柊の名を冠する場所
――目が覚めた。
最初に目に入ったのは、見慣れない天井だった。
「……ここ、どこ?」
体を起こそうとした瞬間、全身に鈍い痛みが走る。
「痛っ……!」
何が起きたのか、思い出そうとする。
神社。椿。小梅。そして、手に握られていた刀。
銀色の刀身。桜の花を模した鍔。淡い桃色の柄。
あれは夢だったのだろうか。
「お、起きたか」
声のした方を向くと、椿が椅子に座ってこちらを見ていた。
「……椿さん?」
「だから椿でいいって。ったく、丸一日寝てやがったぞ」
「丸一日!?」
「ええ。かなり無理をさせてしまいましたから」
扉の方から小梅が入ってくる。
「……無理をさせたって、どういうことですか?」
桜が尋ねると、椿は少しだけ気まずそうに目を逸らした。
「いやー……まあ、ちょっと張り切りすぎたっつーか」
「ちょっと?」
「……」
「……」
「……ごめん」
椿が素直に頭を下げた。
その様子に、桜は思わず拍子抜けする。
「えっと……昨日のこと、説明してもらえますか?」
「もちろんです」
小梅は椅子を引き、桜の前に腰を下ろした。
「まず、ここは私たちが所属している組織の拠点です」
「組織……?」
「柊会。付喪神に関わる事件や、人間との間に起こるトラブルを扱っています」
桜は黙って聞いていた。
付喪神。
その言葉を聞くと、昨日の刀が頭に浮かぶ。
「……あの刀も、付喪神なんですか?」
「ええ。あなたが変化させたものです」
「変化……」
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥に誰かの声が響いた気がした。
『……随分と物騒な目覚め方ね』
「……え?」
「どうしました?」
「いえ……何でもないです」
桜は首を傾げた。
気のせいだったのだろうか。
そのとき、廊下から複数の足音が聞こえてきた。
扉が開く。
そこに立っていたのは、見知らぬ数人の男女だった。
「……この子が?」
「そう。昨日、桔梗を変化させた子」
「信じられん」
桜の胸がざわつく。
「……桔梗?」
聞き慣れない名前だった。
しかし、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が僅かに疼いた。
「ブレスレットを渡してもらう」
男の一人が言った。
「え?」
「その力はお前には過ぎたものだ。柊会で管理し、然るべき者に継承する」
「ちょっと待ってください!」
桜は反射的に手首を押さえた。
「これは母の形見です!」
「それがどうした」
「……っ」
「力を扱えるかどうかと、持つ資格があるかは別だ」
その言葉に、桜は何も言い返せなかった。
昨日まで何も知らなかった自分。
たまたま刀を出せただけ。
それなのに、この人たちは自分の知らない何かを知っている。
「……やっぱり、私には分からない」
桜は俯いた。
「付喪神とか、変化とか……柊会とか。何も知らないです」
そして、ゆっくり顔を上げる。
「でも――」
手首のブレスレットを握りしめる。
「これだけは渡せません」
その瞬間、部屋の空気が変わった。
「……反抗する気か?」
誰かが一歩前に出る。
桜は思わず身を固くした。
「反抗って……私はただ、母の形見を渡したくないだけで……」
「それが問題なのだ」
別の男が口を開いた。
「そのブレスレットは、かつて柊会の中でも特別な扱いを受けていたものだ。お前の母親が亡くなり、それが何も知らないお前の手に渡った」
「……」
「我々は、その力を失うわけにはいかん」
桜は唇を噛んだ。
母の形見。
それを、まるで危険な道具のように扱われている。
「……私が、何も知らないからですか?」
「そうだ」
「何も知らない人には、持つ資格がない?」
「少なくとも、今のお前にはな」
その言葉に、桜の胸が痛んだ。
母のことを何も知らない。
母が何をしていたのかも。
なぜ死んだのかも。
そして、このブレスレットが何なのかも。
でも――
「……それでも、これは私の母の形見です」
桜はもう一度、手首を握りしめた。
「私が何も知らないからって、勝手に取り上げていいものじゃないと思います」
男が眉をひそめる。
