第22話 姉なのだから妹を助けろ
父娘の縁を切る、と書かれた手紙を読んだ翌朝、父と継母が公爵邸へ来た。
こちらから返事を出す前だった。
「ご親族ですので、青の客間へお通しできます」
執事はそう報告し、私の返答を待った。
断ることもできる。
先触れもなく押しかけた客を、玄関で帰してよい。昨日の宴で疲れていると伝えても、誰も公爵夫人を責められない。
それでも私は、逃げたくないと思った。
「お通ししてください。ただし、アレクシス様にも同席をお願いします」
「承知いたしました」
執事が退室すると、アレクシスが隣の椅子から立った。
「私が話してもいいし、一言も話さなくてもいい。途中で終えたくなったら、合図を」
「私が答えます」
「分かった」
「でも、隣にいてください」
「もちろん」
父の前へ出れば、私はまた、二十三年間逆らえなかった娘へ戻るかもしれない。ならば、今の私を知る人に隣へいてほしかった。
◇
青の客間へ入ると、父は暖炉前の長椅子へ座っていた。
本来は屋敷の主人夫妻が使う席だ。継母は隣で香水のついた扇を動かしている。二人とも喪に服すような暗い色を着ていた。
「エレノア」
父は立ち上がり、悲しげに両腕を広げた。
「こんな騒ぎになる前に、なぜ私へ相談しなかった」
抱き締められるところを想像し、足が止まった。
幼い頃、父が腕を広げるのは、私がフローラへ何かを譲った後だけだった。青い人形を渡した日。暖炉のある部屋を明けた日。誕生日の舞踏相手を譲った日。
今も、何かを差し出せば抱き締めてもらえるのだろう。
アレクシスの手が、私の背へ触れない距離で止まっている。支える用意はあるが、前へ押し出さない手だった。
私は父の腕へ入らず、自分の席へ座った。
「昨日のことでしたら、相談を受ける立場ではありません。フローラとジュリアン様、二人の問題です」
父の腕が下がった。
「姉がそんなに冷たいことを言ってどうする」
「まずはお茶をいただきましょう」
継母が会話を整えるように微笑んだ。
家政婦が茶器を運び、私へ最初の一杯を注ぐ。継母は、自分より先に私の前へ置かれたカップを見た。
「公爵家では、ずいぶん大切にしていただいているのね」
「はい」
申し訳なさを添えず答えると、扇の動きが止まった。
「だからこそ、余裕のあるあなたが助けてあげるべきでしょう。フローラは慣れない侯爵家で疲れているの。昨日の手紙も、ほんの心細さから書いただけよ」
「既婚の妹が、私の夫へ二人だけの面会を求めたのです」
「悪い意味に取らないで。あの子は昔から、あなたのことが心配なの」
心配する妹は、姉の夫へ自分の住所を書くだろうか。
以前の私なら、その疑問を口にせず飲み込んだ。
「では、今後は心配しないよう伝えてください。私は夫と話し合えます」
父が卓へ手を置いた。
「言葉尻の問題ではない。昨夜の醜聞を消さなければ、モンテーニュ家との関係が壊れる」
「私に何を求めていますか」
「まず、ジュリアン君へ手紙を書け。フローラの手紙は、姉を心配しただけだと説明するんだ。次に今週中、二人を公爵邸の晩餐へ招き、仲睦まじい姉妹として客の前へ出なさい」
父は、決定済みの予定を伝える声で続けた。
「フローラには、侯爵夫人として必要な返書と帳簿の見方を教えればいい。お前なら一月で済むだろう。ジュリアン君も、お前が間へ入れば落ち着く」
継母が足元の鞄を開いた。
中から出てきたのは、返事の書かれていない招待状、領収書、使用人の勤務表。赤い紐で三つに束ねられ、私の前へ積まれた。
「持ってきたから、今日から始められるわ」
継母は、針仕事を頼む時と同じ調子で言った。
「フローラは昨夜のことで気落ちしているの。今、難しい書類を見せるのはかわいそうでしょう。あなたが下書きをして、あの子は清書だけすればいい」
束の一番上には、侯爵家の使用人から給金の遅れを訴える嘆願書があった。これは花の色や客順ではない。誰かの暮らしに関わる責任だ。
「私が書けば、フローラの名前で送るのですか」
「家族で助け合うのに、名前へこだわる必要がある?」
「あります」
私は書類へ触れなかった。
