第19話 夫を欲しいと言っていい
妹の婚礼が終わって、三日が過ぎた。私は式へ出ず、祝福文も送らなかった。
熱が下がってからも、アレクシスは毎晩、同じ寝台で本を読んだ。
私が選んだのは、海賊と錬金術師が空飛ぶ鯨を追う冒険小説だった。子ども向けだと思っていたのに、海賊船の相続争いがやけに複雑で、三冊目になっても鯨はほとんど姿を見せない。
「この船長は、先週死んだはずでは?」
「双子の弟だ」
「弟がいたのですか」
「私も今知った」
アレクシスは眉間へ皺を寄せ、前の頁を確かめた。
寝台の中央には、開いた本と拳二つ分の距離がある。
婚礼の夜、手をつないで眠りたいと言ったのは私だった。けれど、その翌晩も、その次も、彼は私が求めた以上には触れなかった。額への口づけ。おやすみの抱擁。時折、眠った私が近寄れば、朝まで肩を貸してくれる。
大切にされている。
だからこそ、別の望みを口にするのが怖かった。
「今日はここまでにしよう」
アレクシスが栞を挟んだ。
「もうですか」
「同じ行を三度読んでいた」
「私が、ですか?」
「私がだ。君がまったく頁を見ていないので、こちらも集中できない」
見られていた。
頬が熱くなり、私は掛布を顎まで引き上げた。
さきほどから、文字ではなく彼の手を見ていた。長い指が頁をめくるたび、婚礼の日にその手が私の頬へ触れたことを思い出した。湯浴みの後で少し乱れた黒髪も、緩めた寝間着の襟から覗く喉元も、見てはいけないもののようで、目を逸らすほど気になった。
「具合が悪い?」
「いいえ」
「では、本当に船長の双子が気に入らなかったのか」
「そうではなくて……」
言葉が続かない。
アレクシスは本を閉じたまま、私が言葉を見つけるのを待っていた。
「今夜は、一人で眠りますか」
ようやく出てきたのは、望みと反対の言葉だった。
彼は少しだけ目を伏せた。
「分かった。隣室にいる。夜中でも呼んでくれ」
本を持ち、寝台から降りる。
胸が痛んだ。引き止めてほしいと望みながら、自分から追い出したのだ。
「待ってください」
夜着の袖をつかんだ。
アレクシスはすぐに座り直したが、私の手を握り返さない。
「一人にしてほしいわけではありません」
「では、どうしてほしい?」
優しい質問だった。けれど答えは、誰にも譲れない私だけのものだ。
「分からないのです」
正直に言うと、彼の肩から力が抜けた。
「分からないままでいい」
「困りませんか」
「少し困る。君を抱き締めたいのに、嫌がらせたくない」
はっきり欲しいと言われ、鼓動が速くなった。
私は昔、求められたことなら何でも差し出した。舞踏会の相手も、手紙も、母の部屋も。何を渡すかは相手が決め、私は頷くだけだった。
今は逆だ。
アレクシスは欲しいと伝えたうえで、取らずに待っている。
「今夜は、このままいてください」
「分かった」
「本も」
「船長が三つ子になるまで読もう」
「それは困ります」
笑うと、固かった息がようやく外へ出た。
◇
数日は、それまでと同じように過ぎた。
同じ寝台で本を読み、手をつないで眠る。けれど一度口にした欲望は、なかったことにはならない。
朝、アレクシスが襟元の釦を留める姿を見る。食卓で私の唇についた砂糖を指で示される。庭で腰を支えられる。
触れてほしいと思うたび、身体を差し出す義務とは違うのだと、自分へ言い聞かせた。
カミーユに相談することも考えたが、兄の寝室について尋ねられる彼女が気の毒でやめた。
代わりに私は、自分が何を望むか一つずつ確かめた。
朝の抱擁は好き。
額だけでなく、頬へ口づけられるのも好き。
人前で腰を抱かれるのは、まだ落ち着かない。
夜、寝台へ入る前に手を差し出されると嬉しい。
衣装係が婚礼用に揃えた薄絹の夜着を出した晩には、鏡の前で動けなくなった。
胸元は深く、肩にはほとんど布がない。妻なら夫を喜ばせるべきだと継母が選びそうな衣装だった。
着替えて寝室へ入ると、アレクシスは本から顔を上げた。私を見て息を止める。その反応に安堵しかけたが、彼はすぐ私の腕を見た。
「寒くない?」
「少し」
「上着を持ってこよう」
「でも、この方が……お好きではありませんか」
彼は困ったように本を閉じた。
「よく似合うし、見惚れた。だが君が肩を縮めている姿まで喜ぶ趣味はない」
