第6話 帰りません
命令書を読み終える前に、私は鞄を開いていた。
灰色の普段着を畳み、寝衣を押し込む。櫛と母の本を入れたところで、青い鍵が机に残っていることに気づいた。
置いていかなくてはならない。
私はこの館を一晩使った。湯を沸かしてもらい、食事を取り、蝋燭を二本も燃やした。これ以上迷惑をかければ、父の怒りが青薔薇館の人々へ向くかもしれない。
鍵へ手を伸ばした時、扉が叩かれた。
「おはようございます、エレノア様。朝食へ――」
入ってきたカミーユ様が、開いた鞄を見た。
「お帰りになるのですか」
責める声ではなかった。そのため私は、用意していた謝罪をうまく言えなかった。
「父から命令が来ました。婚礼の準備が滞っているそうです」
「帰りたいですか」
「私が書かなければ、招待状が間に合いません」
「それは、帰りたいという意味でしょうか」
私は衣服の皺を何度も伸ばした。
「行かなければ、父が怒ります」
「それも、エレノア様が帰りたいかどうかとは別です」
カミーユ様は鞄を閉めもせず、服を取り出しもしなかった。寝台の端へ腰掛け、私が答えるのを待つ。
父の命令には、帰る時刻まで書いてあった。正午の馬車へ乗れ。婚礼の招待状百二十通、誓いの言葉、客席順を今月中に整えよ。首飾りについても考え直せ。
したいかどうかは、どこにも書かれていない。
「分かりません」
やっと言うと、カミーユ様は頷いた。
「では、朝食を食べてから考えましょう。正午まで、まだ三時間あります」
「止めないのですか」
「止めてほしいですか」
また答えられなかった。
小食堂へ行くと、アレクシス公爵はすでに命令書の写しを読んでいた。法律家が念のため複製したらしい。
「ベルフォール伯爵へ、公爵家の名で拒否を通告できます」
彼は私が席へ着くのを待ってから言った。
「以後の接触も禁じられる。望むなら今日中に手配します」
「お願いいたします」と言えば済む。父より強い人に命じてもらえば、私は悪い娘にならなくてよい。
「ただし」
公爵は続けた。
「それでは、あなたの返事を私が奪うことになる。私が書くか、あなたが書くか、今は何も返さないか。決めるのはあなたです」
逃げ道だと思った場所まで、私へ返された。
朝食のパンは柔らかかった。口へ入れても、喉が閉じて呑み込めない。私は皿の端へ小さくちぎったパンを並べ続けた。
「正午の馬車は、見送っても構いません」
公爵が言った。
「返事が明日になっても、来月になっても、青薔薇館から追い出されることはない」
「でも、招待状が」
「妹君とモンテーニュ令息は、文字を書ける成人です」
カミーユ様が吹き出し、慌てて口元を押さえた。
「ご、ごめんなさい。でも、お兄様の言うとおりです」
私も笑うべきか迷い、結局、パンを一欠片だけ食べた。
正午になると、王都行きの定期馬車が青薔薇館の門前へ止まった。
私は外套を着て、閉じた鞄を持ち、二階の窓からそれを見ていた。御者が一度、呼び鈴を鳴らす。カミーユ様は後ろにいたが、「行かないで」とも「行きなさい」とも言わなかった。
「乗るなら、鞄を運びます」
それだけ言った。
私は階段を三段下りた。父の命令に遅れれば、帰宅してから長く立たされる。継母は、反省するまで夕食を出さない。フローラは泣きながら抱きつき、どうして置いていったのと責めるだろう。
玄関まで、あと十段だった。
御者が二度目の鐘を鳴らす。
「今日は、乗りません」
私は手すりを握ったまま言った。
カミーユ様は階下の執事へ、「出発していただいて」と伝えた。馬車が動く音を聞きながら、私はその場へ座り込んだ。
まだ父へ何も断っていない。それでも命令された時刻を一つ過ぎたことが、生まれて初めて自分で選んだ小さな不服従だった。
◇
青薔薇館の書斎には、紙が何種類もあった。
白、乳白色、薄い青。私は最も安価に見える白を選び、父の命令書を隣へ置いた。
『承知いたしました。すぐに戻ります』
そこまで書き、破った。
『体調が優れないため、三日の猶予を』
これも破る。三日後に帰る約束になる。
『公爵家のご命令により、帰宅できません』
公爵へ責任を渡す文章だった。
