第16話 何もしない朝
目を覚ますと、窓の外はまだ暗かった。
右手が温かい。昨夜、私から握り返したアレクシス様の手が、寝台の真ん中にある。彼は仰向けに眠り、規則正しい息をしていた。
夫になった人が隣にいる。
その事実に胸がくすぐったくなり、同時に、朝まで寝ていたことへの焦りが込み上げた。
ベルフォール家では、継母が起きる前に暖炉を整え、父の朝刊を並べ、フローラの衣装を確認していた。婚礼翌日の妻なら、それ以上に働かなければならないはずだ。
指をほどくと、アレクシス様が小さく身じろぎした。起こさないよう寝台を抜け、夜着の上へ部屋着を重ねる。
廊下には夜番の侍女がいた。
「おはようございます、奥様。お呼びくだされば、お着替えを」
「まだ休んでいて。私は少し館を見てまいります」
「朝食は九時の予定ですが」
「その準備を確認します」
公爵夫人らしい声を作って言うと、侍女は困った顔をしながらも道を開けた。
家政室にはすでに三人がいた。侍女長は今日の洗濯物を確認し、家政婦は蝋燭の在庫を数え、書記は昨日の祝宴の支出を帳簿へ移している。
「帳簿を拝見します」
私が入ると、全員が立ち上がった。
「奥様へのご説明は、三日後の予定でございます」
「予定を早めます。家のことを何も知らずに、寝ているわけにはいきません」
帳簿を受け取り、机へ座る。項目は整然と並び、昨日の花の一本まで記録されていた。訂正するところがない。せめて計算を確かめようと頁を繰ったが、書記がすでに二度検算した印もある。
「冬の薪は足りていますか」
「昨月、二年分の契約を更新いたしました」
「使用人の冬服は?」
「採寸まで終えております」
「では、食料庫を」
「一昨日、料理長と私が確認を」
何を尋ねても、誰かがもう終えている。彼らが怠けているのではない。私がいなくても仕事が回るよう、長く館を支えてきた人々だ。
それなのに、胸の奥では別の声がした。
あなたは必要ない。
「何か、私にしかできないことはありませんか」
切迫した声に、侍女長はしばらく考えた。
「奥様がお望みなら、来月の花の色をお選びいただけます。ただ、今朝でなくても花は枯れません」
「ほかには?」
「ご自分の朝食を召し上がること、でしょうか」
追い出すための言葉ではないと分かっても、恥ずかしさで顔が熱くなった。
家政室を出て、今度は衣装室へ向かう。夫の上着を整えるくらいならできると思った。だがアレクシス様付きの従者が、今日の予定に合わせて濃紺の上着と灰色の胴衣をすでに並べている。
「白い上着の方が、昨日の式の後にはふさわしいのでは」
「本日は西部からの報告を受けますので、汚れに強いこちらを公爵様がお選びです」
私は、夫の予定も好みも知らない。妻なのに、従者より役に立たない。
「奥様」
背後から呼ばれ、振り向く。
アレクシス様が髪も整えきらない姿で立っていた。片手には、銀の盆がある。甘い茶、苦い茶、焼きたてのパン、梨のジャム。寝室へ運ぶはずだったのだろう。
「目覚めたら、いなかったので探しました」
「申し訳ございません。すぐに朝の支度を整えます」
「支度なら、私が持っています」
「公爵様に盆を運ばせるわけには」
「では、一緒に持ちますか」
取り上げるのでも、役目だから下がれと言うのでもなかった。私たちは盆の左右を持ち、寝室へ戻った。
窓辺の丸卓で、二人だけの朝食を取る。昨日の祝宴で残った梨のジャムを、アレクシス様は嬉しそうに厚く塗った。
「朝から、いくつ仕事を見つけましたか」
「帳簿と薪と冬服を確認しようとしました。全部、終わっていました」
「それはよかった」
「私には何も残っていません」
彼の手が止まる。
「仕事が?」
「ここにいる理由が、です」
口にしてから、朝食が喉を通らなくなった。私はパンを半分に割り、残した方を無意識に布餐巾で包む。ベルフォール家では昼食を与えられない日があったから、朝のパンを袖へ入れておいた。
今日も、手は同じ動きをした。
包みを袖口へ滑らせかけたところで、アレクシス様の視線に気づく。血の気が引いた。
「盗むつもりでは――」
「分かっています」
「後でお腹が空いた時のために。ですが、今は食事をいただけると知っています。もう必要ないのに」
パンを卓上へ戻そうとすると、彼は止めなかった。取り上げもしない。
