第4話 誰も追ってこなかった
鍵が回り、扉が開いた。
先頭に立っていたのは、左の頬から首筋へ薄い火傷痕のある令嬢だった。蜂蜜色の髪をきちんと結い、緊張した時にする癖なのか、手袋の指を一度強く握っている。
「エ、エレノア様。覚えて、いらっしゃいますか」
私は立ち上がった。椅子が床を擦り、白紙の山が揺れる。
「ヴァレール公爵令嬢。もちろんです」
三年前のデビュー夜会で一度会っただけだ。隣席の令嬢たちが彼女の吃音を真似したので、私は席を替わり、夜会が終わるまで雨の話をした。
カミーユ様は安堵したように笑った。
「よかった。兄は、あなたなら私を覚えていると言ったのです。でも、私は一度しかお話ししていないから」
彼女の後ろに、白髪交じりの男性が立っていた。濃紺の外套の胸へ、王都法律家組合の徽章をつけている。
「アルマン・ルグランと申します。亡きアニエス夫人の信託を管理しております」
母の名を他人の口から聞いた瞬間、呼吸が詰まった。
「母の……」
「はい。婚約解消の通知を受け、信託財産をエレノア様へ返還するため参りました。ところが、面会を断られましてな」
廊下の向こうから父が駆けてきた。継母と執事も続く。
「これは何の騒ぎです、公爵令嬢。娘は体調を崩して休んでいると申し上げたはずだ」
「机に婚礼招待状が積まれておりますけれど、これが療養でしょうか」
カミーユ様の声は少し震えたが、視線は逸れなかった。
法律家が一枚の書面を開く。
「エレノア様は二十三歳の成人です。伯爵といえど、ご本人の意思に反して居室へ施錠し、通信を禁ずる権限はありません。また青薔薇館と年金、宝飾品については、婚約解消の成立時点で管理権も本人へ移ります」
「家族内の躾に口を出すおつもりか」
「監禁を躾と呼ぶかどうかは、王都警備隊へ判断を仰いでも構いません」
父の顔色が変わった。
「誤解です。エレノアが自分から部屋へ籠もっただけだ。そうだろう?」
全員の視線が私へ向く。
父の後ろで継母が、ほんの少し首を横へ振った。余計なことを言うなという合図だ。
「エレノア様」
法律家は答えを急かさなかった。
「ここへ残ることもできます。青薔薇館へ移ることもできます。あるいは別の安全な場所を探すことも。どれを選んでも、財産に関する権利は変わりません」
残れば、どうなるかは分かっていた。扉の鍵は外されるだろう。けれど食事と蝋燭が減り、父は口を利かず、フローラは泣く。私が謝って招待状を書けば、また頭を撫でてもらえるかもしれない。
「私、は……」
カミーユ様が私の隣へ来た。手を取らず、ただ同じ方向を向いて立った。
「青薔薇館へ、行きたいです」
声にした途端、父の目から私が娘でなくなった。
「そうか」
彼は冷たく頷いた。
「では出ていけ。恩知らずな娘を、この家から追放したことにする。自分から逃げたなどと言われては、ベルフォール家の名に傷がつく」
私が出ていくことより、言い方が大切なのだ。
「荷物をまとめます」
「持ち出す物は確認させてもらうわ」
継母がすぐに言った。
生まれてから二十三年暮らした家を出る荷物は、小さな旅行鞄一つに収まった。
灰色の普段着が二着。下着と寝衣。母の本が一冊。擦り切れた青いリボン。自分で買った櫛。継母は一つずつ取り出し、宝石が隠されていないか裏地まで探った。
「母の手紙は?」
机の底へしまっていた束が見当たらない。
「家の記録に関わるものは置いていきなさい」
「私宛てです」
「お母様のお部屋を使わせてもらっただけでも十分でしょう」
フローラが扉口に立っていた。昨夜の毛皮を肩へ掛け、私の鞄を見つめる。
「数日で戻るのでしょう? 招待状がまだできていないわ」
私は妹の顔を見た。謝れば戻れる。そう思っている目だった。
「分からないわ」
フローラの瞳に、初めて怯えが浮かんだ。
「でも、お姉様は私を嫌いにならないでしょう?」
嫌いかどうかを考えようとすると、頭の中が白くなった。妹を嫌うのは悪い姉だ。けれど好きだと答えれば、また何かを渡す約束になる気がした。
「今は、答えられないわ」
これが精いっぱいだった。
