第五章 峠の向こうへ
リンドヴァルを発ち、青々とした自然豊かな山道を歩く。峠の向こうへ向かう途中、フィーが徐に口を開いた。
「あの、ラルク」
「なんだ?」
「ラルクは……どうして旅を始めたんですか?」
アイスブルーの瞳は興味津々とでも言うかのように輝いて見つめてくる。
「どうしてって……」
……回答に悩む。俺の旅の始まりは、そんなに良いものではない。
外の世界に憧れて――なんて平和ボケした理由ではない。旅をする他、選択肢が無かった。ただそれだけの話。
ましてフィーに聞かせた所で〝楽しい話〟でもない。……俺は、言葉を選んで口にする。
「……成り行きだ」
「成り行き……ですか?」
「あぁ。……なんだよ急に」
隣を歩くフィーに視線を向ければ「いえ……ずっと、気になっていて……」と、視線を落とした。
今思えば、俺自身の事をフィーに話していなかった。どんな目的があり、旅をしているのか。
気になっても仕方ない。ただ――あの”地獄”の多くを語りたいとは思えない。
「…………。俺は……強くなって……超えなきゃいけねえ奴がいる。それだけだ」
「超えなきゃいけない……やつ……」
フィーは不思議そうに呟いた――その時。
森の中からふわりと漂ってきた香りに、足が止まる。ほのかに香る甘い匂い。俺は、この匂いを知っている。
「ラルク? どうされました?」
辺りを見渡し、鼻を鳴らして匂いの元を辿る。やがてもう一度、ふわりと漂ってきた風の便りに確信を得る。
「こっちだ、フィー!」
「え? えっ⁉ ラルクっ……⁉」
俺はフィーの手を引っ張り、そのまま駆け出した。心なしか尻尾が軽い。
匂いを頼りに道なき道を走り、目の前の邪魔な草を退ければ樹高二メートルほどの、やや背の低い木がひっそりと生えていた。大きめの葉に、橙色の小さな実が沢山実っていた。
「……あった!」
木の根元に行けば、甘い香りが漂ってくる。俺は思わずごくりと、唾を飲み込んだ。
「ラルク、こちらの実は……?」
「ベルナの実って奴だ」
「ベルナの実……? 見た目はルヴィナの実によく似ていますが……」
フィーはベルナの実を眺めながら首を傾げた。ルヴィナの実は見た目こそは似ているものの、サイズ感が違って一つの実が大の大人の手のひらぐらいある。価格も高価で、市場に出回りやすい。金持ちが好き好んで食べてそうな実――と言えばルヴィナだろう。
一方でベルナの実はというと――
「見た目は確かに似てるが、ルヴィナのばったもんだ」
「ばったもん……?」
「おう、ベルナの実はルヴィナと違ってとにかく人気がねぇ!」
びっくりする程、人気がない。勿論、決して不味い訳でもない。
「に、人気が……ない……のですか?」
「おう、タネも多いし可食部は少ねえ。だから市場にも出回らねぇし、誰も取らねぇ。その癖甘いし汁多いし実が多い。……つまり、タダで腹一杯食える!」
――そう、重要なのは、タダで腹一杯食える事だ。
目の前にご馳走があって取らないなんて、男が廃る。フィーの手を離し、軽快に木登りすればすぐに手が届く。
かと言って一粒ずつちまちま取ってたらキリがねぇので、多くの実がなっている枝を一本切り落とせばフィーの近くにどさりと落ちた。
まさに大収穫だ。早く食べたくて浮き足立つ。
木から飛び降り、切り落とした枝から一粒実をもぎ取ると、適当に皮を剥いて口に放り込む。
「…………‼‼」
一度噛めば口の中に甘い果肉の味と果汁が溢れ出す。そして硬い筋と大きな種だけ吐き出せば、食べにくさも気にならない。ただ――食い終わる頃には口ん中がゴミ箱みてぇになる。
まあ、美味いんだから細けぇ事はどうでもいい。硬い筋と大きな種だけ吐き出して、また次の実を口に放り込む。
「うめぇ……‼」
「まぁ……!」
フィーは俺の様子を観察しながら目を丸くする。実自体は腐る程あるんだ。
独り占めするつもりはない。比較的大きめの奴を一つ毟り取ってフィーに渡す。
