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「愛することはない」婚約者は、妹に譲ります  作者: 星舟能空


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第29話 この幸福だけは譲らない

 フローラの手紙へ、私は専門の家事相談役と夫婦仲裁人の名を書いて返した。


 返事は来なかった。


 代わりに、春の初めの午後、本人が青薔薇館へやって来た。


 馬車を降りた妹は、半年で少し痩せていた。けれど淡い黄色の外套も、真珠を縫い込んだ帽子も、相変わらずよく似合っている。


「お姉様」


 庭にいた私を見つけ、フローラは笑った。


 昔と同じ笑顔だった。お願いをすれば叶うと信じている顔。


 私は庭師へ作業を続けてもらい、妹を応接室へ案内した。アレクシスは執務室にいる。妹の来訪を知らせると、「同席を望むなら呼んでほしい」とだけ答えた。


 自分から入ってくることも、面会を禁じることもしなかった。


 お茶が置かれる。


 フローラは辛い香辛料の入った砂糖菓子を見て、顔をしかめた。


「まだ、こんなものがお好きなの?」


「ええ」


「昔は食べなかったのに」


「あなたが嫌いだったからです」


 妹は聞こえなかったように、帽子を外した。


「お手紙の人たち、役に立たないわ。仲裁人なんて、夫婦のことを何も知らないでしょう?」


「だから、話を聞くのが仕事です」


「ジュリアンは他人へ話したがらないの。お姉様なら、彼の好みも、怒った時の宥め方も知っているでしょう。週に一度でいいから来てくださらない?」


 週に一度。


 昔の私なら、その言葉を小さなお願いだと思っただろう。馬車で往復し、食事を整え、手紙を書き、夫婦の間へ座る。週の残り六日は疲れて寝込んでも、妹の一日が穏やかならよいと考えた。


「行きません」


 私は菓子を一つ取った。


「では、手紙だけ。ジュリアンへ、私の気持ちを書いて。お姉様の言葉なら、あの人も聞くわ」


「それが、あなた方の不和の始まりだったはずです」


「始まりではないわ。ばれたことが悪かったのよ」


 あまりに迷いなく言うので、私は妹を見つめた。


 フローラは悪意だけで動いているのではない。自分の言葉が足りなければ姉の言葉を使う。自分の暮らしが壊れれば姉の時間を使う。それが呼吸のように自然なのだ。


 だから、私が止めなければならない。


「あなたの気持ちは、あなたの言葉で伝えてください」


「できないから頼んでいるの」


「できないままでも、あなたの結婚です」


 フローラの目が潤んだ。


「お姉様は幸せでしょう?」


「はい」


「公爵夫人で、館もお金も返ってきて、優しい旦那様がいる。私は少し助けてもらうだけなのに」


 「私が幸せなら、私の時間は余り物になるのですか」


 「そんな言い方をしなくても」


 フローラは膝の上で手を組んだ。


 「お父様も弱っているの。領地へ戻ってから、急に老けたわ。お母様は眠れないと言うし、ジュリアンは仕事を失いかけている。お姉様が一度帰って、家族で食事をすれば、皆も落ち着くと思うの」