机の横には小さな屑籠があり、紙片が増えていった。ベルフォール家なら、紙を無駄にしたことを継母に叱られる。私は破った紙を伸ばし、裏側を使おうとした。
「紙はあります」
いつの間にか、アレクシス公爵が入口に立っていた。
「驚かせて申し訳ない。入っても?」
「はい」
彼は机へ近づかず、窓辺の椅子へ座った。手には自分の書類を持っている。
「見張っているのではありません。私も返事が必要な手紙を持っています。人がいる方が困るなら、別室へ行きます」
「いてください」
考えるより早く言葉が出た。私はすぐに俯く。
「申し訳――」
「分かりました」
彼はそれだけ答え、自分の手紙を開いた。
時計が半刻を刻む。外で庭師が枝を運ぶ音がし、湖を渡る鳥の声が聞こえた。公爵は何度かペンを走らせたが、私の白紙を覗かなかった。
私は父の手紙を読み直した。
『姉としての責任を忘れるな』
フローラがこの家へ来てから十五年、私は忘れたことがない。だから母の部屋を譲り、誕生日を譲り、踊る相手を譲り、婚約者まで譲った。
姉としての責任が、私の人生をすべて使い切っても終わらないのなら、いつまで続ければよいのだろう。
私は新しい紙を取った。
『お父様。
私は帰りません。
フローラとジュリアン様の婚礼の文章も作りません。招待状、誓詞、客席順は、お二人で相談してお決めください。
婚約者は妹へお譲りしました。それ以外の私の時間、言葉、母の財産を譲るつもりはありません。
お二人でお幸せに。』
最後に、エレノア・ベルフォールと署名した。
フローラの名で書いたどの恋文より、短い手紙だった。書き終えるまで半日かかった。
「封をしても?」
公爵が尋ねた。
私は読み返した。帰りません、という四文字が、紙から私を睨んでいる。父の顔を思い浮かべると、腹の底が冷えた。
「お願いします」
青い封蝋を落とし、私自身の印章を押す。公爵は手を出さず、私が印を持ち上げるまで待った。
◇
返書は午後の便で出した。
騎手が門を離れ、湖沿いの道へ消える。私は玄関前から動けなかった。
「取り戻せますか」
「今なら追いつけます」
公爵は正直に答えた。
私は一歩、門へ向かった。
父が手紙を読む。机を叩く。継母が恩知らずと言う。フローラが泣く。ジュリアンが、分別ある君らしくないと失望する。
胃がひっくり返り、私は道端の植え込みへ駆けた。
朝食がほとんど出ないまま、身体だけが何度も痙攣した。背後で衣擦れがする。
「背へ触れてもよいですか」
公爵の声だった。
私は返事をしようとしたが、息しか出ない。彼は触れずに待った。
「……はい」
大きな掌が、肩甲骨の間をゆっくり撫でた。急かすように叩かず、吐き気が治まるまで同じ速さで動く。
「手紙を出しただけで、こんな」
涙と唾液で汚れた口元を、カミーユ様が持ってきた布で拭いた。
「帰った方が、よかったのでしょうか」
「あなたは、帰りたいですか」
また同じ問いだった。
けれど今度は、答えが分かった。
「帰りたく、ありません」
言った途端、また吐き気が来た。それでも誰も怒らなかった。カミーユ様は水を差し出し、公爵は背を撫で続けた。
「よく言えました、とは申しません」
公爵が布越しに私の背へ触れたまま言った。
「帰らないことが正解だから褒めるのでは、次は私の正解を探すようになる。あなたが望んだことを、私は覚えておきます」
褒められなかったのに、見捨てられたとは感じなかった。奇妙なことだった。
夕方、法律家から短い報告が届いた。
ベルフォール家では招待状の第一便を出せず、継母と仕立屋が客の序列を巡って口論。フローラは私の返書を破ろうとして父に止められ、「お姉様の意地悪」と泣いたという。
私はそれを読んでも、喜べなかった。ただ、誰も死なず、家も燃えず、婚礼が一日遅れただけだと知った。
夜、アレクシス公爵が書斎へ来た。
「今すぐ返事を求める話ではありません」
彼は扉の内側へ入らずに告げた。
「あなたが落ち着き、誰かの命令でなく自分の考えを選べるようになってから、正式に交際を申し込みたいと思っています」
「私に、ですか」
「あなたにです」
なぜ、と聞く前に、彼は一礼した。
「今日はもう何も決めなくていい。おやすみなさい、エレノア」
扉が閉じた後も、自分の名を呼ばれた音だけが、長く部屋に残った。




