第28話 幕間・真実の愛の食卓
審理から二か月後、フローラは長い食卓の端に座っていた。
以前のモンテーニュ侯爵邸では、朝食室に十二脚の椅子があった。今も椅子は十二脚ある。ただし、向かいに座るのはジュリアンだけで、壁際に控える使用人も二人しかいない。
返済のため、侍女を三人、料理人を一人、馬車を二台減らした。モンテーニュ家の王都本邸を離れ、夫婦だけ郊外の小さな屋敷へ移された。小さいといっても、ベルフォール家でフローラが使っていた部屋より広い。
なのに、何もかもが足りなかった。
「スープが冷たいわ」
フローラが言うと、年老いた家政婦が頭を下げた。
「申し訳ございません。厨房の者が一人でございますので」
「温め直して」
「このあと旦那様の来客用の料理が」
「私の朝食より大切なの?」
家政婦は返事をせず、皿を下げた。
以前なら、姉が何とかした。
料理人が足りなければ、自分の温かい皿をフローラへ渡した。スープが一杯しかなければ妹へ飲ませ、自分は冷えたパンで済ませた。フローラは、それを姉の我慢だと考えたことがない。気づいた時には、いつも温かいものが自分の前にあったからだ。
ジュリアンが新聞を畳んだ。
「家政婦を困らせるな。辞められたら代わりがいない」
「私が冷たいものを我慢すればいいと言うの?」
「誰かが我慢しなければならない時もある」
その言葉を、フローラは姉へ何度言っただろう。
考えたくなくて、窓へ目を向けた。庭には花がない。庭師も減らしたため、冬枯れの枝が風に揺れているだけだった。
「今日の来客って?」
「宮廷儀典官の補佐だ。候補から外れた理由を説明して、次の任命へつなげる」
「私も同席するわ」
「君は出ない方がいい」
平坦な声だった。
「どうして?」
「後援停止中の君が顔を出せば、話がこじれる」
「妻を隠すの? 真実の愛で結ばれた妻を」
「その言葉を使えば、何でも許されると思うな」
ジュリアンは立ち上がった。
結婚前、彼はフローラの言葉を誰より愛してくれた。手紙を待ち、次の便まで三日あるだけで長いと嘆いた。婚礼の日には、姉の草稿から写した誓いを聞いて涙ぐんだ。
今は、フローラが手紙を書いても返事をしない。
「お姉様の言葉なら、読むのでしょうね」
言わずにはいられなかった。
ジュリアンの肩が止まる。
「またその話か」
「だって、あなたは私を見ていない。ずっと、お姉様なら、お姉様ならって」
「君がエレノアのふりをしていたからだろう!」
新聞が食卓へ叩きつけられた。
「私は、君があの手紙に書いたように本を読み、領民を思い、慎ましい暮らしを尊ぶ女性だと思っていた。婚礼費用を倍にし、姉の夫へ媚びる女だとは知らなかった」
「私を選んだのはあなたよ。お姉様の婚約者なのに、私の手を取った。選んだ責任を、手紙のせいにしないで」
「君だって、私を愛していたのではないのか」
「愛していたわ!」
すぐに答えた。
けれど、どんなところを、と続けて尋ねられたら困る。
ジュリアンが姉の腰を抱いて踊る姿を見た時、胸が熱くなった。彼が姉へ贈った花を自分の部屋へ持ち帰った時、父も母も笑って、フローラは誰より愛されていると言った。
ジュリアン本人の好みは、姉が教えてくれた。苦い珈琲。朝は静かに新聞を読むこと。人前で間違いを指摘されるのを嫌うこと。
フローラが知っていた彼は、いつも姉の説明を通した彼だった。
「離縁するか」
ジュリアンが突然言った。
フローラは椅子を鳴らして立った。
「嫌よ」
「このまま互いを責めて暮らすよりいい」
「離縁したら、皆がお姉様は正しかったと言うわ。真実の愛なんてなかったって笑う。公爵様と幸せなお姉様に、私が負けたみたいじゃない」
「まだ勝ち負けを言うのか」
「あなたこそ、お姉様と結婚していればよかったと思っているでしょう!」
答えはなかった。
ジュリアンは食堂を出ていった。
扉が閉じると、十二脚の椅子が急に広く見えた。
その日の午後、母が訪ねてきた。
エレーヌは以前より質素な外套を着ていたが、屋敷へ入るなり窓掛けの色と床の埃を指摘した。
「侯爵家の奥方が、こんな家で満足していると思われては困るわ」
「満足していないもの」
「なら、どうにかなさい。あなたがジュリアン様を選んだのでしょう」
母が差し出したのは、ベルフォール家の返済予定表だった。青薔薇館から使った年金の半分を父が、半分をフローラ夫婦が負担することになっている。
「今月分を、こちらで多く払ってほしいの。領地の橋を直さなくてはならないから」
「うちだって、使用人を減らしたのよ」
「ジュリアン様のご実家には資産があるでしょう?」
「お母様が、お姉様のお金を使っていいと言ったのでしょう」
「あなたが許可をもらったと言ったからよ」
母娘は同時に口を閉じた。
審理の控室でも、同じ言い合いをした。どちらか一人が全面的に悪かったことにできれば、自分は元の生活へ戻れると思っていた。
「エレノアへ、もう一度頼めないかしら」
母が声を落とす。
「あなたが病気だと言えば、あの子は昔から放っておけなかった。公爵様には十分な財産があるもの。年金くらい、返さなくても」
「お姉様は助けないと言ったわ」
「でも姉でしょう。あなたから上手に頼めば」
母は帰り際、返済予定表を食卓へ置いていった。
フローラはそれを破ろうとした。けれど破れば、数字が消えるわけではない。紙を二つに折り、見えないよう花瓶の下へ押し込んだ。
姉がいた頃、請求書も失敗も、気づけば見えなくなっていた。
今は隠した紙の角が、花瓶の下から白く覗いていた。
父からは、今月の返済分をモンテーニュ家で多く負担してほしいと手紙が来ている。母からは体調が悪いので見舞ってほしいと書かれていた。けれどフローラが帰れば、父は不機嫌な夫をどうにかしろと言い、母は社交復帰の嘆願書を作れと言うだろう。
誰も、フローラのために何かを整えてはくれない。
彼女は自室へ戻った。
衣装棚には、姉から欲しがった物が残っている。母の花嫁ヴェール。姉の婚約時に仕立てた白い外套。返還を免れた真珠の耳飾り。モンテーニュ家の紋章を刻んだ宝石箱。
欲しかった婚約者も、称号も、屋敷も、全部手に入れた。
それなのに、姉より選ばれたという感覚だけが、もうどこにもなかった。
鏡の中の自分は美しい。けれど、誰と比べて美しいのか分からなければ、それだけでは足りない。
机へ座り、便箋を出した。
『お姉様へ』
そこまで書いて、手が止まる。
以前なら、何を言えば相手が動くかも姉が考えた。フローラは泣いて、望みを口にするだけでよかった。
『私たちは今、とても困っています。少しだけ、助けてください』
幼い字で続けた。
『お姉様はもう幸せなのだから、少しくらい私へ譲ってくれてもよいでしょう?』
封をして、呼び鈴を鳴らす。
誰もすぐには来なかった。
フローラは扉を見つめた。
その向こうから姉が入ってきて、冷えたスープも、夫の怒りも、間違えた手紙も、全部いつもの場所へ戻してくれる気がした。
けれど扉は、いつまで待っても開かなかった。




