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「愛することはない」婚約者は、妹に譲ります  作者: 星舟能空


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19/30

第19話 夫を欲しいと言っていい

 妹の婚礼が終わって、三日が過ぎた。私は式へ出ず、祝福文も送らなかった。


 熱が下がってからも、アレクシスは毎晩、同じ寝台で本を読んだ。


 私が選んだのは、海賊と錬金術師が空飛ぶ鯨を追う冒険小説だった。子ども向けだと思っていたのに、海賊船の相続争いがやけに複雑で、三冊目になっても鯨はほとんど姿を見せない。


「この船長は、先週死んだはずでは?」


「双子の弟だ」


「弟がいたのですか」


「私も今知った」


 アレクシスは眉間へ皺を寄せ、前の頁を確かめた。


 寝台の中央には、開いた本と拳二つ分の距離がある。


 婚礼の夜、手をつないで眠りたいと言ったのは私だった。けれど、その翌晩も、その次も、彼は私が求めた以上には触れなかった。額への口づけ。おやすみの抱擁。時折、眠った私が近寄れば、朝まで肩を貸してくれる。


 大切にされている。


 だからこそ、別の望みを口にするのが怖かった。


「今日はここまでにしよう」


 アレクシスが栞を挟んだ。


「もうですか」


「同じ行を三度読んでいた」


「私が、ですか?」


「私がだ。君がまったく頁を見ていないので、こちらも集中できない」


 見られていた。


 頬が熱くなり、私は掛布を顎まで引き上げた。


 さきほどから、文字ではなく彼の手を見ていた。長い指が頁をめくるたび、婚礼の日にその手が私の頬へ触れたことを思い出した。湯浴みの後で少し乱れた黒髪も、緩めた寝間着の襟から覗く喉元も、見てはいけないもののようで、目を逸らすほど気になった。


