第17話 役に立たない私でも
目を覚ました時、歯が鳴っていた。
掛布は二枚、肩まで引き上げてある。それでも寒くて、膝を胸へ寄せようとした。ところが脚が鉛になったように動かない。喉は焼け、枕へ触れた頬だけが濡れていた。
窓の向こうはまだ暗い。
よかった。夜明け前なら、間に合う。
今日は西部三領の使節を迎える昼餐会だ。公爵夫人として最初の公式な席で、客順を覚え、食後には青薔薇館の修繕報告を――。
寝台の柱につかまり、上体を起こした。
「奥様!」
扉の外で待っていた侍女マルタが駆け込んできた。差し出された腕を借りようとして、私は首を振る。
「着替えを。少し寝過ごしてしまったわ」
「寝過ごしたのではありません。まだ夜中です」
「でも、昼餐会の花と席札を確認しないと」
一歩目で床が傾いた。
マルタに抱えられなければ、敷物へ顔から落ちていた。自分の身体なのに、膝の折れ方さえ止められない。
「ごめんなさい。私、重いでしょう」
「いいえ。旦那様をお呼びします」
「だめ」
思ったより大きな声が出た。喉の奥が裂けるように痛む。
「朝は早いの。起こさないで。寝台へ戻れば治るから」
私が病気になれば、人手が一つ減る。予定を変え、薬代を使い、健康な人を眠らせない。ベルフォール家で熱を出した時、継母は決まって言った。
『丈夫なお前まで寝込んだら、誰がフローラの世話をするの』
だから毛布をかぶって汗を拭き、朝には起きた。治ったのではなく、立てたから治ったことにした。
マルタは私の拒絶に迷ったが、廊下へ視線をやった。
「もう、おいでです」
夜着の上へ上衣だけを羽織ったアレクシスが、開いた扉に立っていた。黒髪は整えられておらず、濃い青の目だけがすっかり覚めている。
「エレノア」
「起こしてしまって、ごめんなさい」
彼は謝罪には答えず、寝台の脇へ膝をついた。触れる前に私の顔を見て、手を差し出す。
「額へ触れても?」
「はい」
ひやりとした手のひらが額を覆った。気持ちがよくて目を閉じかけ、慌てて開く。
「昼餐会までには下がります。席札は机の二番目の引き出しに――」
「昼餐会は延期する」
「できません。三領の方が、もう王都へ」
「到着している。朝一番で詫び、こちらから後日出向く。水運協定の実務は副官が進められる」
「そんな。公爵夫人が風邪を引いたくらいで、公爵様が頭を下げるなんて」
「私が、妻の体調を見誤ったから予定を改める。私が説明することだ」
彼はマルタへ医師を呼ぶよう頼み、私を抱き上げた。
私は反射的に首へ腕を回した。寝台まで三歩しかないのに息が切れ、彼の肩へ熱い頬が触れる。
「本当に、ごめんなさい」
「謝るたびに熱が下がるなら、いくらでも聞く」
掛布をかけ直した彼は、汗で張りついた髪を指先で払った。
「だが下がらないから、水を飲もう」
◇
医師は、長い緊張が解けた反動と、何年も積み重なった栄養不足だと言った。
「身体がようやく、休んでも安全だと判断したのでしょう」
枕元で聞きながら、私は恥ずかしさで掛布へ潜りたくなった。
公爵夫人になって二週間。何一つ成し遂げないうちに、身体だけが先に休み始めたらしい。
妹の婚礼まで、あと七日だった。
薬を飲んでも熱は上がった。昼か夜かも分からなくなり、目覚めるたび天蓋の青い刺繍が波打って見える。
喉が渇いても、呼び鈴へ手を伸ばすのをためらった。
水差しは枕元にある。自分でできる。そう思って持ち上げた途端、硝子の縁が受け皿へ当たり、高い音がした。
「エレノア?」
隣室から椅子を引く音がした。
アレクシスが入ってきて、水差しを取り上げる。昼の正装ではなく、襟を緩めたシャツ姿だった。
「どうして、まだこちらに」
「書類は隣でも読める」
「使節の方々は?」
「副官から報告を受けた。先方は、次の昼餐会に辛い煮込みを出すなら延期を許すそうだ」
「そんな条件を?」
「こちらが事情を伏せずに話したら、夫人の好物なのだろうと笑われた」
恥ずかしい。けれど怒っている人はいなかったのだと分かり、強張っていた肩から力が抜けた。
彼は私の背へ腕を入れ、少しずつ水を飲ませた。飲み終えるまで急かさず、唇の端からこぼれた滴を布で拭う。
「私にうつります」