「食ってみろ、美味いぞ」
「はい」
卵程の大きさしかないが、フィーは丁寧に皮を剥いて口に運んだ瞬間。
「……‼ と、とっても甘くて美味しいです……!」
目を大きく見開いて顔を綻ばせた。
「だろ! こいつが、なんで――人気がねぇのか、俺にはいまいひ、よくわひゃらん」
むしゃむしゃしたら種をペッて吐き出す。その繰り返し。美味い美味い。無限に食える。
しかもタダで。毒がある訳でもない。可食部が少なく種が多い、もう一つ強いて言えばあまり自生していない。たったそれだけ。とは言っても人気が出たら出たで手に入らなくなるのも嫌だ。
知る人ぞ知る旅人のデザートだ。
「ふふふっ、ラルクはベルナの実がとてもお好きなのですね」
「あ? 別に好きってほどじゃねぇよ」
「…………? でも尻尾が……」
そう言ってフィーの視線は俺の背後へ。
「…………………………」
どうやら俺は無意識のうちに尻尾を揺らしていた……らしい。無性に気恥ずかしさが襲う。
「……見るな」
「ふふふっ」
「見るなっての‼」
その愛らしいものでも眺めるかのような生暖かい目をやめろ……‼
「私、ラルクの好きなものもっと聞きたいです!」
丁寧に皮を剥いたベルナの実を口元に差し出される。……くそ、賄賂って事か……⁉
フィーの奴は完全に面白がっていて、ニコニコしながらベルナの実を口に放り込んで来やがる。こいつ……! 見かけによらず意外と圧が強え……‼
「ゔ……!」
「ラルクの好きなものは、ベルナの実とお肉ですよね? 他にありますか?」
――は? ちょっと待て。今聞き捨てならねぇ事を言われたぞ。
「俺、肉が好きなんて一言も言ってねぇぞ⁉」
本当に一言も言ってないはずだ。言ってないはずなのだが――フィーの顔には確信してると言いたげな表情だ。
「お肉を食べる時、ラルクの尻尾は嬉しそうなのですっ」
「⁉ だぁあッ! 見るなよ‼ 何処見てんだ‼」
「ふふふっ、ラルクの尻尾は素直なんですねっ」
微笑ましいものでも見るかのように笑うのがむず痒い。やめろやめろ見るな見るな‼
自分の尻尾をフィーの視線から隠すように抱え込んで、ガードする。
ひょっとしてずっと俺の感情が筒抜けだったって事か……⁉ ふざけんなよ……‼
「くそ、セクハラだぞ……ッ!」
「まぁ! でもラルク、本当に嫌な時は少し下がりますよね?」
「――なっ……⁉ やめろって‼ 観察すんじゃねぇよッ‼」
「ふふふっ!」
俺はただ、ベルナの実が食いてえだけだったのに……くそ……‼
楽しそうに笑いやがって……! 恥ずかしさもむず痒さもあるが怒るに怒れねぇのが余計に悔しい。一先ず、このむしゃくしゃした感情はベルナの実をたらふく食って忘れる事にしよう。
そう思った時だった。
――ぽつ、ぽつと空から水滴が落ち始めた。慌てて空を見上げれば曇天が覆い、今にも本降りになりそうだ。
「――まずい、雨だ……‼」
山は天候が変わりやすい。悠長にベルナの実をむしゃむしゃ食ってる時間はなさそうだ。
「一旦これ羽織ってろ! 急いで雨宿り出来る場所探すぞ……‼」
「わっ! は、はい……!」
一先ずフィーには上着をぶん投げておき、ベルナの枝を担ぎ上げ、手を取って走り出す。
◆
雨脚は、思ったより早く強くなった。
木々の隙間から空を見上げても、灰色の雲が山一帯を覆っている。
「クソ……! どっか雨凌げる場所ねぇのか……!」
足元の泥を蹴りながら進んでいると、少し先に妙に大きな岩影が見えた。岩――というより、山肌の一部がそのまま盛り上がったような塊。表面は苔に覆われ、所々から草木まで生えている。
「……なんだありゃ」
近付いてみれば、岩の下側が大きく張り出していた。人が二人入る程度なら十分に雨を凌げそうな隙間がある。丁度良い。今晩は長雨になりそうな予感もする。野営地にするならうってつけだ。
「フィー、あそこだ!」
「はい……!」