「部屋に、食べ物を置ける箱を用意しましょう」
「隠すことを、許すのですか」
「隠さず保管できます。鍵はあなたが持つ。厨房へ行けばいつでも食事は出ますが、信じられるようになるまで、目の届くところにあった方が安心でしょう」
「みっともない癖です」
「飢えないために身につけた癖です。恥じるべきなのは、そうさせた側でしょう」
彼は自分のパンをもう一切れ取り、私と同じように布へ包んだ。
「私の分も入れてください。書斎で昼を逃すことがあるので」
「それは、食事の時間を守ってくださいませ」
「妻としての最初の命令ですか」
「お願いです」
「努力します」
完全に守るとは言わないところが、彼らしかった。
食事が終わる頃、執事が小さな杉の箱を運んできた。もとは茶葉を保管する品で、内側には湿気を防ぐ薄板が張られている。
「新しい物は午後になりますので、まずはこちらを」
差し出された鍵は一本だけだった。
「予備は?」
「錠前師が作るまではございません。必要でしたら、ご本人の立ち会いで作らせます」
父の家では、私の机の鍵を継母も持っていた。知らないうちに抽斗を開けられ、便箋や母の手紙を確かめられた。鍵を持つとは、閉じ込められることではなく、自分で開ける時を決められることなのだ。
私は包んだパンを箱へ入れた。アレクシス様の分も隣へ置く。
「明日、残っていても驚かないでください」
「残っているところを、一緒に確認しましょう」
「毎日ですか」
「あなたが、もう必要ないと言うまで」
彼は箱を開けて見せるのではなく、鍵を私の掌へ置いた。小さな金属の重みを握り、寝台脇の抽斗へ自分でしまった。
朝食後、約束どおり庭を歩いた。何か役に立つことを探す目で見れば、落ち葉も、曲がった支柱も、すべて仕事に見える。拾おうとするたび、今日は休むと自分へ言い聞かせた。
青い花壇の前に、椅子が二脚置かれている。アレクシス様は片方へ私を座らせるのではなく、自分が先に腰掛けた。
「一人だけ休ませられると、罰を受けているように感じるでしょう。私もここで仕事をします」
彼は書類を開いた。私は何も持っていない。
五分もすると、立ち上がりたくなった。十分後には、屋敷中から怠け者だと見られている気がした。十五分後、風が花を揺らす音に気づいた。
「私は、何をすればよいでしょう」
「今は、何も」
「何もしなければ、時間を無駄にします」
「あなたの時間です。無駄にする権利もある」
彼は書類から目を上げた。
「私と結婚したからといって、毎朝ここに座る必要もありません。働きたい日は働けばいい。ただ、働けない日まで追い出されないことを、先に知ってほしい」
「皆が働いているのに、私だけが休めば、嫌われませんか」
「使用人は契約に基づいて働き、休みを取ります。あなたが苦しめば彼らが楽になるわけではない」
「それでも、公爵夫人が何もしないと噂されれば」
「噂する者はいるでしょう」
また、都合のよい嘘をつかない。
「あなたがしたい仕事を見つけた時には、私は協力します。評判のためだけに体を壊すなら止めたい。ただ最後に決めるのは、あなたです」
「私は、仕事をしたくないのでしょうか」
「今は、休みたいのに、休むことを怖がっているように見えます」
言われて初めて、肩から背中まで強張っていることに気づいた。婚約解消から今日まで、夜中に目覚めるたび次の命令を待ち、日中は選ぶ練習を続けてきた。昨夜も夢に起こされ、十分には眠っていない。
「疲れています」
「はい」
「眠いです」
「それは重大ですね」
「少し、ここで目を閉じてもよいですか」
「私が書類をめくる音でよければ」
私は目を閉じた。誰かの許可を得るためではなく、自分の体が訴えていることを言葉にできたのだと思った。
私は椅子の背へ体を預けた。
日差しが少しずつ高くなる。侍女が通り、庭師が帽子を取る。誰も私へ仕事を渡さず、誰も咎めない。
昼前、アレクシス様は報告を受けるため立ち上がった。
「一緒に戻りますか」
私も立ちかけ、座り直した。
「もう少し、ここにいます」
「では、昼食で」
彼が屋敷へ戻っても、隣の椅子も、私が座る椅子も片づけられなかった。
何もできない私のために、場所がそのまま残っている。
私は青い花が風に揺れるのを、昼の鐘が鳴るまで見ていた。




