千徳の奮戦 第一話
天正十三年(1585)四月、東政勝率いる南部軍三千は三戸より出陣。城ヶ倉の山岳地帯を経て、直接津軽に軍事行動を行った。それと同時に外ヶ浜勢に決起を呼びかけ、蓬田や横内などの南部方は油川に詰める大浦軍へ攻撃するように見せかけ、彼らを津軽へ助けに行かせないように仕向けたという。加えて油川町衆にはびこる不穏な空気……再び浄満寺の二の舞は踏めぬ。
結果としてまともに攻撃を受けたのは大浦為信の同盟者である千徳政氏。川を伝って東から攻めてきた敵軍の先には浅瀬石城。その城の城主である千徳は為信の同盟者ながら、実質は従属する身。新浪岡体制に組み込まれた際は奉行の一人として半ば独立を得たが、為信が南部に反旗を翻したことにより逆戻り。何より為信の正室は己の娘である徳姫。すでに二男一女を設けているので、為信がために働かざるをえない。
しかしながら此度の決起は何も知らされておらず、“欺くのは味方からというではないか” と言われる始末。しかも何やら大浦軍は援けにきそうでない。……となれば激怒するのは息子の政康であった。
「為信め。かつて妹の徳を手籠めにしたに飽き足らず、今度は我が家を滅ぼそうとするか。赦さない。決して赦さぬ。」
ではこのまま南部方に膝間付くか……いや、徳は人質も同然。それに一部の兵は大浦兵と共に油川に詰めている。勝手なふるまいは、仲間らを危機にさらす。
果ては政氏がというよりは政康が先頭に立ち、大浦軍の助けなしでも独力で立てることを宣うため、単独での戦闘を決意。民衆らも彼の心意気に奮い立ち、次々と浅瀬石城へ入城。結果として城兵三百のみで三千に抗う無謀な戦だったものが千もの雑兵が加わって、策さえあれば堂々と渡り合えるほどの兵力と化した。
敵軍が通るであろう道は判り切っていたので、あらぬところに穴を掘ったり柵を結いつけ地味に手間を掛けさせ、通る敵兵に石を投げてそのまま隠れたり、ざわと農馬をけしかけて敵兵に突撃させたりもした。そして敵が城を囲み、いざ攻め入らんとすれば……弓矢や槍で戦うばかりではなく、大釜に熱湯をわかしたものを長柄の柄杓で敵の頭上に浴びせさせる。こうであればひ弱な女や子供でも戦に参じることが出来よう。
こうして ”宇杭野の合戦” が火蓋をきった。
油川攻略の陰で行われていた、途轍もなく激しい戦である。




