第25話 元婚約者の後悔
審理の前日、王都には雨が降っていた。
ヴァレール公爵家の別邸から審理院までは馬車で十五分ほどだ。けれど、窓を打つ雨音を聞いていると、ベルフォール家の門がすぐ向こうにあるように思えた。
昼食のあと、私は別邸の冬庭へ出た。硝子屋根の下に柑橘の鉢が並び、湿った土の匂いがする。王都へ来てから浅くなった呼吸を整えるには、ちょうどよい場所だった。
審理で尋ねられることは、法律家と何度も練習した。
年金の使途を許可したか。いいえ。
妹へ署名の代筆を認めたか。いいえ。
家族へ財産を贈る意思があったか。かつて何度も譲ったが、今回の財産は公に拒否した。
答えは簡単なのに、声にすると喉が渇いた。アレクシスは同席を申し出たあと、私が一人で練習したいと言うと退室した。扉の外で待つことさえしなかった。監視されていると感じない距離を、考えてくれたのだ。
それでも、私は時々、彼を呼び戻したくなった。
誰かを望むことと、一人では立てないことを、同じだと思わなくなるまでには、まだ時間がかかる。
「エレノア」
昔の呼び方が、背後から追ってきた。
ジュリアンは庭の入口に立っていた。雨に濡れた外套を従者へ預ける余裕もなかったらしく、肩から雫を落としている。
その後ろで、若い従僕が青い顔をしていた。ジュリアンは審理の追加資料を持参したと告げて応接室へ通され、案内を待たずに私を探したらしい。人の家でも、自分が話したい時には相手も応じると思っている。
どうやって入ったのかと考え、すぐにやめた。ここで話すか、家令を呼ぶかは、私が決めればよい。
「面会の約束はありません」
「明日になれば、もう二人では話せない」
「婚約を解消してから、私たちは二人で話す必要のない間柄です」
彼は傷ついた顔をした。
かつての私なら、その表情だけで自分を責めただろう。今は、濡れた靴で敷物が汚れていることの方が気になった。
「手短にお願いします」
帰れとは言わなかった。言えなかったのではない。明日の審理で、彼が何を考えているのか知っておいた方がよいと、私が選んだ。
ジュリアンは懐から数枚の紙を出した。
古い手紙だった。フローラの名で彼へ送った、私の文字。
「これを、君が書いたと聞いた」
「はい」
「全部か」
「最初の一通を除けば、ほとんど。フローラが話したいことを聞いて、文章へ整えました」
本当は、話したいことさえ私が考えた日もある。
ジュリアンが新しい詩集の感想を求めた時、フローラは表紙も開かなかった。私は夜中に読み、妹ならこう言うだろうと、明るい言葉へ直した。
彼はその返事を「誰より自分を理解している」と喜んだ。
「なぜ言わなかった」
「あなたは私へ尋ねませんでした」
「それでも」
「『君を愛することはない』とおっしゃった方へ、妹への恋文は私が書いています、と訴えればよかったのですか」
ジュリアンの指が、手紙の端を曲げた。
「私は……君の言葉を愛していたのかもしれない」
奇妙なことに、胸は痛まなかった。
少女の頃の私は、いつか彼が自分を見てくれる日を想像した。私の言葉を知れば、外見の地味さや口数の少なさを越えて、心を愛してくれるかもしれないと。
その日が来たら、きっと泣いて喜ぶと思っていた。
今、目の前にいる男は、私が泣くべき台詞を口にしながら、私の顔を見ていなかった。自分が失ったものを見ていた。
「かもしれない、なのですね」
「急に知ったのだ。整理する時間が」
「私は八年間、あなたが私を愛さないという事実を整理する時間がありました」
「責めているのか」
「事実を申し上げています」
硝子屋根を雨が走った。
ジュリアンは手紙を握り直し、声を落とした。
「フローラは公爵へ手紙を送った。私たちの不和を、君のせいにしている。あの女がここまで愚かだとは思わなかった」
「あなたが選んだ妻です」
「分かっている。だからこそ、君に頼みたい。明日の審理で、大事にしないでくれ。年金は返す。首飾りの貸出要求も撤回させる。フローラに謝らせる」
「その後は?」
「君なら、あいつへ侯爵夫人の務めを教えられる。手紙の書き方も、客の扱いも。私は君を正当に遇する。顧問として報酬も」
私は思わず、笑いそうになった。
愛したかもしれないと言った直後に、彼は私へ仕事を並べた。彼の中で私は、言葉を持つ人ではなく、足りないところへ敷く布のままだった。
「ジュリアン様」
昔は呼び捨てにされた名へ、今は距離をつける。
「あなたが惜しんでいるのは、私ではありません。何をされても黙って、あなたと妹の暮らしを整える私です」
「違う」
「では、私が何も書けず、家政もできず、あなたの役に立たなかったとして、戻ってきてほしいですか」
彼は答えなかった。
「アレクシスは、高熱で水も飲めなかった私のそばにいました。何も返せない私を、今日も妻だと言います。あなたは今、私に何をしてほしいかだけを話している」
「公爵は君を甘やかしている。いつか重荷になる」
「それを決めるのは、あなたではありません」
私は立ち上がった。
「あなたが私の言葉を愛したとしても、その言葉を書いた人間を踏みにじった事実は変わりません。復縁もしません。妹の教育係にも、あなた方の仲裁役にも戻りません」
ジュリアンも立った。濡れた外套から落ちた水が、石床に黒い点を作る。
「君は変わった」
「はい」
私は初めて、その言葉を褒め言葉として受け取った。
冬庭の入口には、アレクシスがいた。約束どおり、会話へ割り込まず、私が呼ぶのを待っていた。
「終わりました」
私が言うと、彼は扉を開けた。
廊下へ出てから、アレクシスはジュリアンが見えなくなるまで何も尋ねなかった。
「聞かないのですか」
「話したい?」
「少し」
私たちは冬庭の隣の小さな書見室へ移った。アレクシスは向かいでなく隣の椅子を選んだ。
「彼は、私の言葉を愛していたのかもしれないと言いました」
「そうか」
「怒りませんか」
「怒っている。だが、君がどう感じたかを先に聞きたい」
私はしばらく考えた。
「昔の私が聞いたら、喜んだと思います。言葉だけでも届いていたと。でも今は、遅いと思いました。私の手を取らずに、紙だけを愛したと言われても、戻りたいとは思いませんでした」
「安心した、と言えば狭量だろうか」
「少し」
「では、少し安心した」
その正直さに、張りつめていたものが緩んだ。
「私は、あなたが嫉妬してくださると嬉しい時があります」
「かなりしている」
「かなり?」
「彼を冬庭の池へ落とさなかった程度には、理性が勝った」
私は吹き出した。明日の審理が消えたわけではない。古い傷も、ジュリアンの言葉も残っている。それでも今、笑ってよい場所があった。
アレクシスの肩へ頭を預ける。
「明日は、隣にいてください」
「いる」
ジュリアンは追ってこなかった。
翌朝、審理院の証言台へ立ったフローラは、青い顔で私を指した。
「その署名は、お姉様に言われて書いたものです」
ジュリアンの後悔が何であれ、妹はまだ、自分の選択を私へ譲るつもりだった。




