第18話 幕間・真実の愛の婚礼
真実の愛の婚礼に、花嫁の席が二つあった。
「どういうことなの?」
フローラは祭壇前へ並んだ二脚の椅子を見て、声を尖らせた。
一方には金糸でF、もう一方にはEの刺繍がある。婚礼係は青ざめ、手元の配置表を何度も裏返した。
「申し訳ございません。最初に頂戴した式次第に、エレノア様のお名前が――」
「消してと申し上げたでしょう!」
礼拝堂の控室には、すでに百人を超える客のざわめきが届いている。今から刺繍をほどく時間などない。
「椅子ごと下げて。私の席だけ残せばいいわ」
「ですが新郎席との高さが揃わなくなります」
「誰が椅子の高さを見るというの?」
誰も見ないはずだ。客は花嫁を見る。姉より明るく、美しく、愛された花嫁を。
婚礼係がEの椅子を運び去る間、フローラは鏡へ向き直った。
真珠を縫い込んだ純白のドレス。母エレーヌが用意した大粒の耳飾り。髪には、エレノアの実母が使った花嫁ヴェール。
青石の首飾りだけは、とうとう手に入らなかった。代わりの翠玉はもっと大きく、緑の瞳に似合っている。それでも胸元へ触れるたび、そこにない青色を意識してしまう。
「笑って、フローラ」
母が後ろから肩を整えた。
「今日はあなたが勝った日なのよ」
「勝ったなんて。私はジュリアン様を愛しているだけよ」
答えながら、唇の端を上げる。
廊下で楽団が入場曲を奏で始めた。予定より四半刻早い。
「まだよ!」
母が扉を開けて止めると、楽団長は違う式次第を見せた。招待客へ配られた予定表とも時刻が違う。エレノアが書いた古い草稿、フローラが書き直した表、継母が増やした余興一覧が、それぞれ別の業者へ渡っていたのだ。
「もう始めてしまいなさい」
フローラは言った。
細部など、愛があればどうにでもなる。
◇
扉が開くと、客は一斉に振り向いた。
その瞬間だけで、朝からの不手際は消えたように思えた。賞賛のため息。眩しい燭台。祭壇前で待つジュリアンの微笑。
エレノアには、これほど豪華な式は似合わなかっただろう。
フローラは父の腕を取り、ゆっくり赤い絨毯を進んだ。
途中で、同じ席番号を持った二人の老侯爵が揉めているのが見えた。招待状の客順を姉の古い帳面から写した際、三年前に爵位を譲った父子を両方とも当主扱いにしたらしい。
見なかったことにした。
祭壇へたどり着き、ジュリアンの手を取る。
「美しいよ、フローラ」
「ありがとうございます」
「少し進行が乱れているようだが」
「婚礼係が不慣れなのです。後で替えましょう」
彼の眉がわずかに動いたが、司祭が誓詞を促した。
フローラは練習どおり巻紙を開く。
『雨の夜にはあなたの窓辺の灯となり、言葉のない朝には同じ沈黙を分かちます。あなたの誇りを私の誇りとせず、あなたの弱さを私の優しさの証とせず――』
客席から、感嘆の吐息が漏れた。
ジュリアンの目が潤む。この言葉を読ませたかった。彼が恋文のたび褒めてくれた、思慮深く繊細なフローラとして。
「たいへん美しい誓いです」
司祭が微笑んだ。
「では花嫁へお尋ねします。『あなたの弱さを私の優しさの証としない』とは、お二人にとってどのような約束でしょう」
フローラは瞬いた。
そんな質問は式次第になかった。
「それは……弱い時にも、優しくするという意味ですわ」
「弱さを、ですか」
「ええ。愛していれば、難しく考える必要などありません」
司祭は何か言いかけ、やめた。
隣のジュリアンが、重ねた手へ少しだけ力を込める。
「緊張しているのです」
客へ向けた笑顔は崩さない。けれど声は冷えていた。
誓詞を書いた時、姉はどんな意味を込めたのだろう。
フローラは考えないことにした。今日から、この言葉も自分のものになる。
◇
披露宴では、葡萄酒が足りなくなった。
増やした客の人数を酒商へ伝えていなかったらしい。給仕長は安い銘柄を混ぜて間に合わせようとし、ジュリアンに見つかって叱責された。
花の代金は半分しか払われておらず、花屋が食後の装飾を運び込まなかった。母は「青薔薇館の年金が入れば払える」と小声で言う。
「許可書は出したのでしょう?」
「ええ。でも信託管理人の確認が遅れているの」
「お姉様なら、最後には認めますわ」
その言葉を口にすると、母は安心したように頷いた。
宴の終盤、二人きりになった控室で、ジュリアンは祝儀の帳面を卓上へ置いた。
「明日から、これを整理してくれ」
「明日?」
「返礼の手配がある。来月までに夫人同伴の晩餐が九件、君が主催する茶会が二件だ。侯爵家の家政婦と予定を合わせてほしい」
フローラは重い帳面を指先で押し返した。
「新婚旅行は?」
