第23話 幕間・姉の言葉で愛された人
寝室の卓に、恋文が二十七通並べられていた。
薄桃色の紙。緑の小鳥の封蝋。フローラの名で、ジュリアンへ送った手紙。
結婚前なら、彼が大切に保管していたと知って喜んだだろう。今は、解剖台へ載せられた自分のように見えた。
「座ってくれ」
ジュリアンは窓際に立っていた。上着を脱いでいるのに、帰宅してから一度も襟を緩めていない。
「もう遅いわ。話なら明日にしませんか」
「今夜でなければ、また君は話を変える」
フローラは扉の近くへ立ったまま、卓を見た。
一番古い手紙から日付順に並んでいる。余白へ赤い印までついていた。
「王宮でのことなら謝るわ。お姉様が誤解して騒ぎを――」
「エレノアは、君から届いた手紙の内容を一言も公表していない」
「でも、私を公衆の前で責めたでしょう」
「公爵へ二人きりで会いたいと書いたのは事実か」
「姉のことを説明しようとしただけよ」
「君は私の妻だ」
「あなたは今夜、ずっと姉を見ていたわ」
ジュリアンの顔が険しくなる。
「話を逸らすな」
「逸らしていない。あなたが私だけを愛してくださるなら、ほかの男性と話したくらいで疑わないはずよ」
「話しただけではないから聞いている」
同じ言葉が回り始めた。
婚礼の夜から、二人はこうして何度も争ってきた。ジュリアンは事実を答えろと言い、フローラは愛しているなら信じろと言う。どちらも相手の問いには答えない。
ジュリアンが、手前の一通を持ち上げた。
「これは、私が西部へ出張していた時の手紙だ」
「覚えていますわ」
本当に自分で書いた最初の一通も、卓の端にあった。
『夜会で踊ってくださって嬉しかったです。また踊ってください。青い上着が素敵でした』
短く、同じ言葉を二度使い、上着の色まで間違えている。ジュリアンから届いた返事は、礼儀正しい三行だけだった。
その手紙を姉へ見せた翌週から、返事は二頁、三頁と長くなった。フローラは封を開くたび、姉より自分の方が愛されているのだと思った。
いま二十七通を並べると、最初の一通だけが別人のようだった。
「読んでみろ」
差し出された便箋へ目を落とす。
『雨に閉ざされた夜も、あなたが孤独である必要はありません。遠くの窓で灯る明かりのように、私はここであなたの帰りを待っています』
婚礼の誓詞にも使った一節だ。
「美しいでしょう?」
「どういう意味で書いた?」
「意味?」
「この頃、私は雨に降られてもいないし、孤独だとも書いていない。なぜ窓辺の灯を選んだんだ」
「離れていたからです」
「その前の手紙では、私を『冬を越すための薪ではなく、一緒に炎を見たい人』と書いた。君は暖炉の前へ十分も座れば暑いと窓を開ける」
「詩ですもの。全部を本当にする必要はないでしょう」
ジュリアンは別の二通を並べた。
「最初の一通だけ、筆圧も綴り方も違う。後の二通は、句読点の置き方まで、エレノアから届いた婚約上の報告書と同じだ」
フローラの指が、ドレスの脇をつかんだ。
「姉は、私の気持ちを整えてくれただけです」
「どこまでだ」
「言葉を少し」
「この一節は?」
「私が考えました」
「では、いま同じ言葉で続きを書いてくれ」
ジュリアンは白紙と羽根ペンを卓へ置いた。
「何を書くの?」
「今の私たちについて。誰の草稿も使わずに」
「私を試すのですか」
「答えてくれ、フローラ。私が愛していた手紙を、誰が書いた」
彼の声に、縋るような響きが混じっていた。
ここで嘘をやめることもできた。
姉へ書かせた。自分は便箋と封蝋を選び、最後に署名しただけだ。そう言って謝ればよい。
けれど認めれば、ジュリアンが愛したものの大半は姉のものになる。
婚約者を奪ったのに、愛された言葉まで姉へ返さなければならない。
「私の気持ちです」
フローラは言った。
「言葉にしたのが誰でも、あなたを想っていたのは私よ」
「誰が書いた」
「お姉様です!」
声が寝室へ響いた。
「お姉様が書いたわ。でも、母に命じられたからよ。私があなたを好きだと言ったら、姉が勝手に綺麗な言葉へしたの。私は頼んでいない」
「一通も?」
