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「愛することはない」婚約者は、妹に譲ります  作者: 星舟能空


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第21話 私を選んでください

 王宮の鏡廊で妹を見つけた時、逃げ道を探した。


 右は楽団、左は大理石の柱、その向こうは冬の庭へ続く硝子扉。十歩戻れば化粧室へ入れる。


 私の腕を取っていたアレクシスが、足を緩めた。


「外へ出る?」


「……いいえ」


 答えるまで、彼は進まなかった。


 今夜は王妃主催の冬至宴だ。妹夫婦が招かれることは事前に分かっていた。会いたくなければ欠席してよいと、アレクシスは三度も言った。


 それでも私は、自分で選んだ青いドレスを着てここへ来た。


 フローラのために王宮を捨てるのではなく、私が踊りたい場所で夫と踊るために。


 入場した時から、アレクシスは私を腕の飾りにしなかった。王妃へ挨拶する順番も、旧知の夫人と話すかどうかも、私へ小声で尋ねた。


 最初の一時間で、私は二度話題を間違えた。外国大使へ去年の洪水を尋ね、復旧済みだと訂正される。老伯爵夫人の孫を、甥と呼び間違えた。


 以前なら、その場で帰りたくなっただろう。


 アレクシスは笑って取り繕わず、大使から新しい堤防の話を聞き、老夫人へ孫の近況を尋ねた。私の失敗を消すのではなく、会話をその先へ続けた。


「公爵夫人になっても、間違えるのですね」


 二人きりになった時、私が言うと、彼は真顔で頷いた。


「私も公爵になって十二年だが、先ほど大使の名を一音間違えた」


「気づきませんでした」


「大使は気づいた。帰国までに三度はからかわれる」


 失敗しても、隣を歩く資格は失われない。


 私は鏡に映る青い自分を見て、ようやく肩を下ろしたところだった。


 「このまま行きます」


「分かった」


 妹は鮮やかな若草色のドレスを着ていた。金髪には翠玉の髪飾り。少し離れた場所でジュリアンが大臣と話している。


 私たちに気づいたフローラは、扇を閉じた。


「お姉様」


「こんばんは、モンテーニュ夫人」


 妹ではなく、既婚の夫人として呼ぶと、その眉がわずかに上がった。


「そんなに他人行儀になさらなくても。私たちは姉妹ですもの」


「公の場ですから」


 フローラは私を上から下まで見た。


「その色、本当にお気に入りなのね。お顔が青白く見えますわ」


「私は好きです」


 口にすると、青い布が背中を支えてくれるような気がした。


「公爵閣下も、そうお思い?」


 妹の視線が私を越え、アレクシスへ移る。


「妻が選んだ時、とても似合うと伝えました」


「まあ。閣下はお優しいのですね」


 フローラは一歩近づいた。


「姉は昔から、似合うものより実用的なものを選ぶ人でした。社交も大勢の前では緊張してしまって。公爵夫人として、ご苦労をおかけしていませんか」


 声音は心配する妹のものだ。周囲の客が耳を傾けても、悪意とは取らないだろう。


「私の妻のことなら、私が知っています」


 アレクシスは礼儀正しく答えた。


「今夜、彼女はこのドレスを選び、この宴へ来ると決めた。私は隣を歩けて光栄です」


「でも、お姉様はご病気がちになったと伺いました。公爵家の重い役目は、もっと健康で社交的な女性の方が――」


「フローラ」


 私が名を呼ぶと、妹は驚いた顔をした。


「心配は要りません。私の体調は夫と医師が知っています。私ができない仕事には、正当に雇われた方がいます」


「私はただ、閣下がお気の毒で」


「私が気の毒かどうかも、私が決めることです」


 アレクシスの声は低いが、怒鳴ってはいない。


「そして、私が望む妻はエレノアです」


 フローラの笑みが固まった。


 私は胸の内で、その言葉へすがりかけた。妹より選ばれた。今度は私が勝ったのだ、と。


 けれど、アレクシスは妹を負かすため私を選んだのではない。


 私は夫の腕へ、自分から手を添えた。


「私も、この人を選びました」


 声は震えたが、言い直さなかった。


「ですから、私の夫へ二人だけの面会を求める手紙は、もう送らないでください」


 近くで扇が止まる音がした。


 フローラの頬へ赤みが差す。


「お姉様が何をおっしゃっているのか、分からないわ」


「送っていないと?」


「私が閣下へご挨拶を書いたことはあります。でも、姉妹の間で話すような内容を、こんな場所で――」


