第5話 あなたは悪くない
青薔薇館は、湖へ張り出すように建っていた。
灰色の石壁を蔦が覆い、門から玄関までの道には、冬枯れした薔薇の枝が並んでいる。花は一輪もない。それでも枝の間から見える湖面の青に、胸が締めつけられた。
母の手紙には何度も、この館のことが書かれていた。
『春には青い薔薇を見に行きましょう。エレノアが大きくなったら、好きな部屋を選んでね』
その約束を果たす前に、母は亡くなった。
「エレノア様、お帰りなさいませ」
玄関前には、銀髪の婦人と使用人たちが並んでいた。婦人はヴァレール兄妹の伯母にあたるマドレーヌ様で、信託管理人から頼まれ、長く館を守ってくださっていたという。
「お帰り、なのですか」
「ええ。ここはあなたの家ですもの」
差し出された銀盆に、青い石を埋め込んだ鍵が載っていた。
私は受け取れなかった。
「私が持ってよいのでしょうか」
「持ち主が持たず、誰が持つの?」
「マドレーヌ様が管理してくださっていたのなら、そのままお預けした方が」
婦人は鍵を私の掌へ載せ、指を閉じさせた。冷たい金属が針傷へ触れる。
「管理を手伝うことと、あなたのものを取り上げることは違うわ。使い方が分からないうちは相談して。けれど鍵を持つのはあなたよ」
私のものを、私が持つ。
昨日、必死で口にした言葉を、今日は他人が当然のこととして返してくれた。
玄関扉へ鍵を差し込む。錠は少し固く、二度目で回った。
「お帰りなさいませ、エレノア様」
今度は使用人たちの声が重なった。
喉が詰まり、ただ頭を下げた。
◇
「こちらが主寝室です」
二階の南側へ案内され、私は足を止めた。
窓が三つもある。湖が見え、青い絨毯が敷かれ、壁際の暖炉には火が燃えている。寝台は三人でも眠れそうに広かった。
「カミーユ様にお使いいただいてください」
「私?」
後ろからついてきたカミーユ様が目を丸くする。
「私は北側の小部屋で十分です。お客様に狭い部屋を使わせるわけには」
「お客様は私の方です。ここはエレノア様のお家ですよ」
「でも、私は丈夫ですから」
言い終えた途端、全員が黙った。
間違えたらしい。私は慌てて言葉を足す。
「火のない部屋にも慣れておりますし、窓が一つあれば――」
マドレーヌ様が、私の冷えた手を見た。
「今夜はこの部屋で眠ってみて。嫌なら明日、別の部屋を選びましょう。譲るのではなく、あなたが選び直すの」
断る理由を失い、私は頷いた。
侍女が湯を運び、浴槽を満たしてくれた。香油まで用意されている。私は皆が下がると、桶で半分を汲み出した。
こんなに多く使えば、次の人の分がなくなる。冷める前に戻せば、カミーユ様が使えると思った。
ところが廊下へ桶を運ぼうとしたところで、侍女と鉢合わせた。
「まあ、お湯がぬるかったでしょうか」
「違います。残りをカミーユ様へ」
「令嬢のお湯は別に準備しております。こちらはエレノア様のために沸かしたものです」
「でも、半分で足ります」
「半分がよろしければ、次からそういたします。でも今夜の残りは、冷めれば捨てるだけです」
捨てる。
妹へ渡らず、誰の役にも立たず、ただ冷めてなくなるものが、この家にはあるらしい。
私は桶を浴室へ戻した。それでも肩まで浸かる勇気はなく、膝を抱えて湯気の中に座った。
夜着へ着替え、寝室の燭台を見た。蝋燭が六本立っている。私は五本を吹き消した。
一冊だけ持ってきた母の本を開く。けれど暖炉の火が明るすぎて、落ち着かなかった。薪を一本抜こうと火掻き棒へ手を伸ばした時、扉が叩かれた。
「私です。入っても?」
アレクシス公爵の声だった。
「はい」
彼は扉の外に立ったまま、私が「どうぞ」と言うまで入らなかった。手には封をした書類と、小さな布包みがある。
「信託の明細です。今夜読む必要はありません。それから、法律家が保全した首飾りを」
布の中から、青い石が現れた。
母の首にあった頃より小さく見えた。石へ触れると、幼い日の体温まで戻ってくるようで、私は急いで手を離した。