「最初の短い手紙は自分で書いたわ。返事が遅かったから、お姉様に見せたの。そうしたら次から、あなたが長い返事をくださった」
ジュリアンが椅子へ座った。
怒鳴るより、その沈黙の方が恐ろしい。
「婚礼の誓詞も?」
「昔の草稿を少し使っただけ」
「私が君を知ったと思った言葉は、ほとんど彼女のものだったのか」
「あなたは私を見たでしょう。私と踊り、私へ贈り物をして、私を愛していると言った。手紙だけを愛したわけではないでしょう?」
「分からない」
ジュリアンの返事は冷たかった。
「もう、自分が何を愛したのか分からない」
フローラの胸へ、刃物を入れられたようだった。
「全部、私のせいにするの?」
「君は私を騙した」
「あなたも、お姉様を騙していたでしょう! 婚約者の姉へ愛することはないと言いながら、手紙も家政も全部受け取った。私を選んだ後まで、姉が働くと思っていた!」
「それとこれとは別だ」
「別ではないわ。あなたは、都合のよい部分だけを見ていたのよ。綺麗な私と、お姉様の言葉。華やかな恋と、お姉様の世話。全部手に入ると思っていた」
ジュリアンが立ち上がった。
「君こそ、姉の婚約者だから私が欲しかったのではないか」
「私はあなたを愛していた!」
「ならば、なぜ公爵へあんな手紙を送った?」
答えられなかった。
アレクシスの濃い青の目。姉の腰へ回された腕。青い花に囲まれた婚礼写真。
姉が自分よりよいものを得たように見えたから。
そんな理由を言えば、ジュリアンの問いを肯定するだけだ。
「あなたが姉と比べるからよ」
「君が姉の言葉で、私に愛されたからだろう!」
二人とも、自分の言葉だけは正しいと思っていた。
恋文は卓上で、何も言わなかった。
◇
扉が強く叩かれた。
返事を待たず、母エレーヌが入ってくる。夜会服の上へ外套を羽織り、顔色を失っていた。
「何を騒いでいるの。廊下まで聞こえるわ」
卓の恋文を見て、事情を察したらしい。
「ジュリアン様。今夜は二人とも疲れております。続きは明日に」
「夫婦の寝室へ、伯爵夫人が口を出さないでください」
ジュリアンは手紙を集め、書斎へ向かった。
「今夜から、私は別室で休む」
「逃げるの?」
「これ以上話しても、互いに相手のせいだと言うだけだ」
「真実の愛で私を選んだのでしょう!」
彼は振り返らなかった。
扉が閉まる。
フローラは白紙の前へ残された。
「何てことをしてくれたの」
母は娘を慰めず、持っていた封筒を卓へ置いた。
「青薔薇館の信託管理人からよ。年金使用許可の署名について、本人確認を求めてきたわ」
封筒には青い薔薇の印が押されている。
「お父様が、姉へ話したせいでしょう」
「あなたの署名が偽造だと疑われているの。今なら、手続き上の行き違いだったと訂正できる。使った分は私の宝石を売って返し、式の追加費用は分割にするわ」
母が自分の宝石を手放すと言うのは初めてだった。
ここで訂正すれば、少なくとも偽造を重ねずに済む。
だが返済を始めれば、婚礼の花も酒もドレスも、姉の金で買ったと認めることになる。ジュリアンにも、客にも知られるかもしれない。
「必要ありません」
「フローラ」
「署名はお姉様のものです。昔から何枚も見てきたから間違いないわ」
「あなたが真似て書いたのでしょう」
「お姉様は、口頭で許していました」
「いつ?」
「ずっとよ。お姉様は私が欲しいものを、最後には譲ってくれた」
母は額へ手を当てた。
「それでは法的な許可にならないの」
「お姉様は訴えないわ」
「今のあの子が、本当にそう見える?」
王宮で、姉は逃げなかった。
夫の腕を取り、自分も彼を選んだと言った。
それでもフローラは、認めたくなかった。
姉が変わったのではない。公爵に言わされているだけ。最後には家族を選び、妹を許す。そうでなければ、姉のものを欲しがるたび「いいのよ」と笑った過去まで嘘になる。
「訂正しません」
フローラは照会状を封筒へ戻した。
「お姉様なら、分かってくださいます」
翌朝、青薔薇館の法律家から二通目が届いた。
今度の表題は、本人確認ではなかった。
『母方信託財産の無断使用および署名偽造に関する正式照会』