俺達は巨大な岩の下へ滑り込むように駆け込んだ。頭上では雨粒が激しく岩肌を叩いているが、それでも、この下まではほとんど届かない。
「……助かったな」
荒くなった息を吐きながら、改めて目の前の岩を見上げる。……にしても、でけぇ。
こんな形の岩、どうやったら出来るんだ……。濡れた箇所の水気を手で払い落としながら観察するが……大自然の神秘か。考えた所で答えは出ない。
一先ず――びしょ濡れになった身体の方をなんとかする。
頭から尻尾の先まで勢いよく振れば、振動が背中から腰、尻尾の付け根から先端まで波の様に伝わって水滴が飛ぶ。
「きゃっ……!」
「あ、悪ぃ」
ついでにフィーにも飛んだ。わざとじゃない。わざとじゃ……。
尻尾先端をもう一度振れば、水も滴るなんとやら――が解決する訳だが服に関してはそうはいかない。
俺は適当でも構わないがフィーは別だ。さっき取ってきたベルナの枝を薪代わりに、手早く焚き火の準備をする。
手近な所から石を拾い、手早く組み立てる。ベルナの実を全部回収してから枝を細かく折り、薪にしたら息を吹きかけるだけ。炎が葉に引火してあっという間に暖かな焚き火が出来る。
「フィー、先に服を乾かせ」
リンドヴァルで揃えて来た簡易マントが早速役に立つ番だ。使うだろ、と手渡せばフィーの目線は泳いでいた。
「えっ、えっと……、服を、脱ぐのですか……?」
「じゃなきゃ乾かねえだろ?」
「…………」
「…………あ、えーと……、俺はあっち向いてるから……!」
フィーが何を言わんとしたのかは良くわからないが、深く考えるのはやめておこう。
背を向ければ衣擦れの音が――いやいや、考えるな。俺のやるべきことはまず、濡れた衣服を何処に置くかを考える事だ。うん。俺は何も聞こえていない。やがて背後の衣擦れが止まった。
「……ラルク、もう大丈夫です」
「おう」
振り返れば、フィーは簡易マントを肩からすっぽりと羽織っていた。足元には脱いだ服が綺麗に畳まれている。
「貸せ」
「お願いします」
濡れた衣服を受け取り、焚き火から少し離れた場所に掛けていく。
火に近付け過ぎれば焦げるし、遠ければ乾かない。旅をしていればこの程度は嫌でも慣れる。
「……はい。でもラルクも早く乾かした方がいいです。もし風邪をひいてしまったら大変です」
「……分かった分かった、先にお前の乾かしてからな」
心配してくれるのはありがたいが、まずはずっと小さく震えてるフィーの方をどうにかすべきだ。服が乾くまで、ベルナの実でも食って待とう。そう思って近くに転がしておいたベルナの実を拾い上げた時だった。
「あの……ラルク……」
「んぁ?」
「ラルクの近くにいて良いですか……?」
「――――――」
……なんて?
近くに……? 焚き火の近くならちゃんと暖かい筈だ。わざわざ俺の近くに来る必要性が……
「ラルクの傍なら暖かそうなので……。だめ、ですか……?」
ゔっ……、上目遣いで見上げられるとちょっと落ち着かない。さっき体温が高いなんて口走っちゃったからなのか? わからねぇ……!
結局、暫く考えて出した答えは――「好きにしろ……」諦める事だった。
「……! ありがとうございます」
フィーは嬉しそうに隣に座ると、肩が触れ合うまでピッタリとくっ付いてきた。
……こいつ、無防備すぎねぇ……?
ちらりと視線を向ければ、雨に濡れて肌に張り付く髪。妙に火照った頬……。……いや、見るな俺。寒いから来るだけだ。そういう意味じゃねぇ。別に見ちゃいけねぇ訳じゃねぇけど、今はなんか……駄目な気がする。視界の端にちらつくフィオナに目を背け、膝の上に転がるベルナの実を押し付ける。
「……ベルナ、食え」
「え? あ……頂きます」
自分の思考を誤魔化すように、食べ始めた。
(……だめだ、なんか味しねぇ……)
それから服が乾くまで黙々とベルナの実を頬張っていたのだが、不意にフィーが口を開いた。
「――やっぱり、ラルクの隣は暖かいです」
「――――」
返事に困る。……なんて言えばいいんだ?
