第3話 愛さない婚約者は妹へ
翌日の正午、私はモンテーニュ侯爵家の応接室で婚約指輪を外した。
八年間、一度も外したことがない。細くなった指の根元へ食い込み、指輪は簡単には動かなかった。引くたびに皮膚が赤くなる。
「お姉様、痛そう」
隣に座るフローラが心配そうに言った。彼女の視線は私の顔ではなく、外れかけた金の輪を追っていた。
「大丈夫よ」
いつもの返事をして、最後は爪を差し込んだ。指輪が抜ける。昨日針で裂いた傷口へ触れ、焼けるように痛んだ。
長机の向こうには、モンテーニュ侯爵夫妻とジュリアン。こちら側には父、継母、フローラ、私。中央には王家の認可を受けた公証人が座り、婚約契約書を広げている。
「双方、解消の理由について異議はございませんか」
公証人が尋ねた。
父から教えられた答えは、一晩中繰り返した。
妹の思いを知った私が、自ら身を引いた。ジュリアンとフローラの間に不義はない。姉妹の情による円満な解消である。
「私から説明しよう」
ジュリアンが立った。
「私は長く、家同士の契約へ従うことが誠実さだと考えていました。しかしフローラと出会い、真実の愛を知ったのです。偽りの婚姻を結ぶことこそ、エレノア嬢にも不誠実でしょう」
彼は堂々としていた。昨夜まで秘密にしていた恋を、今日は誠実さと呼んでいる。
フローラが目元を押さえる。
「私はお姉様を傷つけたくありませんでした。何度も諦めようとしたのです。でも、愛だけは嘘をつけなくて……」
私の机へ白紙を置き続けた一年のうち、どの夜に諦めようとしたのだろう。
「エレノア」
父に促され、私は立った。掌の中に指輪を握る。金の角が傷口へ刺さった。
用意された言葉を言えば、すぐに終わる。立派な姉だと褒めてもらえる。今後も家に置いてもらえ、妹の婚礼を手伝える。
「私は――」
ジュリアンが当然のように手を差し出した。私から指輪を受け取るために。
昨夜の言葉が蘇った。
『君を愛することはない』
八年前にも聞いた。私は彼の正直さへ感謝し、愛されない分だけ役に立とうとした。
けれど彼は、愛さない相手から何を受け取ってもよいとは言わなかったはずだ。手紙も、時間も、これからの人生も。
私がそう思い込んだだけだった。
「『愛することはない』とおっしゃる婚約者は、妹にお譲りします」
室内の空気が止まった。
私は指輪をジュリアンの掌へ置いた。
「お二人の愛を祝福する、とは申し上げられません。ですが、婚約解消には同意いたします」
「エレノア、話が違うぞ」
父が低い声で咎めた。
「解消へ同意しております。手続きには足りるはずです」
公証人を見ると、彼は咳払いをして頷いた。
「当事者双方の同意があれば成立します。祝福は契約要件ではございません」
ジュリアンは指輪を握り、困惑していた。
「君はフローラを恨むのか」
「いいえ」
「なら、なぜ祝えない?」
愛さない人へ愛を要求するのは不誠実だと語った同じ口で、彼は私の心を要求している。
「祝福は、私のものだからです」
声は震えた。それでも、言い直さなかった。
モンテーニュ侯爵夫人が、初めて私へまっすぐ視線を向けた。
「エレノア嬢。息子の不実について、当家からお詫びします」
「母上、私は不実など――」
「婚約の解消を申し出る前に別の女性と恋文を交わした。それを不実と呼ばず、何と呼ぶのです」
ジュリアンは黙った。夫人の謝罪は短く、失われた八年を埋めるものではない。それでも、私が傷つけられたと認めた人が、この部屋に一人だけいた。
「お言葉を、ありがとうございます」
父は舌打ちを呑み込み、継母は扇を強く閉じた。
公証人が契約書へ線を引き、新しい書面を取り出す。
「婚約解消に伴い、持参予定財産は拠出前の所有者へ戻ります。ベルフォール伯爵家からは金貨二万枚相当、アニエス夫人の信託からは湖畔の青薔薇館、年金、青石の首飾り――」
「待ってちょうだい」
継母が口を挟んだ。
「青石の首飾りはフローラの婚礼で使う予定なの。姉妹間の貸し借りまで、ここで決める必要はないでしょう?」
