は、どちらが美しいかで決まらない。姉は名を見ただけで、誰の隣を空けるべきか分かった。
フローラは名簿を閉じた。知らないことを認めれば、母まで姉を呼び戻そうとする。
「明日には戻ると思っていたのよ」
母がこめかみを押さえた。
「あの子は、叱れば最後には分かるでしょう。あなたも余計なことを言わず、少し泣いてお願いすればよかったのに」
「お願いしたわ。首飾りだって、貸してくれるはずだったの」
「泣き方が足りなかったのではない?」
まるで姉を追い出したのが、自分の失敗のように言われている。
フローラは唇を尖らせた。
「お姉様はいつも戻ってきたもの」
幼い頃、喧嘩をして姉を庭へ締め出した時も、夕方には窓を叩いて謝った。母の髪飾りをフローラが返さなかった時も、姉は翌朝には髪を結ってくれた。今回だって、寒くて寂しい館で一晩眠れば、家のありがたさが分かるはずだった。
それなのに、姉は帰らないと言う。
「ジュリアン様がお見えです」
侍従の声に、フローラは顔を明るくした。
父と母は婚礼準備で自分を責めるが、ジュリアンだけは違う。彼は姉ではなく自分を選んだ。二十三年も家の中心にいた姉より、十九歳の自分を。
それだけで、すべて正しいはずだった。
◇
「招待状の草稿を見せてくれると言っていたね」
ジュリアンはフローラの居間へ入るなり尋ねた。
「ええ、もちろん」
フローラは机の前へ座った。乳白色の紙には、まだ日付と二人の名しか書かれていない。
「その……候補が多くて迷っているの」
「君の言葉なら、何を書いても美しいよ」
彼は優しく笑った。
フローラはインクへペンを浸した。
『運命に結ばれた二人が、皆様の祝福のもと――』
運命に結ばれた、の先が出てこない。幸福になります、では幼い。永遠の誓いを結びます、では同じ言葉が続く。
「ゆっくりでいい」
ジュリアンが隣に立ったため、指先に汗が滲んだ。
彼が好きだと言ったフローラの手紙は、いつも長かった。冬の静けさを孤独へ、春の芽吹きを希望へ変えるような言葉が、紙の上へ自然に並んでいた。
最初の一通を書いた夜を、フローラは覚えている。
姉は北の部屋で、短い蝋燭へ顔を寄せていた。昼にフローラのドレスを直したせいで指先が腫れていたのに、継母から「この子の初恋が懸かっているのよ」と言われ、明け方まで紙へ向かった。
『あなたの気持ちを、私が書いてしまってよいの?』
姉は一度だけ尋ねた。
『私より、お姉様の方がきれいに書けるもの。姉妹なら同じでしょう?』
フローラが答えると、姉はそれ以上聞かなかった。
知らなかったのではない。姉の言葉だと分かった上で、ジュリアンが喜ぶたび、自分の心として受け取ってきた。
フローラ自身が書こうとすると、花はきれいで、音楽は楽しく、会いたい夜は寂しい。それ以上に何を書けばよいのか分からない。
「少し、以前の文章を見てもよいかしら」
机の一番下から、姉が残した草稿の束を出した。
『春の光が雪をほどくように、あなたの言葉は私の臆病な心をほどいてくれました』
これは春の礼状。
『喜びを一人で抱えるには、人生は長すぎます。あなたと分かち合う日を待っています』
これは去年の誕生日。
二枚から半分ずつ取り、語尾を直す。
『春の光が雪をほどくように結ばれた二人が、人生の喜びを分かち合う誓いを立てます』
「どうかしら」
ジュリアンは紙を受け取り、目を細めた。
「素晴らしい。やはり君の言葉は特別だ」
胸が大きく鳴った。
今なら言える。
これは姉の言葉なのだと。自分は気持ちを話し、姉が整えてくれただけだと説明すれば、ジュリアンも少し驚くだけかもしれない。
けれど、彼の目から賞賛が消える場面を想像した。
『なら、私が愛していたのは誰だ?』
そんなことを言われたら、姉がまた勝ってしまう。
「気に入ってくださって嬉しいわ」
フローラは微笑み、草稿の束を腕で隠した。
告白する機会は過ぎた。
「残る問題は客席と、式後の晩餐会だな」
ジュリアンは招待客名簿を広げた。
「エレノアなら両家の付き合いを把握している。君から頼めば、さすがに戻るだろう」
「お姉様でなくても、私にできます」
「もちろん。だが結婚後は、侯爵家の晩餐会、領地から来る陳情、贈答の返礼もある。最初は彼女に教わった方が楽だ」
選ばれたのは自分なのに、結婚した後まで姉が必要だと言う。
「愛しているなら、そんな面倒なことを私にさせないで」
ジュリアンの眉がわずかに上がった。
「侯爵夫人として必要な役目だ。私も君のために婚約解消の非難を受け、両家を説得している」
「それは、愛しているから当然でしょう?」
「では、君も私を愛しているなら、支えるのは当然ではないのか」
いつものジュリアンと違う。
恋文には、弱いままのあなたを愛する、と書いた。もちろん姉が考えた言葉だが、ジュリアンは何度も読み返していた。それなのに、いざ結婚が決まると役目の話ばかりする。
「お姉様が戻れば済むことでしょう」
フローラが言うと、彼の表情が和らいだ。
「そうだな。エレノアは責任感が強い。君が困っていると知れば放っておけない」
それはフローラを信じた笑顔ではなく、姉が戻ることを信じた笑顔だった。
「でも、式を延期する必要はないわ」
フローラは名簿を引き寄せた。
「延期?」
「お父様が、招待状が間に合わないなら日を改めると言ったの。でも嫌。お姉様がいなくても、もっと豪華な式にしてみせます」
「急いで見苦しい式になるより、延期した方が」
「見苦しくなんてしないわ」
姉が帰るまで待てば、皆はまた姉のおかげだと言う。フローラの真実の愛さえ、姉に整えてもらわなければ形にならないと思われる。
そんなことは許せなかった。
「春の大広間を借りましょう。花は王宮御用達の店へ頼んで、料理は十二品。招待客も減らさないわ」
「費用が増える」
「ベルフォール家にも年金があるもの。お姉様の青薔薇館だって、家族の財産でしょう?」
ジュリアンは少し考えた後、頷いた。
「エレノアが許すなら問題ない。手続きは彼女に任せよう」
フローラは返事をしなかった。
姉の手紙には、母の財産も譲らないと書かれていた。だが、あれは腹を立てている間だけの言葉だ。フローラが本当に困れば、最後には許す。
これまで一度も、そうならなかったことはない。
「招待状は今日中に仕上げるわ」
彼女は姉の古い草稿から、もう一枚を抜き取った。
「婚礼は延期しません。お姉様が夢見たはずの式より、ずっと豪華にします」
選ばれたのは自分なのだ。
姉がいなくても幸せになれると、誰より姉に見せつけなくてはならなかった。