『そうか、良かった』 ……はなんか違う。
『お前近えんだよ』 これも違う。…………………………、言葉が出てこねえ
暫く考えた末になんとか絞り出した言葉は「……そうかよ」それだけだった。
気付けば身体の震えも止まっている。……ま、フィーが風邪を引かないなければそれで良いか。
「――さ、もう乾いただろ。服」
ちょっぴりフィーから逃げるように立ち上がって、服に触れる。……よし、ちゃんと乾いてる。
「ほらよ」
俺の上着ごと、フィーに投げて、今度は自分シャツを脱いだ瞬間――
「ピャッッ‼︎」
……ピャッ? なんか今、変な声聞こえなかったか?
「……なんだよ?」
「な、なんでもありません……っ!」
「はぁ?」
「ら、ラルク……っ! ここ、こちらを見ないでください……っ!」
「なんでだよ……」
訳わかんねえ……。顔を手で覆う割にはしっかり見てるし、その癖目は泳ぎっぱなし。
明らかに挙動不審。……なんか……俺の体に変なものでも付いてるか……?
自分の身体を眺めてみるが――しっかり鍛えられた筋肉に身体中に残った古い傷跡。多少着痩せするぐらいで、特別変わった事はない。
「フィー」
「わ、私は何も見ていません……っ!」
「まだ何も言ってねぇよ……」
ダメだ。訳がわからん。まぁ良いや、フィーの挙動不審は放っておく。自分の服を乾かす分には適当でいい。簡単に水気を絞って、適当に放っておけば乾くだろ。なんならそのまま寝ちまってもいいぐらいだ。竜族が寒さで風邪を引くなんて聞いた事ねぇからな。
――それにしても、この岩山は不思議な感覚だ。雨宿りに逃げ込んでからずっと気になっていたが、周囲に獣の気配も無ければ、虫も少ねえ。有り体に言えば、妙に落ち着く。
何とも言い難いが……何かに守られている様な、そんな感覚に近い。
(ただの岩山……なんだけどなぁ……)
それからどれくらい経っただろうか。
気付けば辺りはすっかり暗くなり、岩の外では相変わらず雨音が続いていた。
隣に座るフィーに視線を向ければ、こくり、こくりと船を漕いでいる。
「……眠いなら寝ろよ」
「だ、大丈夫です……」
そう言った直後、またこくりと頭が落ちる。全然大丈夫じゃねぇ。
「無理すんな。今日はもうここで寝るぞ」
「……はい……」
返事もどこか夢見心地だ。普段なら交代で見張りを立てるか、少なくとも俺だけは浅く眠る。
山の中なら尚更だ。けれど今夜に限っては、不思議とその必要を感じなかった。
獣の気配もない。虫の音すら少ない。
ただ雨が岩肌を叩く音と、焚き火の薪がぱちぱちと爆ぜる音だけが静かに響いている。
「……ま、ここなら大丈夫だろ」
大きな欠伸を一つ零して、そのまま岩肌に背を預ける。雨音と焚き火の音が、妙に心地良い。
瞼を閉じれば、さっきまで残っていた疲れが一気に押し寄せてきた。
(……眠い)
そう思った時にはもう遅かった。俺はあっという間に、深い眠りへ落ちていった。
翌朝。
目を覚ますと、目の前ですやすや眠るフィオナの姿があった。
「…………なんで?」
何でこいつ目の前に居んの? というか……なんで俺の胸元にすっぽり収まってんの?
この場所が当たり前かの様に、呑気な寝顔を晒して。
「………………」
聞こえてくるのは穏やかな寝息。
無防備にも程がある。額を小突いて起こすべきか? いや、寝てるしな……。
このまま寝顔を眺めて後で弄り倒してやるか?
…………いや……、なんか……、俺の心臓が持たない。
何だこれ、どうしたらいいんだ。
翌朝。目を覚ますと、目の前ですやすや眠るフィオナの姿があった。
「…………なんで?」
何でこいつ目の前に居んの? というか……なんで俺の胸元にすっぽり収まってんの?