「内容を公表するつもりはありません。今後送らないでほしいとだけ伝えています」


 逃げ道は残した。


 謝罪し、二度としないと言えば終わる。


 妹は扇を握り直した。


「閣下。姉は昔から嫉妬深いところがありますの。私がジュリアン様に愛された時も、表では譲ると言いながら――」


「私の妻を侮辱するために私へ話しかけたのなら、ここで終わりです」


 アレクシスは私の腰を抱いて隠すのではなく、半歩だけ私の横へ並んだ。


「私はエレノアを望んでいます。あなたと比較した結果ではない。ほかの誰かへ替える余地もありません」


 その時、背後から硝子杯の砕ける音がした。


     ◇


 ジュリアンが立っていた。


 足元には、落とした葡萄酒杯の破片。赤い酒が白い床へ広がっている。


「フローラ」


「違うの、ジュリアン様。私はお姉様の誤解を――」


「公爵へ、二人だけで会いたいと手紙を送ったのか」


 周囲の客が露骨に距離を取り始めた。楽団は曲を続けているが、近くの会話はすっかり止まっている。


「姉があなたをまだ愛しているから、教えて差し上げようとしただけよ」


「それで、なぜ二人きりになる必要がある?」


「あなたこそ、今夜ずっとお姉様を見ていたでしょう!」


 フローラの声が鏡廊へ響いた。


 ジュリアンの顔が変わる。


「妻がほかの男を誘うことと、同じにするな」


「同じよ。あなたは私と結婚してからも、お姉様なら、お姉様ならと何度も言う。私の書く手紙が気に入らない、私の客順が違う、私が帳簿を読めない! お姉様がそんなにいいなら、最初から捨てなければよかったでしょう!」


「その言葉を、君が言うのか?」


 ジュリアンが腕をつかもうとし、フローラは扇で払いのけた。


 私は二人の間へ入りかけた。


 昔ならそうした。フローラを宥め、ジュリアンへ謝り、客へ気の利いた冗談を言って騒ぎを消しただろう。


 足を止めた。


 私が始めた争いではない。私が整える夫婦でもない。


「行きましょう、アレクシス様」


「いいのか」


「はい」


 私たちは騒ぎから離れた。


 背後では父が現れ、二人へ声を落とすよう命じている。継母は客へ笑みを向け、若夫婦は疲れているのだと取り繕っていた。


 どれも、私の役目ではない。


     ◇


 冬の庭は人気がなかった。


 硝子屋根の下で柑橘の葉が香り、遠くから楽団の音だけが届く。


 私は長椅子へ座り、ようやく大きく息を吐いた。アレクシスは隣へ座る前に、私の顔を覗く。


「帰る?」


「もう少し、ここにいたいです。あなたと踊っていません」


「踊れる?」


「一曲なら」


 彼は手を差し出した。


 鏡廊の中央ではない。観客もいない。石床の上で、遠い音へ合わせてゆっくり踊る。


「先ほどは、ありがとうございました」


「礼を言われることではない」


「妹より私を選ぶと言ってくださったことではありません」


 私は彼の肩へ手を置いた。


「私が話す前に、全部終わらせなかったことです」


「手を出したくて仕方なかった」


「分かっていました」


「だが君が、自分で言いたかっただろう」


「はい」


 夫を欲しいと言い、夫を選び、人前で妹へ渡さないと言えた。


 アレクシスに選ばれたからだけではない。私も選んだから、今ここにいる。


 曲が終わる前に、私は彼へ口づけた。


 そのまま庭口から帰ることもできた。


 けれど私は、アレクシスの手を引いて鏡廊へ戻った。フローラ夫婦の姿はもうなく、割れた杯も片づけられている。残った客の視線が集まったが、誰も私へ説明を求める権利はない。


「もう一曲、踊っていただけますか」


「何曲でも」


「一曲で十分です。まだ病み上がりですから」


 私は自分の限界も、自分で決めた。


 楽団が次の曲を始める。青い裾を翻し、今度は大勢の前で夫と踊った。


 途中で足順を一度間違えた。アレクシスも合わせて間違え、二人で笑う。


 妹に勝ったからではない。


 私たちの夜を、妹の行動だけで終わらせなかったことが嬉しかった。


      ◇


 公爵邸へ戻ったのは、夜半を過ぎてからだった。


 玄関で執事が、一通の封書を銀盆へ載せて待っていた。


 ベルフォール伯爵家の印。宛名は夫婦連名だが、父の筆跡は怒りで太くなっている。


『姉としてフローラ夫婦の仲裁を命ずる。明朝、ベルフォール邸へ出頭せよ』


 命令文の最後には、従わなければ父娘の縁を切るとあった。


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