侍女を呼ぶ代わりに、彼は自分の部屋着を肩へ掛けた。大きすぎる紺色の布から、彼が使う石鹸の香りがする。
「今夜これを着たのは、君が着たかったから?」
答えられずにいると、彼は寝台の端へ座った。
「私に見せたいと思って選んだのなら嬉しい。妻だから着なければならないと思ったのなら、嬉しくない」
私は衣装部屋へ戻り、青い小花を縫った木綿の夜着へ替えた。
寝室へ戻っても、彼の目に失望はなかった。
「そちらも好きだ」
「何でもよいのでは?」
「違う。どちらも好きだ。君が楽な方なら、もっと好きだ」
私は彼の部屋着を返さず、その晩は肩へ掛けたまま本を読んだ。
いつか薄絹を、自分が着たい夜に選びたいと思った。
ある雨の日、アレクシスは予定より早く帰宅した。濡れた外套を脱ぎ、書斎へ入ってきた私を見ると、いつものように腕を広げる。
私はその胸へ入り、背へ両腕を回した。
「お帰りなさい」
「ただいま」
彼の唇が髪へ触れる。
いつもなら、それで離れる。今日は私が顔を上げた。
「頬にも、していただけますか」
一瞬の驚きの後、彼は笑った。
「もちろん」
頬への口づけは軽く、雨より温かかった。
「反対側も?」
「ええ」
両方へ受けても、何かを失うことはなかった。
◇
その夜、本を閉じたのは私だった。
空飛ぶ鯨はついに見つかった。船長は双子の弟と和解し、あとは港へ帰るだけだ。
「今日は早いね」
「読み終えたからです」
「次の巻もある」
「今夜は、本ではなくあなたを見たいのです」
口にしてから、耳まで熱くなった。
アレクシスは冗談へ逃げず、私を見た。
「エレノア。私が何を望んでいるか、話してもいい?」
「はい」
「君へ口づけたい。抱き締めたい。その先も望んでいる」
低い声に、身体の内側が震えた。怖さはある。けれど逃げたい怖さではない。
「私は、何をしたらよいでしょう」
また古い癖が出た。
彼は私の失敗を責めず、問いを返した。
「何をしたい?」
私は息を整えた。
「今夜は、手だけでは足りません」
彼の目が濃くなる。
「あなたに、口づけてほしいです」
「どこへ?」
意地悪ではなく、私の望みを曖昧にしないための問いだと分かった。
私は自分の唇へ指を当てた。
「ここへ」
アレクシスがゆっくり近づく。逃げる時間も、近づく時間も、私に残されていた。
先に距離をなくしたのは私だった。
唇が重なり、離れ、もう一度重なる。彼の手は頬にあり、私の手は寝間着の胸元をつかんでいた。
「エレノア」
名を呼ばれる。
何かを命じる声ではない。私がここにいることを確かめる声だ。
「もう一度」
私が頼むと、今度の口づけは深くなった。
抱き締められた腕の中で、私は何度も、自分から彼へ触れた。黒髪へ指を入れ、肩を撫で、唇を探した。
途中で彼が動きを止める。
「この先へ進みたい?」
私は、自分の身体へ問いかけた。
義務だからではない。妻になった返礼でもない。彼に喜んでもらえば捨てられない、という恐れでもない。
この人に触れたい。この人にも、私を欲しがってほしい。
「はい。あなたと進みたいです」
答えると、彼は額を私の額へつけた。
「私もだ」
灯りを落とした後も、彼は私の表情を確かめ、私は嫌なことも、嬉しいことも言葉にした。
痛みを我慢して褒められる夜ではなかった。
二人ともが欲しいものを尋ね、受け取り、与える夜だった。
◇
翌朝、私はアレクシスの腕の中で目覚めた。
逃げたくならなかった。
恥ずかしさはある。身体も少し重い。それでも昨夜をなかったことにしたいとは思わない。
彼はまだ眠っていた。額へ落ちた黒髪へ触れると、濃い青の目が開く。
「おはよう」
「おはようございます」
「具合は?」
「大丈夫です。……幸せです」
彼の目が柔らかく細められた。
言うなら今だと思った。
「アレクシス様。私は、あなたが好きです」
婚礼の日には返せなかった言葉。
「愛しています」
彼はすぐに答えなかった。私の言葉を奪わず、急いで自分のものにせず、確かに受け取るように目を閉じた。
「私も愛している、エレノア」
朝の口づけは、昨夜より穏やかだった。
朝食の盆が届いた時、銀の小皿に一通の手紙が載っていた。
宛名は、私ではない。
『アレクシス・ヴァレール公爵閣下へ 親愛なるフローラ・モンテーニュより』
妹から、私の夫だけに宛てた手紙だった。