「金庫へ入れておきましょうか」
「お願いします」
「場所は一緒に確認してください。暗証符もあなたが決める。私もカミーユも知る必要はありません」
彼は首飾りを持ち去らず、机へ置いた。
「灯りが足りませんか」
一本だけの蝋燭を見て、彼が尋ねる。
「十分です」
「残りは嫌いですか」
「いいえ。減るのが、もったいなくて」
「この館の年金には、蝋燭代も含まれています。使えば来月の分が届きます」
「私が何もしていなくても?」
公爵は答える前に、私の顔を見た。
「財産は褒美ではありません。あなたが寝ていても、怒っていても、誰にも感謝しなくても、あなたのものです」
その言葉は、立派な慰めより理解しにくかった。
◇
翌朝、湖に面した小食堂で朝食を取った。
カミーユ様は私の向かいへ座り、パンへ杏のジャムを厚く塗っている。公爵は窓際で手紙を読み、マドレーヌ様は今日の予定を執事と話していた。
私は何をすればよいか分からず、皆の茶が減るたびに立ち上がった。
「エレノア様、三度目です」
カミーユ様が笑う。
「私の手は動きますから。座って、一緒に食べてください」
「ですが、お世話になっているのに」
「三年前、私も同じことを言いました」
彼女は自分の頬の火傷痕へ指を当てた。
「初めての夜会で、誰も私の隣に座りたがりませんでした。私が喋るたびに笑う人もいた。あなたは席を譲ってくれて、私が言葉に詰まるたび、急かさず待ってくださった」
「あれは、席を替わっただけです」
「私には、その一席が必要でした」
公爵が手紙を畳んだ。
「カミーユから話を聞いた。今回の手助けには、あの日の礼も含まれている」
やはり返礼だったのだ。胸の力が少し抜ける。借りには理由があり、返し終えれば関係も終わる。分からない親切より、その方が扱いやすい。
「では、私はもう十分に返していただきました」
「違う」
公爵は即座に否定した。
「礼をしたかったのはこちらだ。あなたに借金を作るためではない。青薔薇館で休むことも、法律家を使うことも、返済を求める恩ではない」
「何も返さなくてよいのですか」
「少なくとも、我々へ返す必要はない」
私は膝の上で指を重ねた。
「それなら、なぜ皆様はここまで」
尋ねた途端、昨夜から押し込めていた言葉までこぼれた。
「私がもっと魅力的なら、ジュリアン様も妹を選ばなかったかもしれません。家族に迷惑をかけず、うまく笑えていれば、追い出されることも。私が悪くないなら、なぜ私だけが――」
声が切れた。
カミーユ様は手を伸ばしかけ、途中で止めた。公爵もすぐには慰めなかった。
「婚約中に妹へ心を移し、あなたの信頼を利用した」
彼は裁判の事実を読むように、一つずつ言った。
「それはジュリアン・モンテーニュが選んだ行為です。あなたの容姿や笑い方が、彼に不実を命じたのではない」
「でも、私が」
「あなたは悪くない」
低い声が、言い逃れを許さなかった。
「傷つけられた人間が、傷つけた側の名誉まで守れなかったとしても、それは罪ではありません」
私は反論を探した。悪くないのなら、父が怒った理由が分からない。フローラが泣いた理由も、ジュリアンが失望した理由も。
何より、私がこれほど苦しい理由が分からない。
見つからない答えの代わりに、涙が一滴、手の甲へ落ちた。
その夜、寝室の扉を閉めた私は、いつものように椅子を引きずろうとした。
ベルフォール家では、継母が夜中に入ってきて、翌朝までに直す服や手紙を枕元へ置いた。扉の前へ椅子を置けば、音で目を覚ませた。
青薔薇館の鍵は、私の掌にある。
今夜、この扉を開けるかどうかも私が決められる。
私は椅子を扉のそばまで運び、しばらく背へ手を置いた。それから机へ戻した。
蝋燭を二本残し、暖炉の薪にも触れなかった。
朝まで一度も扉は開かなかった。
目覚めた時、枕元には仕事の紙束ではなく、封をした一通の命令書が置かれていた。
差出人は父。表には大きな字で、こう記されている。
『フローラの婚礼準備のため、直ちに帰宅せよ』




