↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「愛することはない」婚約者は、妹に譲ります  作者: 星舟能空


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/30

第7話 急がない求婚者

 交際を申し込みたい、と告げられてから五日。


 アレクシス公爵は、私へ何も求めなかった。


 毎朝、湖畔へ散歩に出るかとカミーユ様を通じて尋ね、私が断れば一人で出かけた。食卓では天気と料理の話をし、婚約解消にも実家にも触れない。夜は青薔薇館に泊まらず、近くの公爵家別邸へ戻る。


 私が返事をするまでの猶予なのだろうと思い、一日目は答えを考えた。


 二日目には、待たせるのは失礼だと思った。


 三日目、親切が尽きて申し出を撤回されるのを想像した。


 五日目の朝、私はとうとうカミーユ様へ尋ねた。


「公爵閣下は、いつまで待つおつもりでしょう」


 彼女は紅茶へ砂糖を落とす手を止めた。


「その質問は、兄へ直接なさった方がよいと思います」

「でも、私から催促するようでは」

「返事を急かさないと言いながら、いつまでか決めていたら、兄は嘘つきです」


 カミーユ様は二つ目の角砂糖を入れ、少し考えた。


「今日の午後、兄と話す時間を作りましょうか。それとも、まだ会いたくありませんか」


 会いたくないわけではない。


 むしろ食卓で彼の席が空くと、気になっていた。羊の煮込みが出た夜、彼がまたクリーム煮を選んだことも覚えている。


「お話ししたいです」


 自分の希望を口にするたび、まだ身体のどこかが身構える。それでも、吐き気はしなかった。


     ◇


 午後、公爵は青薔薇館の小客間へ一人で来た。


 長椅子ではなく、私から二歩離れた一人掛けの椅子へ座る。卓上には茶と菓子が用意されていたが、彼は手をつけなかった。


「先日は、一方的に話してしまいました」


 彼が先に頭を下げた。


「婚約解消から日が浅いあなたへ求婚すれば、住まいと支援を引き換えに返事を迫ることになる。だから結婚ではなく、互いを知るための交際を申し込みたい」

「断れば、ここを出なくてはなりませんか」

「いいえ。青薔薇館はあなたの家です。法律家との契約も継続します。カミーユとの友人関係へ、私が条件をつける権利もない」


「交際を断った後、別の方から縁談が来ても?」


 聞きながら、自分でひどいことを言っている気がした。助けてもらった相手の前で、別の男性との未来を口にするなど。


 しかし彼は視線を逸らさなかった。


「あなたが望むなら、私には止める権利がありません。嫉妬はするでしょうが」

「嫉妬なさるのですか」

「します。感じないふりをして、あなたへ責任を負わせるつもりはありません」


 ジュリアンは心を契約で縛れないと言いながら、私が傷つくことは許さなかった。この人は、自分の感情を私の義務へ変えないために、先に名前をつける。


「交際が公になれば、閣下の評判にも関わります」

「あなたとの交際を恥じる予定はありません。婚約解消直後につけ込んだと思われないよう、始める時期と公表の仕方はあなたと相談したい」

「私の評判を守るためですか」

「あなたの評判と、私が実際にあなたを急かさないためです。言葉だけで待つと言っても、周囲が婚約者として扱えば圧力になる」


 彼はすでに、自分の親切が私を追い詰める可能性まで考えていた。

「では、何のために私と」


 公爵は黙った。


 返事を待っているのではなく、言葉を選んでいる。その沈黙を埋めなくてよいと分かるまで、少し時間がかかった。


「あなたへ同情しているからだと、お考えですか」

「違うのですか」

「同情はあります。傷つけられた人を見て何も感じないとは言いたくない。しかし、それだけなら住まいと法律家を手配して終わります」


 彼は卓上の菓子へ目を落とした。赤い胡椒を練り込んだ、小さな焼き菓子である。


「私は、辛い煮込みを食べながら泣き、二口目では料理へ腹を立てたあなたが好きです」

「腹を立ててなど」

「『おいしいけれど、これは辛すぎます』と皿へ文句を言っていました」


 覚えていなかった。涙で混乱し、そんなことを口走ったらしい。顔が熱くなる。


「あれは香辛料のせいです」

「ええ。その顔を私へ見せるのに、何の役にも立つ必要はなかった」


 彼の口元がわずかに緩んだ。


「カミーユのデビューの日、あなたは妹へ席を譲った。私はそれだけを聞けば、また自分を犠牲にしたのだと思っていました」

「違うのですか」

「後で給仕から聞きました。あなたは空いた椅子を、足を痛めていた年配の使用人へ回したそうですね」


 思い出した。壁際に立ち続けていた給仕がつらそうだったので、休憩時間だけ使ってもらった。


