第三章:お月さまが泊まる二十八の「ホテル」
「陽菜、もみじの葉が月の光に透けて、まるで小さな赤い手が空を仰いでいるみたいだね。秋の夜長は、知らず知らずのうちに足元から冷えが忍び寄ってくる。さあ、熱いほうじ茶を淹れ直したよ。湯気でお鼻を温めながらお聞き」
おばあちゃんの嘉代子は、朱色に染まった庭の景色を愛おしそうに眺め、陽菜の湯呑みに香ばしい茶を注ぎ足しました。縁側の外では、鈴虫の声が水晶のように澄んだ響きで夜気に溶け込んでいます。
「空がお役所であること、そして動かない黄金の釘である北極星のお話をしたね。でもね、陽菜。夜空には、じっと座っている王様だけじゃなくて、毎晩旅を続けている『旅人』がいるだろう?」
陽菜は空を仰ぎ、薄く光る月を指差しました。
「お月さまでしょう? 毎晩形を変えながら、少しずつ場所を動いていくもんね」
「その通り。今夜はそのお月さまが、夜空という長い道のりで毎日一つずつ泊まっていく、二十八個の不思議な宿場町……『二十八宿』のお話をしようかね」
第三章:お月さまが泊まる二十八の「ホテル」
「『ホテル』って言ったけれどね、本当の名前は『宿』と言うんだよ。陽菜、この『宿』という漢字をよく見てごらん」
嘉代子は、縁側の乾いた床板の上に、指でゆっくりと文字を書きました。
「一番上の『うかんむり』は、お家……それも、ただのお家じゃなくて、神様やご先祖さまの霊を祀る立派な『霊廟』の屋根の形なんだよ。
その中にあるのは『人』。そして隣にある『百』という字は、もともとは数字じゃなくて、藁を丁寧に編んで作った『むしろ(敷物)』を表しているんだ 。
つまり、神聖な建物の中で、清潔なむしろを敷いて人が横たわっている姿……。それが『宿』という文字の本当の成り立ちなんだね」
「お月さまも、夜空でゴロンって横になって休むの?」
「ふふ、そうだね。昔の中国の人たちはね、お月さまを孤独な旅人だと思ったんだ。
お月さまが星々の間を移動する道筋に、一夜の安らぎを与える二十八枚の敷物を広げた。
それが二十八宿なんだよ。
面白いことにね、『宿』という字とよく似た『寝』という字があるけれど、こっちには『箒』を表す記号が入っているんだ。
お部屋を綺麗に掃除して、ふかふかのベッドで寝るのが『寝』。
それに対して『宿』は、ただ屋根とむしろがあるだけの、もっと素朴で、それでいて神聖な規律に守られた場所なんだよ。お月さまは毎晩、天の停留所で静かに羽根を休めているんだね」
陽菜は「神聖なホテル……。なんだか、お月さまがかっこいい巡礼者みたいに見えてきたよ」と、月光に照らされた庭のもみじを見つめました。
「でもおばあちゃん、どうして二十八個なの? 中途半端な数じゃない?」
「それはね、お月さまが星々の間を一回りして、元の場所に戻ってくるまでの時間に関係があるんだ。
お月さまが天球を一周するのにかかるのは、だいたい二十七日と少し(約27.32日)。
この端数を切り上げて、一日一宿、合計二十八個の『ホテル』を定めたんだよ。
この二十八の宿場町はね、ただの休憩所じゃなかった。
地上の人たちにとっては、生きるために欠かせない『天の時計』でもあったんだ」
嘉代子は、湯呑みから立ち上る湯気をそっと吹き払いました。
「たとえば、二十八宿の最初のホテルである『角宿』。これはおとめ座のスピカという、美しく青白い星を含んでいるけれど、春の初め、夕暮れの空にこの角宿が東の地平線から昇ってくるのを見て、昔の農民たちは『さあ、大地が目覚めたぞ、種まきの準備をしよう』と決めたんだ。星の位置が、一年の始まりを告げる目覚まし時計だったんだね」
「星を見て、お仕事の時間を決めていたんだね。じゃあ、今の秋の時期はどうなの?」
「いい質問だね。秋には、さそり座のアンタレスを含む『心宿』という、真っ赤に燃える星のホテルが大切になるんだ。中国の古い詩には『七月流火』という言葉があってね。これは、旧暦の七月……今の八月の終わりから九月にかけて、この赤い『心宿』が夕方の空で西へ流れ落ちるように沈んでいく様子を表しているんだよ。
その火が流れるのを見て、人々は『過酷な夏が終わる。急いで秋の収穫をして、冬の備えをしなきゃいけない』と、身を引き締めたんだね」
嘉代子は、陽菜の手をそっと取り、自分の胃のあたりに当てさせました。
「陽菜、今お腹はどんな感じだい? 熱いほうじ茶を飲んで、少しポカポカしているだろう?」
「うん、なんだか体の芯がじんわり温かい感じ」
「それが大切なんだよ。昔の人はね、天に『二十八宿』という整った星の巡りがあるように、私たちの身体の中にも一つの宇宙(小宇宙)があると考えていたんだ 。
外の空気が冷えてきても、内側の火を絶やしてはいけない。ほうじ茶はね、茶葉を強火で煎ることで、血管を広げて血の巡りを良くする『ピラジン』という香りの成分が生まれるんだよ。
これで、弱った胃腸を内側から優しく救ってあげる。夜空の星が秩序正しく回るように、自分の身体の内側という『宿』も、温かいお茶で正しく整えてあげる……。
これもまた、妙見さまが教えてくれる『不動の軸』を自分の中に持つための、大切な智恵なんだよ 」
陽菜は、夜空の「月のホテル」と、自分の身体の中にある「内側の宿」が、香ばしいお茶の香りで繋がっているような、不思議な安心感に包まれました。
「名前が『妙見菩薩』になるずっと前から、人々はこうしてお茶を啜り、星の動きに耳を澄ませながら、自分の命を慈しんできたんだよ。
さあ、次は……この二十八のホテルを七つずつにまとめた、大きな四匹の守護獣のお話をしようかね」
陽菜は「四匹の怪獣!」と目を輝かせ、おばあちゃんの次の言葉を待つために、再び湯呑みを両手で大切に抱え込みました。
もみじの影が、二人の足元で静かに揺れていました。
(第三章 完)