「三日後に発つ。だから明日中に済ませるんだ」
「そんな面倒なこと、使用人へ任せればよいでしょう」
「夫人名義の返書は使用人には書けない。君はあれほど見事な手紙を書けるじゃないか」
「婚礼の翌日まで働けとおっしゃるの?」
「働くというほどのことではない。エレノアは毎年、一人で百通以上処理していた」
姉の名が、純白のヴェールへ染みを落としたように聞こえた。
「では、お姉様に頼めばよいではありませんか」
「彼女が戻らないから、君が覚える必要があると言っている」
「私を愛しているなら、面倒なことを押しつけないで」
「愛だけで侯爵夫人が務まると思っているのか」
ジュリアンはすぐに後悔したようだった。だが謝らず、窓へ歩いた。
「私は君のために、長年の婚約も宮廷での信用も捨てた」
フローラの胸へ、冷たいものが落ちた。
「私だって、お姉様に恨まれることを覚悟してあなたを選んだわ」
「君は欲しいものを得ただけだろう」
「あなたもでしょう?」
扉の向こうでは、客が新郎新婦を呼んでいた。
二人は笑顔を作り直した。
宴会場へ戻ると、婚礼菓子の一番上が傾いていた。砂糖細工の新郎が倒れ、花嫁の腰へ突き刺さっている。客は縁起がよいと笑ったが、フローラには誰かの悪意に見えた。
「切り分ける前に直して」
菓子職人は呼ばれていなかった。契約では搬入までで、宴の最中まで職人を拘束する追加料金を、フローラが削ったからだ。
姉なら予備の砂糖人形くらい用意しただろう。
そう考えた途端、腹が立った。なぜ今日まで、頭の中で姉へ助けを求めなければならないのだろう。
フローラは砂糖細工を自分で抜き取り、給仕へ渡した。
「飾りなどなくても、私たちの愛は変わりません」
拍手が起きた。
満足してジュリアンを見ると、彼は菓子で汚れた手袋を見ていた。
「替えは?」
「控室にありますわ」
「客を待たせる。汚れることくらい予想できただろう」
「花嫁がそんなことまで予想するの?」
微笑みを保ったまま囁き合う。楽団が大きく音を奏でたため、客には仲睦まじく見えただろう。
夜、侯爵邸へ到着しても、休むことはできなかった。
玄関には家令、家政婦、料理人、衣装係が並び、新夫人の指示を待っていた。
「朝食は何時になさいますか」
「厨房の冬期予算をご確認いただけますか」
「前侯爵夫人から引き継いだ慈善訪問の日程が――」
質問が次々飛んでくる。
「今日は婚礼の日よ。明日にして」
フローラが答えると、家政婦はジュリアンへ視線を移した。
「エレノア様から届く予定の引継書は、いつ頃になりますでしょう」
「来ない」
ジュリアンの短い返事に、使用人たちが顔を見合わせた。
「では、奥様に一からご説明いたします。明朝、まず雇用名簿から――」
「新婚旅行から戻ってからでいいわ」
「ひと月後では、冬支度の発注に間に合いません」
家政婦の声に責める響きはなかった。それがかえって腹立たしい。
フローラは母の家では、欲しいと言えば誰かが整えたものを受け取れた。侯爵夫人になれば、もっと多くの人が自分を世話すると思っていた。
なのに並んだ使用人は、祝福より先に決定を求めてくる。
「ジュリアン様が決めて」
「家政は夫人の役目だ」
「私を妻にする前から、分かっていたでしょう。私はお姉様のように帳簿が好きではありません」
「好き嫌いで決めることではない」
家令たちの前で、ジュリアンの声がまた冷えた。
フローラはヴェールを握った。今日一日で、姉の名を何度聞いただろう。
自分が姉から奪ったのは婚約者だったはずなのに、皆は姉の仕事まで一緒についてくると思っていた。
それはフローラも同じだった。
◇
夜更け、夫婦の居室へ週刊社交新聞の最新号が届けられた。
社交欄には今日の婚礼予告より先に、三週間前に行われたヴァレール公爵夫妻の小さな挙式が、公開されたばかりの婚礼写真とともに載っている。
『青い花に囲まれた、心温まる婚礼』
写真の中で、姉が笑っていた。
フローラの知る、唇だけを動かす笑みではない。青い花冠を載せ、アレクシスを見上げ、目元まで柔らかくほどけている。
公爵は姉だけを見ていた。
写真の隅には小さな記事がある。
『花嫁の希望により、料理は辛味を利かせた西部風。装花も本人が青を選んだ』
「お姉様は、辛い物がお好きだったの……?」
知らなかった。
けれど、知らなかったことよりも、姉が自分の知らない顔をアレクシスへ見せていることが許せなかった。
フローラは新聞を折り、写真の姉だけを内側へ隠した。
すべてを得たはずの婚礼の夜、彼女が数えていたのは、姉が新しく手に入れたものばかりだった。