「誰も見ていないところで、あなたは人をよく見ている。だからといって、私のために何かをしてほしいわけではありません」


 公爵は私の目を見た。


「あなたの頑固なところも知りたい。嫌いなものを嫌いと言う声も、妹君と関係のない望みも。私はあなたを大切にしたい。あなたが同じ気持ちになるまで、いくらでも待つ」


 胸が痛んだ。


 ジュリアンも、最初から正直だった。


『君を愛することはない』


 だから私は、望まなければ傷つかないと思った。今度は目の前の人が、大切にしたいと言う。その言葉を信じた後で失えば、以前より痛む。


「私には、恋が分かりません」

「はい」

「閣下を好きなのかも、分かりません」

「それも、今は当然でしょう」

「待っていただいた結果、好きになれないかもしれません」


 これを言えば、さすがに彼も困ると思った。


「その時は、残念がる許可だけいただきます」


 公爵は真顔で答えた。


「あなたを責めず、青薔薇館も取り上げず、一人で十分に残念がります」


 あまりに律儀な言い方で、息が少し漏れた。笑いかけたのだと気づき、私は口元を押さえた。


「知り合うだけなら」


 押さえた指の間から言う。


「あなたと、知り合いたいです」


 公爵はすぐに私の手を取らなかった。立ち上がり、胸へ片手を当てて礼をする。


「ありがとうございます、エレノア」


 名前を呼ばれても、今度は借りが増えたとは思わなかった。


     ◇


 交際の最初に何をするのか、私には分からなかった。


 公爵へ尋ねると、彼も「私も詳しくない」と答えた。三十歳の公爵が言うには頼りないが、分かったふりをしない点は信用できた。


 結局、二人で庭を歩くことになった。少し離れてカミーユ様と侍女がついてくる。


 石段には昨夜の雨が残っていた。公爵が腕を差し出す。


「使いますか」


 私は反射的に手を伸ばしかけ、止めた。手を借りれば、交際を受けたから触れたと思われるだろうか。断れば、好意を拒絶したことになるだろうか。


「足元のためだけです」


 迷いを読んだ彼が付け加えた。


「嫌なら手摺があります」


 私は濡れた手摺と、黒い上着の腕を見比べた。


「お借りします」


 指を置くと、公爵は握り込まず、私が体重を預ける分だけ支えた。石段を下り終えると、すぐに腕を離す。


 その短い接触が、八年間つけていた婚約指輪よりも、私の選択に近いものに思えた。


 青薔薇館の庭は長く手入れされていなかった。信託の収入は建物の維持へ優先され、薔薇園は最低限の剪定だけで残されている。


「枯れ枝はすべて切りましょう」


 庭師が鋏を手に説明した。


「古い株です。春に新しい苗を植えた方が、見栄えは早く整います」


「それがよいと思います」


 いつもの答えが口から出た。


 公爵は庭師へ指示せず、私へ尋ねた。


「何か気になりますか」

「いいえ」

「では、あの枝を見ているのはなぜです」


 指された先に、石壁へ沿って伸びた太い株がある。黒ずみ、ほとんど枯れて見えるが、根元に小さな青緑の芽が一つ出ていた。


 母の手紙に、窓のそばの一番古い薔薇、とあった。私が生まれた年に挿し木した株かもしれない。


「あれだけ、残せますか」


 庭師ではなく、公爵へ言ってしまった。


「私ではなく、彼へ頼んでください」


 突き放されたのかと思い、顔を上げる。公爵は穏やかな目で庭師を示した。


「この庭の持ち主はあなたです。理由も、あなたの口から聞いた方が彼は育てやすい」


 庭師が帽子を脱ぎ、待っていた。


「古い株を一本、残したいのです」

「花が咲かない可能性もございます」

「それでも。新しい苗も植えてください。でも、この芽がどうなるか見ていたい」


 庭師は株へ屈み、根元を調べた。


「承知しました。急いで切らず、春まで養生してみましょう」


「ありがとうございます」


 私は公爵を見た。彼は自分の功績のように頷かず、庭師へ礼を言う私を待っている。


 枯れ枝を残すことが正しいかは分からない。春になっても、花は咲かないかもしれない。


 それでも庭には、私が残したいと言って残ったものが一つできた。


「次は何をしますか」


 公爵が尋ねた。


 交際の手順を決めてくれるのかと思ったが、彼も答えを待っている。


「お茶を飲みたいです。外で」


 風は冷たかったし、館へ戻る方が楽だった。それでも古い薔薇のそばにもう少しいたかった。


「では、卓を用意してよいか、あなたから執事へ頼んでください」


「また私が?」

「練習がお嫌なら、今日は私が」


 少し悔しくなった。


「私が頼みます」


 公爵の目元に笑いが浮かぶ。褒められるより先に、私は執事を呼んだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。