青石の首飾りは、法律家が封印箱ごと引き取った。継母が蓋を開けることも、フローラが試しにつけることも許されなかった。
玄関を出る時、見送りに来た家族はいなかった。
父と継母は書斎で、婚約解消をどう発表するか相談している。フローラは仕立屋を呼び、婚礼衣装へ首飾りの代わりに何を合わせるか決めていた。
老いた下働きのベルタだけが、門の内側まで鞄を運んでくれた。
「お嬢様、お身体を」
彼女はそれ以上を言えず、何度も頭を下げた。
馬車の扉が閉まる。車輪が動き、ベルフォール家の門が遠ざかった。
誰かが追いかけてくる気がして、私は何度も後ろを振り返った。
フローラが招待状を持って走ってくるかもしれない。父が考え直し、帰れと言うかもしれない。継母が母の手紙を投げて寄越すかもしれない。
門は小さくなり、角を曲がって見えなくなった。
誰も追ってこなかった。
安心したのか、悲しかったのか分からない。胸を締めつけていた帯が突然切れたように、私はうまく息ができなくなった。
「止めましょうか」
向かいから低い声がした。
そこで初めて、馬車にもう一人いたことを思い出した。
カミーユ様の兄、アレクシス・ヴァレール公爵は、窓際へ長い脚を収めて座っていた。黒髪に濃い青の目。夜会で遠くから見たことはあるが、言葉を交わすのは初めてだ。
「申し訳ありません。ご挨拶もせず」
「謝罪は要りません。馬車を止めた方が楽ですか」
「いいえ。進んでください」
「分かりました」
彼は御者へ指示を変えなかった。慰めのために家族を罵ることも、何をされたのか尋ねることもない。
カミーユ様は私の隣で、窓の留め具を少し開けた。
「次の宿まで二時間です。食事もそこで。ね、お兄様」
「ああ」
公爵は膝の上の旅程表へ視線を落とした。
「夕食は、鶏のクリーム煮と、香辛料を使った羊の煮込みから選べます。どちらがよいですか」
質問の意味が分からず、私は瞬いた。
「何でも構いません」
「では、どちらでも構わない時に、どちらを選ぶか教えてください」
「公爵閣下のお好きな方を」
「私は昼に選びました。今はあなたの夕食です」
カミーユ様が兄へ苦笑した。
「お兄様は、こういう時だけしつこいのです。私が初めての夜会で『どの席でも』と言った時も、端から一脚ずつ理由を聞かれました」
「お前は結局、柱の陰を選んだ」
「ええ。エレノア様が隣にいてくださった席です」
公爵の視線が一度だけ私へ移った。借りを返すために来たのだと、その目が告げている気がした。ならば、この親切にも終わりがある。そう考えると安心する一方で、少しだけ寂しかった。
責める声ではない。けれど逃げ道も用意されていなかった。
「フローラは、香辛料が苦手でした」
「妹君は今、この馬車にいません」
当たり前のことを言われ、私は膝の上の手を見た。
子どもの頃は、辛い料理が好きだった。母と台所へ忍び込み、料理人が作る赤い煮込みを味見した。舌が痛くて涙を流しながら、二人で笑った。
継母が来てから、食卓に辛い物は出なくなった。フローラの喉に悪いからという理由だった。
「羊の煮込みを」
口にしただけで、悪いことをしたように心臓が鳴った。
「香辛料の方ですね」
「はい」
公爵は旅程表へ短く書き込み、それ以上は褒めなかった。
◇
宿の個室へ運ばれた煮込みは、湯気まで赤かった。
一口食べる。唐辛子と胡椒が舌を刺し、肉の脂と豆の甘みが後から広がった。
涙が皿へ落ちた。
「辛すぎましたか」
カミーユ様が立ち上がりかける。
「違うのです。おいしくて」
言えば言うほど涙が増えた。十五年ぶりの味だった。そんなことで泣く自分が恥ずかしい。
「申し訳ございません。すぐ止めます」
袖で拭こうとすると、公爵が給仕へ手を上げた。
「温かい水を。布も新しいものを頼む」
彼は泣いている理由を聞かなかった。皿を下げさせることも、「気の毒に」と手を伸ばすこともなかった。
新しい布と水が届くまで、彼は自分のクリーム煮を食べて待った。
「煮込みは、そのままでよろしいですか」
私は涙を拭き、もう一度匙を取った。
「はい。これは、私が選んだものですから」