 家族で食事。


 その言葉に、ありもしなかった光景が浮かんだ。暖かい部屋で父が笑い、継母が私にも料理を取り分け、妹と同じ皿から菓子を食べる。


 私はずっと、その一度を待っていた。


 「私が帰れば、お父様は返済しなくてよくなるのですか」


 「家族なのだから、少しくらいは」


 「お母様は、私の部屋と形見について謝りますか」


 「昔の話を出せば、また揉めるでしょう?」


 「ジュリアン様は、あなたと向き合いますか」


 「それを、お姉様に手伝ってほしいのよ」


 夢の食卓には、やはり私の椅子がなかった。


 皆の皿を満たすため、立って働く私がいるだけだった。


 扉が叩かれた。


 アレクシスが入ってくる。妹が名指しで面会を求めたため、家令が知らせたのだろう。


 彼は私の横ではなく、少し離れた椅子へ座った。


「お呼びと聞きました」


 フローラの背筋が伸びる。


「公爵様からも、お姉様を説得してください。姉妹が助け合うのは当然でしょう?」


「妻が決めたことに、私が変更を命じる理由はありません」


「でも、お姉様は昔からこうなのです。意地を張ると、あとで後悔するの。公爵様なら、もっと素直で明るい妻の方が」


 アレクシスは私を見た。


 妹の言葉へ反論する前に、私が話すかどうかを確かめている。


 私はうなずき、フローラへ向き直った。


「彼は私の持ち物ではないから、譲ることはできません」


「私はそんなこと」


「そして、私の幸福も、時間も、言葉も、もう譲りません」


 妹の頬から色が引いた。


「何一つ?」


「専門家を紹介することはできます。病気なら医師を、法律なら法律家を。けれど、私があなたの代わりになることは、もうありません」


「お姉様なのに」


「姉だからです」


 初めて、その言葉を別の意味で使った。


「あなたが自分の人生を生きる機会を、これ以上奪いません。私が片づけ続ければ、あなたはずっと自分で選ばないままです」


 フローラは立ち上がった。目には涙があったが、私は拭かなかった。


「嫌いよ」


「そう思う権利は、あなたにあります」


「昔のお姉様の方が優しかった」


「昔の私は、怖かっただけです」


 家令を呼び、馬車を用意してもらう。


 玄関で妹は一度振り返った。アレクシスが私の隣にいるのを見て、何かを言いかけたが、口を閉じた。


 扉が閉じても、私は追わなかった。


 幼い頃は、喧嘩のあと必ず私が追った。庭へ駆け、閉ざされた妹の部屋を叩き、泣き止むまで謝った。今も靴の先が扉へ向きかけたが、私は自分で止めた。妹を追わないことは、妹の痛みを喜ぶことではない。ただ、私がまた悪い姉の役へ戻らないという選択だった。


 けれど、妹の馬車が見えなくなると、指先が冷えた。


 「これでよかったのでしょうか」


 アレクシスは、すぐに正解を与えなかった。


 「君はどう思う?」


 「会わなければ楽でした。でも会って、あの子が困っていると知りました。助けないと決めたのは私です」


 「後悔している?」


 「苦しいです。でも、戻りたいとは思いません」


 口にすると、二つは同時に存在できた。妹を哀れに思うことと、妹の人生を背負わないこと。父を心配することと、父の家へ帰らないこと。


 「なら、今の君にはそれが答えなのだろう。変えたくなった時は、また君が決めればいい」


 「永遠に絶縁すると、誓わなくてもよいのですか」


 「誓いで自分を縛らなくていい。今日、扉を閉めた。それで十分だ」


 私は玄関の鍵を見た。家令ではなく、私が最後に回した鍵だった。


 庭へ戻ると、風で青薔薇の若い枝が揺れていた。アレクシスは黙って隣を歩く。


「怒っていますか」


「フローラへ?」


「私へ。妹を助けなかったから」


「君が決めたことへ怒ってはいない。ただ、あの手紙を読んで一人で会おうとしたことには、少し心配した」


「心配しても、止めなかったのですね」


「前に出るなと言われたから」


 不満そうな言い方に、私は笑った。


「隣にはいてくれました」


「ああ。これからも、そこは譲らない」


 譲らない、と彼が言うのは珍しかった。


 私はその腕へ自分から手を通した。


「来月、私の誕生日です」


「覚えている」


「今度こそ、一緒に祝ってください」


 アレクシスは足を止めた。


 大げさな贈り物も、私が望む前に決めた予定も口にしなかった。


「どんな日にしたい?」


 私は青薔薇館を見上げた。


 答えたいことが、いくつもあった。


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