この場所が当たり前かの様に、呑気な寝顔を晒して。
「………………」
聞こえてくるのは穏やかな寝息。無防備にも程がある。額を小突いて起こすべきか? いや、寝てるしな……。このまま寝顔を眺めて後で弄り倒してやるか?
…………いや……、なんか……、俺の心臓が持たない。何だこれ、どうしたらいいんだ。
迂闊に動けば起こしそうだし、かと言ってこのままというのも落ち着かない。
胸元に感じる柔らかな重みと、規則正しい寝息がやたらと意識に入ってくる。
「…………」
……いや、なんで俺がこんなに緊張してんだよ。そんな事を考えていた時だった。
「ん……」
フィーが小さく身じろぎする。そのまま俺の胸元へ、もう少しだけ身体を寄せてきた。
いや、だからなんで近付いてくんだよ……! 無意識なのか。寝ぼけてんのか。
どっちにしろ、こいつ本当に警戒心ってものがねぇのか……?
やがて長い睫毛が僅かに震え、ゆっくりと瞼が開いた。アイスブルーの瞳が、至近距離で俺を映す。
「………………おはようございます、ラルク」
「〜〜~~……ッ!」
いや違う。
「――おはようございます、じゃねぇよ。なんでお前ここにいんだよ」
「……?」
フィーはまだ眠たそうな顔で首を傾げた。
「なんでって……ラルクが好きにしろと仰ったので……」
「はぁ? 俺がいつそんな事――」
そう言いかけて、昨日の事を思い出す。
『ラルクの近くにいて良いですか……?』
『――好きにしろ』
……言った。確かに言っていた。
「いや……、あれは近くにいていいかって話だろ⁉」
「はい。ですから、好きにしました」
「〜〜〜〜〜ッ‼」
俺の胸元にすっぽり収まっておいて、何を当然みたいに言ってんだこいつは……‼
「ラルクのお傍は安心するので……よく眠れました」
「ゔっ……!」
怒るに怒れねぇ……ッ‼ 何だよこれ、どう答えるのが正解なんだよ……‼
考えれば考えるだけ頭が痛くなってくる……‼ ……くそっ‼
「あ”〜〜もういい……ッ‼ もう、好きにしろ……‼」
「ふふふ、はいっ」
俺は何もかも考える事を放り投げた。もうこうなりゃヤケクソだ。嬉しそうに微笑むフィーを見て、俺は盛大に頭を抱えた。こいつの考える事わっかんねぇえ……‼
◆
長雨も無事に去り、俺達は荷物をまとめて旅を再開した。
雨上がりの湿った匂いが残る山道を歩いていると、前方に立ち往生している荷車が見えた。
「……なんだありゃ」
視線を凝らして見れば、車輪が泥に深く嵌まり込んでいる。昨晩の長雨のせいか所々泥濘んでいる場所もあったから仕方ない。荷車の主――農家の爺さんが、うんうん言いながら荷車のケツを押しているがびくともしない。馬も身動きが取れず困惑しているように見えた。
「まぁ……大変そうです……ラルク」
「見りゃわかるよ……」
フィーの方を見なくても「助けましょう」と顔に書いてあるのは分かる。
「おい、爺さん大丈夫か?」
荷車に近寄って声を掛けて見れば、年老いた爺さんは額から汗を流して「荷車が泥にハマっちまってねぇ……」と溢した。ただ後ろから押すだけなら簡単だ。
「爺さん、ちょっと端に避けてろ」
「いやぁ……悪いねぇ……」
爺さんが脇に退いたのを確認してから荷車のケツを軽く押してやると――ガタン、と音がして泥濘から車輪が離れた瞬間、馬が驚いて少し先に掛けて行った。
「おーーーい」
呑気な爺さんの呼び声で、馬はすぐに落ち着きを取り戻し、その場で一鳴きしてから足踏みを始めた。早く行こう、とでも言うかの様に。
「ほほほ、ありがとう、若いの。助かったよ」
腰の曲がった爺さんは嬉しそうに会釈をして歩き出した。
「お前さん達に助けてもらった礼をしないとなぁ……」
「礼なんか要らねえよ」
道すがら、たまたま見かけただけだ。礼をしてもらいたくて助けた訳じゃない。
それに――フィーが助けましょうという顔をしていたから。それだけだ。
「ほほほっ、お前さん達旅人じゃろう? どこに向かうんじゃ?」