「……お前は、何も分かっていない」
「分かってないですよ!」
桜は思わず声を荒げた。
「分かってないから、教えてほしいんです!」
部屋が静まり返る。
「母が何をしていたのか。どうしてこのブレスレットを持っていたのか。私が何を知らないのか……全部、教えてください!」
桜の声は震えていた。
「でも、だからって……母の形見を、はいどうぞって渡せるわけないじゃないですか……!」
誰も答えなかった。
そのとき――
「……まあ、待ちなさい」
廊下から声がした。
先ほどまでとは違う。
不思議なほど落ち着いた声だった。
部屋にいた全員が一斉に振り返る。
一人の女性が、ゆっくりと部屋へ入ってくる。
「……梓さん」
小梅が小さく呟いた。
椿も、先ほどまでの態度とは違い、黙ってその女性を見る。
「随分と物騒な話をしているじゃないか」
「しかし、この娘は――」
「分かっているよ」
梓は桜を見る。
しばらく何も言わず、ただ静かに桜を見つめていた。
「青葉桜……だったね」
「……はい」
「一つ聞かせてほしい」
梓は、桜の手首へ視線を向けた。
「もし君が――人を殺めることのできる力を持っていたとしたら」
桜は息を呑んだ。
「君は、その力をどうする?」
「……」
すぐには答えられなかった。
怖い。
そんな力を持つことなんて考えたこともない。
ましてや、人を傷つけるために使うなんて。
けれど。
桜の脳裏に母の姿が浮かんだ。
自分を笑わせてくれた母。
自分を叱ってくれた母。
そして――もう二度と会えない母。
「……私には、そんな力を使える自信はありません」
梓は黙って聞いている。
「でも……」
桜は手首のブレスレットを見つめる。
「もし、本当に私にそんな力があるなら……」
ほんの少しだけ、声が震えた。
「誰かを殺すためじゃなくて」
顔を上げる。
「殺されてしまう誰かを、守るために使いたいです」
静寂。
誰も何も言わなかった。
やがて――
「……はは」
梓の口元が緩む。
「はははははっ!」
突然、楽しそうな笑い声が部屋に響き渡った。
「なるほど! そういう答えか!」
梓は愉快そうに笑いながら桜を見る。
「気に入った!」
「え……?」
「力を持つことより、力を何のために使うか。それを自分の言葉で答えた」
そして、梓は振り返る。
「……で、評議会はどうするつもりなんだい?」
男の一人が答えた。
「桔梗は回収する。これは決定事項だ」
「ほう」
梓は少しだけ首を傾げた。
「決定事項、ねぇ」
「柊会の運営に関わることです。柊家のあなたが口を挟むことでは――」
「……ああ、そうかい」
梓は笑った。
その笑顔は、先ほどまでのものとは少し違っていた。
「じゃあ、聞かせてもらおうか」
梓は桜を見る。
「この娘が、桔梗を変化させたことについて」
「……」
「お前たちは、どう考えている?」
男たちは顔を見合わせた。
「……能力があることは認める。しかし、それだけで柊会に迎え入れる理由にはならん」
「なるほど」
「桔梗は強力な付喪神だ。扱える者を選ぶ必要がある」
「……」
「この娘が、桔梗を扱うにふさわしいかどうかは、まだ分からない」
梓は少しだけ考えた。
「……まあ、そうだね」
そして、桜を見る。
「ならば見せてもらおうじゃないか」
「……何を?」
「その力を――能天気な君が、本当に使いこなせるのかをね」
梓が振り返る。
「この娘を柊会に迎える」
部屋にいた者たちから、ざわめきが起こる。
「梓さん、それは――」
「……反対意見は?」
誰も答えない。
いや――答えられない。
椿は口元を吊り上げ、小梅は小さく息を吐いた。
「……まあ、こうなる気はしていましたけどね」
桜だけが、何が起きているのか理解できずに呆然としていた。
「え、あの……私、まだ何も……」
「いいじゃないか」
梓は笑った。
「これから知っていけばいい」
桜は、手首のブレスレットを見つめた。
母から受け継いだ、小さな形見。
それが、これから自分をどこへ連れていくのか。
まだ、何も分からない。
ただ一つだけ分かったことがある。
昨日までとは違う世界が、自分の目の前で動き始めた。
そしてその中心には――
この小さなブレスレットがあった。