「貸してくださるわよね、お姉様」
フローラが私の袖へ触れた。
母の首飾りを身につけた妹が、私の婚約者の隣へ立つ光景が浮かんだ。いつもなら、妹の方が似合うと自分へ言い聞かせられた。
今日は、指輪を外した跡が赤く残っている。
「いいえ」
妹の指が止まった。
「首飾りは貸しません。青薔薇館も年金も、信託の条項どおり私へ戻してください」
「どうして?」
フローラは、叩かれたような顔をした。
「私はお姉様の婚約者を奪ったりしていないわ。お姉様が譲ると言ったのでしょう? 首飾りまで取り上げるなんて、まるで私を罰しているみたい」
「あなたのものを取り上げるのではないわ。私のものを、私が持つだけよ」
その区別を、私は二十三年かけて初めて口にした。
「エレノア、今すぐ撤回しなさい」
父が立ち上がる。
モンテーニュ侯爵が片手を上げた。
「ベルフォール伯爵。財産については契約どおりにしていただきたい。解消後まで揉めれば、息子たちの醜聞が大きくなる」
「もちろんです。娘が少し動揺しているだけで」
父は笑顔を作った。机の下では、握った拳が震えていた。
書類へ署名する時、ペン先が紙を二度引っかいた。
それでも私は、自分の名を最後まで書いた。
署名の末尾だけは、誰のためでもない私の文字だった。
◇
帰宅した途端、父の平手が頬へ飛んだ。
眼鏡をかけていたら割れていたかもしれない、と場違いなことを考えた。私は眼鏡を持っていない。教師との時間も、目が疲れやすいフローラへ多く譲っていたからだ。
「この恩知らずが!」
玄関広間には使用人が並んでいた。全員が俯き、誰もこちらを見ない。
「お前を家に置いてやったのは、フローラを支えるためだ。あの子の幸福へ泥を塗るなら、置いておく価値はない!」
「あなた、落ち着いて」
継母は父の腕を取りながら、私へ冷たい目を向けた。
「エレノア、首飾りを貸すと一言書けば済むのよ。青薔薇館も、あなた一人には広すぎるでしょう。家族で使えばいいの」
「信託は、私へ遺されたものです」
もう一度言うと、膝が震えた。
「なら勝手に生きてみるがいい。北部の元子爵から後妻を探していると話が来ている。嫌なら修道院だ」
父は執事へ命じた。
「婚礼の招待状が完成するまで、部屋から出すな。余計な者と連絡を取らせるな」
「お父様、そんな」
フローラが父へ縋った。私を庇うのかと思った。
「お姉様が閉じ込められたら、私の婚礼の相談ができないわ」
「必要な紙は部屋へ運ばせる。お前は心配しなくていい」
父は妹の髪を撫でた。
私は使用人に両腕を取られ、北の部屋へ連れていかれた。外から鍵が掛かる音がする。
机には昨夜の白紙が残されていた。その横へ、新しい紙の束、客名簿、婚礼衣装の見本、封蝋が積まれる。
「夕刻までに最初の五十通を」と扉の外から継母が言った。「意地を張るのは、その後になさい」
足音が遠ざかる。
私は机へ座り、ペンを取った。
親愛なる皆様へ。
このたび、運命に導かれ――
いつものように言葉を探した。フローラならどう喜ぶか。ジュリアンなら何を美しいと思うか。二人がどれほど誠実に見えるか。
何も浮かばなかった。
窓の外では、冷たい雨が降り始めている。暖炉のない部屋へ湿気が入り、指がこわばった。
私は白紙の上へペンを置いた。
書かなければ夕食が来ないかもしれない。修道院へ送られるかもしれない。父はもう二度と褒めてくれないかもしれない。
それでも、一文字も書かなかった。
どれほど時間が過ぎた頃だろう。
階下で、玄関扉を激しく叩く音がした。続いて、若い女性の声が廊下まで届く。
「ヴァレール公爵家のカミーユです。エレノア様へお会いに参りました」
扉の外で使用人が慌てる。
「お約束がございませんので――」
「では、今ここで約束します。母方の法律家も同行しております。成人女性とその信託財産を、ご本人の意思に反して拘束している疑いについてお話ししましょう」
私の部屋の鍵へ、誰かの手が触れた。