「医師によれば、これは人へうつす種類のものではない」
「では、時間を奪います」
「今夜の私の時間は、私がここで使うと決めた」
反論を探したが、頭の中で言葉がほどけた。
眠りへ落ちる直前、彼が椅子へ戻る音を聞いた。
◇
熱が最も高くなった夜、昔の夢を見た。
冬の廊下。扉の向こうで、幼いフローラが咳をしている。私が湯を運ばなければ。私が手紙を書かなければ。私がいい姉でなければ。
走ろうとしても足が動かない。
『何の役にも立たないなら、ここにいる意味がないでしょう』
継母の声に押され、冷たい床へ沈んだ。
「嫌……待って」
自分の声で目が覚めた。
薄い灯りの中、アレクシスが寝台の横にいた。眠っていたらしい。長椅子から身を起こし、けれどすぐには触れず、私の目が彼を捉えるのを待っている。
「ここはヴァレール公爵邸だ。私はアレクシス。君の夫だ」
「……昼餐会」
「無事に延期した」
「書類は」
「終わった」
「カミーユ様への手紙」
「私が書いた。ひどい字だったが、読めたと返事が来た」
私がしなくても、一日は終わった。
誰かが飢えたわけでも、家が崩れたわけでもない。アレクシスは怒っていない。それでも、何もしていない私だけが、世界から余っている気がした。
「アレクシス様」
「ここにいる」
「何もできない私でも、ここにいてよいですか」
問いながら、自分の声が子どものようだと思った。
彼の眉間へ、深い皺が寄った。怒りではない。痛みを堪える時の顔だった。
「何もできない日こそ、私にそばにいさせてほしい」
彼は私の手の横へ、自分の手を伏せて置いた。
「君が元気な日に一緒にいたいのは、誰にでも言える。水を飲むだけで疲れる日も、悪い夢で私の名前を忘れる日も、私は君の夫でいたい」
「でも、私は何も返せません」
「返してもらうために結婚したのではない」
その言葉は、熱に浮かされた頭でも消えなかった。
私は数寸だけ指を動かし、彼の手へ重ねた。
「ここにいてください」
「朝までいる」
「朝になっても」
欲張った言葉に、自分で驚いた。
アレクシスは笑わなかった。私の指を包み、当然の約束をするように答えた。
「その先もいる」
◇
熱が下がるまで五日かかった。
その間、家政婦は一度も決裁簿を寝台へ持ち込まなかった。料理人は食べられなかった粥を責めず、次は林檎を煮ましょうと提案した。延期された面会の一覧にも、「公爵夫人代理」という名はない。
私が欠けた穴を埋めるため、別の若い女性が連れてこられるのではないか。そんな恐れまで口にすると、アレクシスは公爵家の職員名簿を持ってきた。
「仕事には代行者がいる。妻にはいない」
簡潔な一言の横で、家政婦が真面目な顔で頷いた。
「奥様が寝込んだ程度で止まる家政なら、叱られるべきは私どもでございます」
私は、役目を休んでも居場所まで誰かへ渡るわけではないと、五日かけて覚えた。
六日目、私は庭へ面した長椅子まで歩いた。窓の外では、青い花の婚礼に使った鉢植えがまだ咲いている。
アレクシスは腕を貸したが、急かさなかった。座るとすぐ毛布を膝へ掛け、薬草茶の杯を渡す。
「苦いですね」
「君は苦い紅茶が好きだろう」
「これは紅茶ではありません」
「医師へ同じ主張をしたが、却下された」
私は笑った。まだ声は掠れたが、笑っても胸は痛まなかった。
「昼餐会を駄目にしてしまいました」
「来週、私たちが西部へ行くことになった。君は同行しない。医師の命令だ」
以前なら、役目を奪われたと怯えただろう。
今も少し怖い。それでも、その怖さを隠さず彼へ言えた。
「何も任せてもらえないと、不安になります」
「では、私が帰った日に食べる菓子を選んでくれ。ただし作るのは料理人だ」
「辛いものでも?」
「覚悟する」
私は長椅子の背から身体を起こし、自分から彼の胸へ額を預けた。
一瞬、彼の呼吸が止まる。すぐに腕が回ったが、病人を支えるよりずっと慎重な抱き方だった。
「今は、これしかできません」
「十分だ」
卓上で新聞が風にめくれた。
一面には、豪華な祭壇の絵と大きな見出しがある。
『真実の愛、ついに実る――モンテーニュ侯爵令息とベルフォール伯爵令嬢、明日挙式』
妹の婚礼は、もう翌日に迫っていた。