「具合が悪い?」


「いいえ」


「では、本当に船長の双子が気に入らなかったのか」


「そうではなくて……」


 言葉が続かない。


 アレクシスは本を閉じたまま、私が言葉を見つけるのを待っていた。


「今夜は、一人で眠りますか」


 ようやく出てきたのは、望みと反対の言葉だった。


 彼は少しだけ目を伏せた。


「分かった。隣室にいる。夜中でも呼んでくれ」


 本を持ち、寝台から降りる。


 胸が痛んだ。引き止めてほしいと望みながら、自分から追い出したのだ。


「待ってください」


 夜着の袖をつかんだ。


 アレクシスはすぐに座り直したが、私の手を握り返さない。


「一人にしてほしいわけではありません」


「では、どうしてほしい?」


 優しい質問だった。けれど答えは、誰にも譲れない私だけのものだ。


「分からないのです」


 正直に言うと、彼の肩から力が抜けた。


「分からないままでいい」


「困りませんか」


「少し困る。君を抱き締めたいのに、嫌がらせたくない」


 はっきり欲しいと言われ、鼓動が速くなった。


 私は昔、求められたことなら何でも差し出した。舞踏会の相手も、手紙も、母の部屋も。何を渡すかは相手が決め、私は頷くだけだった。


 今は逆だ。


 アレクシスは欲しいと伝えたうえで、取らずに待っている。


「今夜は、このままいてください」


「分かった」


「本も」


「船長が三つ子になるまで読もう」


「それは困ります」


 笑うと、固かった息がようやく外へ出た。


     ◇


 数日は、それまでと同じように過ぎた。


 同じ寝台で本を読み、手をつないで眠る。けれど一度口にした欲望は、なかったことにはならない。


 朝、アレクシスが襟元の釦を留める姿を見る。食卓で私の唇についた砂糖を指で示される。庭で腰を支えられる。


 触れてほしいと思うたび、身体を差し出す義務とは違うのだと、自分へ言い聞かせた。


 カミーユに相談することも考えたが、兄の寝室について尋ねられる彼女が気の毒でやめた。


 代わりに私は、自分が何を望むか一つずつ確かめた。


 朝の抱擁は好き。


 額だけでなく、頬へ口づけられるのも好き。


 人前で腰を抱かれるのは、まだ落ち着かない。


 夜、寝台へ入る前に手を差し出されると嬉しい。


 衣装係が婚礼用に揃えた薄絹の夜着を出した晩には、鏡の前で動けなくなった。


 胸元は深く、肩にはほとんど布がない。妻なら夫を喜ばせるべきだと継母が選びそうな衣装だった。


 着替えて寝室へ入ると、アレクシスは本から顔を上げた。私を見て息を止める。その反応に安堵しかけたが、彼はすぐ私の腕を見た。


「寒くない?」


「少し」


「上着を持ってこよう」


「でも、この方が……お好きではありませんか」


 彼は困ったように本を閉じた。


「よく似合うし、見惚れた。だが君が肩を縮めている姿まで喜ぶ趣味はない」


 侍女を呼ぶ代わりに、彼は自分の部屋着を肩へ掛けた。大きすぎる紺色の布から、彼が使う石鹸の香りがする。


「今夜これを着たのは、君が着たかったから?」


 答えられずにいると、彼は寝台の端へ座った。


「私に見せたいと思って選んだのなら嬉しい。妻だから着なければならないと思ったのなら、嬉しくない」


 私は衣装部屋へ戻り、青い小花を縫った木綿の夜着へ替えた。


 寝室へ戻っても、彼の目に失望はなかった。


「そちらも好きだ」


「何でもよいのでは?」


「違う。どちらも好きだ。君が楽な方なら、もっと好きだ」


 私は彼の部屋着を返さず、その晩は肩へ掛けたまま本を読んだ。


 いつか薄絹を、自分が着たい夜に選びたいと思った。


 ある雨の日、アレクシスは予定より早く帰宅した。濡れた外套を脱ぎ、書斎へ入ってきた私を見ると、いつものように腕を広げる。


 私はその胸へ入り、背へ両腕を回した。


「お帰りなさい」


「ただいま」


 彼の唇が髪へ触れる。


 いつもなら、それで離れる。今日は私が顔を上げた。


「頬にも、していただけますか」


 一瞬の驚きの後、彼は笑った。


「もちろん」


 頬への口づけは軽く、雨より温かかった。


「反対側も?」


「ええ」


 両方へ受けても、何かを失うことはなかった。


     ◇


 その夜、本を閉じたのは私だった。


 空飛ぶ鯨はついに見つかった。船長は双子の弟と和解し、あとは港へ帰るだけだ。


「今日は早いね」


「読み終えたからです」


「次の巻もある」


「今夜は、本ではなくあなたを見たいのです」


 口にしてから、耳まで熱くなった。


 アレクシスは冗談へ逃げず、私を見た。


「エレノア。私が何を望んでいるか、話してもいい?」


「はい」


「君へ口づけたい。抱き締めたい。その先も望んでいる」


 低い声に、身体の内側が震えた。怖さはある。けれど逃げたい怖さではない。


「私は、何をしたらよいでしょう」


 また古い癖が出た。


 彼は私の失敗を責めず、問いを返した。


「何をしたい?」


 私は息を整えた。


「今夜は、手だけでは足りません」


 彼の目が濃くなる。


「あなたに、口づけてほしいです」


「どこへ?」


 意地悪ではなく、私の望みを曖昧にしないための問いだと分かった。


 私は自分の唇へ指を当てた。


「ここへ」


 アレクシスがゆっくり近づく。逃げる時間も、近づく時間も、私に残されていた。


 先に距離をなくしたのは私だった。


 唇が重なり、離れ、もう一度重なる。彼の手は頬にあり、私の手は寝間着の胸元をつかんでいた。


「エレノア」


 名を呼ばれる。


 何かを命じる声ではない。私がここにいることを確かめる声だ。


「もう一度」


 私が頼むと、今度の口づけは深くなった。


 抱き締められた腕の中で、私は何度も、自分から彼へ触れた。黒髪へ指を入れ、肩を撫で、唇を探した。


 途中で彼が動きを止める。


「この先へ進みたい?」


 私は、自分の身体へ問いかけた。


 義務だからではない。妻になった返礼でもない。彼に喜んでもらえば捨てられない、という恐れでもない。


 この人に触れたい。この人にも、私を欲しがってほしい。


「はい。あなたと進みたいです」


 答えると、彼は額を私の額へつけた。


「私もだ」


 灯りを落とした後も、彼は私の表情を確かめ、私は嫌なことも、嬉しいことも言葉にした。


 痛みを我慢して褒められる夜ではなかった。


 二人ともが欲しいものを尋ね、受け取り、与える夜だった。


     ◇


 翌朝、私はアレクシスの腕の中で目覚めた。


 逃げたくならなかった。


 恥ずかしさはある。身体も少し重い。それでも昨夜をなかったことにしたいとは思わない。


 彼はまだ眠っていた。額へ落ちた黒髪へ触れると、濃い青の目が開く。


「おはよう」


「おはようございます」


「具合は?」


「大丈夫です。……幸せです」


 彼の目が柔らかく細められた。


 言うなら今だと思った。


「アレクシス様。私は、あなたが好きです」


 婚礼の日には返せなかった言葉。


「愛しています」


 彼はすぐに答えなかった。私の言葉を奪わず、急いで自分のものにせず、確かに受け取るように目を閉じた。


「私も愛している、エレノア」


 朝の口づけは、昨夜より穏やかだった。


 朝食の盆が届いた時、銀の小皿に一通の手紙が載っていた。


 宛名は、私ではない。


『アレクシス・ヴァレール公爵閣下へ 親愛なるフローラ・モンテーニュより』


 妹から、私の夫だけに宛てた手紙だった。


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