「ネルカ村って所」
「ふむ、ネルカ村……。なら、途中まで乗ってお行き」
「――良いのか?」
「おお、構わんよ」
爺さんは馬の鼻先を優しく撫でると、手慣れた動きで背に跨り微笑んだ。
「これぐらいしか出来んが、許してな若いの」
それから荷台に乗って、のんびりと揺られながら道を行く。
こりゃ楽で良い。爺さんが言うにはネルカ村へは近道があるとの事で、そこまで送ってくれるらしい。
「悪いな爺さん。食い物まで貰っちまって」
余ってるから、と渡されたリンゴンの実。市場でよく見かける赤い果実だ。一口齧ればシャキシャキとした瑞々しい食感が広がる。
「ありがとうございます。お爺様」
「ほほほ、お爺様は照れるなぁお嬢ちゃん」
爺さんは一頻り笑った後、「お嬢ちゃんのような良い子が、どうして旅をしているんじゃ?」と聞いてきた。……まぁ、気になるよな。普通。フィーの見た目からして明らかに旅慣れてない。
言葉遣いはやけに丁寧だし、身を守る道具さえ無けりゃ、俺みたいな訳ありと一緒に居れば疑問を抱いても無理はない。
「えっと、私の故郷を探しています……!」
荷台に揺られながらフィーが楽しげに答えた。
「故郷? お嬢ちゃん故郷を探しているのかい?」
「はい。あの、お爺様、エルヴァリスという国はご存知ですか?」
「エルヴァリス……、…………うーん……。聞いたことがないのう……」
「まぁ……そうですか……」
「……けど、ちゃんと見つかると良いの」
「……! はい!」
――俺は口を挟まない。荷台の揺れが心地いいから。馬の蹄の音に、藁の匂いと果物の香り。
こんなに穏やかな旅は久しぶりだ。フィーが楽しげに爺さんと喋っているのを聞きながらのんびりと揺られて進む。
◆
それから暫く荷台に揺られていると、やがて道は二手に分かれた。爺さんは馬をゆっくり止めると、振り返って片方の道を指差した。
「ネルカ村へ行くなら、ここから右じゃ。山道を道なりに進めばそのうち見えてくるよ」
「悪いな爺さん。助かった」
「えぇんじゃよ。わしはこの先、反対の道じゃからお前さん達をちゃんと送っていけなくてすまないね」
俺とフィーは荷台から降り、荷物を背負い直した。
「ありがとうございました、お爺様」
「ほほほ、こちらこそ助かったよ。久しぶりに賑やかな道中じゃった」
爺さんはそう言って穏やかに笑うと、手綱を握り直した。馬が小さく鼻を鳴らし、ゆっくりと歩き出す。
「それじゃあ、若いの――夕暮れ龍の加護が在らんことを」
「――おう、さんきゅーな」
そう言って爺さんはのんびりと荷車を走らせて行った。
遠ざかっていく荷車を見送り、再び歩き出そうとした時、フィーが俺の手を引いた。
「あの、ラルク……?」
「なんだ?」
「お爺様が言っていた夕暮れ龍のご加護……とはなんでしょう?」
聞き慣れない言葉に、フィーが不思議そうに首を傾げていた。
「あれは俺も詳しくは知らねぇが、旅人にかける古いまじないみてぇなもんだ」
「まじない……?」
「あぁ。旅人が迷子になったら夕暮れ龍が助けてくれる、って内容だったはずだ」
実際にその夕暮れ龍とやらが居たという話は聞かない。どこから発生した言葉なのかも分からない。ただ一つ言えるのは、旅人の安全を願ってくれている言葉だという事だけだ。
「夕暮れ龍……。素敵ですね。いつか見てみたいです!」
「実際に存在してるかも分からねぇのにか?」
「それでも、ラルクと一緒に見てみたいです……!」
「………………はぁ、ま、機会があったらな」
そう言って俺は改めて右へ続く道へ視線を向けた。この先に、ネルカ村がある。
そこに妖精族がいるかどうかも、俺達の探している答えがあるかどうかも分からない。
それでも――行ってみなきゃ始まらねぇ。
「行くぞ、フィー」
「はい!」
俺達は再び歩き出した。峠の向こう――次の目的地、ネルカ村を目指して。
第五章 峠の向こうへ 完




