第26話 妹の名で使われた財産
「その署名は、お姉様に言われて書いたものです」
審理院の高い天井へ、フローラの声が響いた。
傍聴席には両家の親族と、婚礼費用を立て替えた商人が座っている。華やかな夜会ではない。けれど妹は、淡い桃色のドレスに真珠を重ね、今日も誰より可憐に見えるよう装っていた。
私が法廷へ着てきたのは、濃紺の簡素なドレスだった。アレクシスが贈ったものではなく、自分で選び、自分の年金から仕立てたものだ。
以前なら、それだけで負けたと思ったかもしれない。
今日は、勝ち負けを決めに来たのではなかった。私の名前が私のものだと、確かめに来た。
「モンテーニュ夫人」
審理官が書類を掲げる。
「あなたは、姉の許可を得て青薔薇館の年金を婚礼費用へ充てた、と証言するのですね」
「はい。家族のことですもの。お姉様は、私の婚礼へ使ってよいと」
「いつ、どこで許可を?」
「婚約解消の前です。家の居間で」
父がすぐにうなずいた。
「長女は常々、妹の幸福のためなら財産を惜しまないと申しておりました」
それは半分だけ本当だった。
私は惜しまないと言った。惜しい顔をすれば、父が悲しそうにしたから。フローラが泣くから。継母が、亡き母も妹を助けることを望むはずだと言うから。
「許可した事実はありません」
審理官に向かって答える。
「婚約解消の場で、青薔薇館、年金、青石の首飾りは譲らないと明言しました。議事録にも残っています」
書記官が該当箇所を読み上げた。
フローラの唇が震える。
「でも、そのあと気が変わったのよね、お姉様。私にだけ、使っていいと」
「今度は、婚約解消のあとに許したのですか」
「それは……前からそういう意味だったということです」
証言が変わるたび、書記官の羽根ペンが紙を擦った。
母方の法律家が、二枚の文書を証拠台へ置いた。
一枚は年金使用の許可書。もう一枚は、フローラが自筆した最初の恋文だった。
「許可書の署名はエレノア様の形を真似ています。しかし筆圧と文字を右上へ跳ねる癖は、この恋文と一致します。同じ人物が書いた可能性が極めて高いと判断されました」
傍聴席がざわつく。
フローラは顔を上げた。
「その恋文は、私が書いたものよ!」
「ええ。最初の一通はフローラの自筆でした。その後の二十五通は私が全文を書き、残る一通も綴りを直しました」
自分の口から公に言うと、古い恥が一瞬だけ肌を這った。
「フローラに命じられ、彼女の名で送る文章を代筆しました。ただし末尾の名は、妹が書き写しやすい丸い文字に整えていました。私が法律文書へ使う署名とは違います」
私は信託契約書の原本へ目を向けた。
「私の正式な署名は、母と同じく、姓の最後を二重線で結びます。許可書にはそれがない。代わりに、最初の恋文と同じ跳ねと飾り線があります」
信託銀行の出納役も証言台へ呼ばれた。
白髪の男は、秋の年金を前払いした日の記録を読み上げる。窓口を訪れたのはフローラと継母。用途は婚礼費用の不足分。所有者本人は病気で来られないため、妹が代理すると説明された。
「本人確認を怠ったことは、当行の落ち度でございます」
出納役は私へ向かって頭を下げた。
「ですが、ベルフォール伯爵家の印章と、こちらの許可書がございました。ご令妹は、姉上が婚礼を何より楽しみにしていると」
あの日、私はヴァレール公爵邸で高熱を出していた。
アレクシスが水を飲ませ、カミーユが下手な歌を歌ってくれた日だ。何もできない私のそばに人がいた一方で、妹は、病気の私なら姿を見せられないという理由に使っていた。
継母は扇を握りしめた。
「私は、フローラがエレノアから許可を得たと聞いておりました」
「お母様も、最後にはお姉様が許すと言ったでしょう!」
フローラが振り返る。
親子の視線がぶつかった。互いに、先に相手が認めれば自分も救われると思っている顔だった。
