虐殺 第三話
喧嘩ではない。これは命の取り合いなのだ。刀を鞘から抜き、光るところを互いに交じわらせ、力と力をぶつける。これに破れる者は無残にも斬り捨てられることは明白……。足場の悪さなど理由にならぬ。板間だろうが死人の上だろうが、それは当人に課せられた運命でしかない。ただし “運命” と申しても、その者が “籠る側” ならば、大浦兵を殺したところで五分十分しか違わぬ。それでも戦うのだ。何が為に、もう目的などどうでもよい。目の前の敵ならばひたすらひたすら……ひたすらに殺すだけ。この由緒正しき寺の中で争うのは不本意ながら、……もしやこの咎で、極楽浄土へは行けぬかもしれぬ。必死に南無阿弥陀仏を唱えても、この罪は償いきれぬのではないか……。ただし一つ言えることは、考える暇も与えられずに死に果てた者と比べれば、少しだけ幸せかもしれぬ。それだけのこと。
大浦の兵らは “死兵” と戦い続ける。“死兵” こそやっかいな者はなく、逃げ場が一切ないのだから恐れずに立ち向かってくるのは当然である。刀や槍を手に取りて、獣のような雄叫びを上げて、般若の形相で迫りくる。これには大浦兵もタジタジで、一応彼らには後ろに下がりさえすれば逃げ場はあるので、籠る者らと比べれば切迫感はない。ただそれでも ”ならず者” で兵に加わっている奴らは覚悟が異なるらしく、率先して前へ出て戦っている。同じように人間らしくない声を上げ、身なりがいかにも武装していない者でも斬り殺していく……。容赦がない。他国者ならば生きるための土地欲しさに、あぶれ者はその野蛮さが故、浄満寺の私兵と真正面……いや、一対一で刃を交えている時ならば、手柄を横取りしようと横から槍を入れてしまう不作法。味方の危険を顧みず、自らの火縄をぶっ放してしまう身勝手さ。
強いこと、この上ない。そのように譜代の大浦兵どもは関心しつつ……一抹の不安も覚える。もし彼らが大出世して互角の立場になれば……これまで繋がりのなかった我らを躊躇いなく落としていくのではないかと。現に軍師の沼田はそうだ。
ふと気づけば、畳や板間には踏み場もないくらいの息絶えた人の束。衣は破れ、その隙間からは鮮やかな血が伝い落ちる。壁を見れば、弧を描いた黒ずんだ線。障子は破れ、仏像は倒され、争う声はなくなった。その代り蔵を暴き、物置の中身を取り上げ、経文など金目になりそうなものを悉く奪っていく。女で生き残っている者いれば、これも我が物とす。
これにて浄満寺は敗れた。建物が荒れ果てたのはもちろんのこと、為信に逆らったということで誰も寺を建て直せず。結局は三十四年後、元和五年(1619)の再興を待つことになる……。