「返書を書いた人が、返事の内容へ責任を負うからです。私は侯爵家の夫人ではありません」
「なら、隣に座って言葉を教えるだけでもいいわ」
「それも仕事です。本人が学びたいなら、侯爵家が教師を雇うべきです」
継母の口元から笑みが消えた。
「妹から授業料を取るつもりなの?」
「私は授業を引き受けません」
「私が妹の手紙を書き、夫婦喧嘩を仲裁し、家政も教えるのですね」
「姉なのだから当然だ」
その一言を、私は何度聞いただろう。
姉なのだから暖炉を譲れ。
姉なのだから誕生日を我慢しろ。
姉なのだから妹名義の恋文を書け。
姉なのだから、婚約者を奪われても祝福しろ。
父は同じ言葉で、また私の時間と夫を妹の暮らしへ組み込もうとしている。
「助けません」
父は聞き取れなかったように眉を上げた。
「何だ?」
「手紙は書きません。晩餐へも招きません。フローラへ家政を教えず、ジュリアン様を宥めることもしません」
「感情的になるな」
「昨日から考えました。今、何を求められるか一つずつ伺って、同じ答えを出しました」
「フローラの結婚が壊れてもいいのか」
「私が壊した結婚ではありません」
「お前が婚礼準備を放り出したから、あの子は追い詰められた!」
父の声が客間へ響いた。
アレクシスが動く気配がした。私は卓の下で、彼の手へ自分の手を伸ばした。
止めてほしいという合図ではない。まだ私に話させてほしいという合図だ。
彼の指が一度だけ握り返し、力を緩めた。
「私は、婚約解消後に婚礼を延期するよう勧めました。フローラは延期しないと選びました。招待状も誓詞も、本人が用意すると決めたのです」
「あの子には難しいと分かっていただろう!」
「ならば、お父様とお母様が助けるべきでした。私が戻らなければ成立しない結婚を、お二人はなぜ止めなかったのですか」
父が息を呑む。
継母は扇を閉じ、冷たい目で私を見た。
「公爵家へ嫁いだから、家族より偉くなったつもり?」
「いいえ。偉くなくても、自分の時間を誰へ使うかは決められます」
「アレクシス様」
継母が夫へ向き直った。
「この子は昔から頑固なところがございました。夫として、家族を助けるよう諭していただけませんか」
アレクシスは私を見た。
許可を求める目に頷く。
「妻の返答は聞かれたはずです」
彼が言ったのは、それだけだった。
「公爵家としてベルフォール家を助けない、と?」
「公爵家の支援について質問されたなら、私が答えます。今、あなた方が求めているのは妻個人の無償労働だ。決めるのはエレノアです」
父の顔が赤くなった。
「ならば、父として命じる。拒むなら、お前をベルフォール家から勘当する」
昔なら、その言葉だけで膝をついただろう。
家族でなくなれば、誰にも愛されないと思っていた。
今、私の腰には公爵邸の鍵がある。寝室には自分で選んだ青いドレス。隣には、私が何もできない夜も離れなかった夫がいる。
けれど、それらがなくても、父に従わなければ人間でなくなるわけではない。
「私は成人し、婚姻によって別家へ移っています。勘当という言葉で、私の財産も夫も奪えません」
言葉にすると、首から下げた小さな鍵の重みを感じた。青薔薇館の玄関と文書庫を開ける、私だけの鍵だ。
父の許可がなくても帰れる家がある。私が選んだ夫がいる。何より、どちらを失っても私の「嫌だ」は消えない。
「財産?」
父が乾いた笑いを漏らした。
「青薔薇館があるから強気なのか。あれも元はベルフォール家が管理してきたものだ」
「母から私へ遺された信託財産です」
「家族の祝いに使って何が悪い」
心臓が一度、大きく鳴った。
「何の話ですか」
継母が父の袖へ触れたが、彼は振り払った。
「お前が婚礼準備を放り出したせいで、費用が余計にかかった。フローラの体面を守るには仕方がなかったんだ」
「青薔薇館の年金へ触れたのですか」
「許可書があった。今さら他人のような顔をするな」
「私は署名していません」
「署名なら、確かにあった」
父は立ち上がり、最後まで自分が正しいと信じる顔で私を見下ろした。
「青薔薇館の年金は、もうフローラの婚礼へ使った」