審理官は二枚を見比べた。
「モンテーニュ夫人。姉があなたの名で恋文を書いていたことを、夫へ告げていましたか」
「気持ちは私のものです。文章を整えてもらっただけです」
「許可書も整えてもらったのですか」
「違います!」
妹の声が裏返った。
ジュリアンは隣の席で目を閉じた。昨日、私へ見せた手紙が、今日は妻の偽造を明らかにする証拠になっている。
これを因果応報と呼ぶのなら、天から落ちた罰ではない。フローラが私の言葉を自分のものだと言い続け、その文字をもう一度利用した結果だった。
「今なら、支出の返還と謝罪による和解も可能です」
審理官が告げた。
「故意の偽造ではなく、家族間の財産認識の誤りだったと、申立人が認める場合に限ります。ヴァレール公爵夫人、和解を受け入れますか」
私はフローラを見た。
妹には、まだ選べる道があった。私の名前を使ったと認め、返すと言えばよい。幼い頃のことも、ジュリアンを選んだことも、全部を謝る必要はない。今日の嘘だけをやめればよかった。
「事実を認め、返還するなら、刑事の追及までは求めません」
審理官は休憩を提案した。家族だけで十分に相談してから答えてよい、と。
小休憩の間、フローラは継母と父に挟まれて控室へ入った。私は廊下の窓辺で待った。アレクシスは水を差し出したが、飲むかどうかは尋ねるだけにした。
「和解すれば、妹を許したことになるのでしょうか」
「法的な追及を止めることと、許すことは別だ」
「以前は、全部同じだと思っていました。助けるなら許す。許すなら戻る。家族なら譲る」
「今日は、一つずつ君が決められる」
水を飲んだ。冷たさが喉を通る。
私は、フローラが認めるなら刑事追及を求めないと決めた。姉だからではない。私が長い裁きを望まないからだ。
やがて妹は控室から出てきた。目元を拭い、けれど顎を上げていた。
その姿を見た時、選んだ答えが分かった。
フローラの目に、涙が盛り上がる。
「やっぱり、お姉様は私を悪者にしたいのね」
「フローラ」
「昔からそうだった。何でも譲ってくれるふりをして、心の中では私を馬鹿にしていたのでしょう。今は公爵夫人だから、私が羨ましがるのを見て楽しんでいるのよ」
継母が小声で娘を止めた。父も袖を引いた。
妹は振り払った。
「私が署名したのは、お姉様が私を妬ませるためです。あの館も首飾りも、本当は家族のものなのに!」
最後の道を、フローラは自分で閉じた。
私はもう、妹の代わりに言い直さなかった。
審理は昼を越えた。
年金の無断使用分は、ベルフォール伯爵家とモンテーニュ家が連帯して返済することになった。婚礼費用のうち、私の名を使って契約した分も同様だ。首飾りの貸出許可は無効と確認され、今後は私本人と法律家の二重承認なしに動かせない。
フローラは投獄されなかった。爵位を奪われもしない。ただ、王家主催行事への一年間の出席を停止され、慈善会と社交行事の後援名簿から外された。
ジュリアンは妻の財産管理を監督しなかった責任を問われ、狙っていた宮廷儀典官の候補から外れた。
父は判決を聞くと、一瞬で十歳ほど老けたように見えた。彼が当然と思って使った私の財産を、今度は自分の領地収入から返すことになる。
大声で歓声を上げる者はいなかった。
審理官が木槌を置き、席を立つ。
私は胸いっぱいに息を吸った。勝利の味はしなかった。雨上がりの冷たい空気と、長く閉めていた窓を開けた時の埃の匂いがした。
退室しようとした私の背へ、フローラが叫んだ。
「これで満足でしょう、お姉様!」
振り返る。
「お姉様は勝ったのでしょう。私から全部取り返して、幸せな夫まで手に入れて!」
私は答えようとして、言葉を止めた。
それは法廷で決めることではなかった。
「家族だけで話をしましょう」
この関係へ最後の言葉を返すために、私は自分からそう告げた。




