浅層の日常、金属疲労と蜘蛛の糸
翌朝、裏路地にある安宿の硬いベッドで目を覚ました。
窓の外からは、活気にあふれるテンペストの朝の喧騒が聞こえてくる。ASIが生成するこの世界の環境音は完璧で、遠くで荷馬車が軋む音や、露天商が声を張り上げる響きまでもが、極めて自然に鼓膜を揺らす。
銅貨1枚の黒パンと薄いスープで腹ごしらえを済ませると、俺は昨日と同じ薄汚れた革鎧を身に纏い、再び迷宮へと足を向けた。
「今日は第4階層まで足を伸ばしてみるか」
第3階層のアーマービートルも悪くないが、少し狩り尽くされてリポップ(再出現)待ちの時間がもったいない。第4階層の主役は「洞窟蜘蛛」だ。
暗がりから不意打ちを仕掛けてくる厄介な相手だが、こいつの落とす「粘糸」と「毒腺」は、錬金術師や裁縫師のNPCたちにそこそこの値で売れる。
迷宮の転移陣を抜け、第4階層へ。
空気が一段と湿り気を帯び、カビと土の匂いが鼻をつく。松明の灯りが届かない通路の隅には、ねっとりとした蜘蛛の巣が張り巡らされていた。
「シャアァァッ!」
頭上の暗がりから、岩のように巨大なケイブスパイダーが落下してきた。同時に、白く濁った粘糸が俺の退路を塞ぐように吐き出される。
「っと、危ねえな」
普通の冒険者なら、松明の火で糸を焼き払うか、魔法で吹き飛ばすところだ。だが、魔力を持たない底辺の俺にはそんな芸当はできない。
俺は腰からなまくらな鉄剣を引き抜き、すぐさま念じた。
「起動――ユニークスキル『振動者』」
キィィィィン……!
微細な振動を始めた剣を、迫り来る粘糸に向けて無造作に振り抜く。
本来なら剣ごと絡め取られてジ・エンドだが、超高速で振動する刃は、摩擦熱と微細な断裂によって粘着質の糸を容易く「溶断」した。
糸を断ち切られたスパイダーが、八つの赤い複眼を明滅させて着地し、毒牙を剥き出しにして突進してくる。
相手は素早いが、動きのパターンは底辺冒険者を長くやっている俺にはお見通しだった。
「ほらよっ」
大振りの前脚を半歩下がって躱し、硬い甲殻で覆われた頭部ではなく、装甲の薄い脚の関節部分を狙って振動剣を押し当てる。
ギゴゴゴッ!
嫌な音とともに、硬質な関節が振動によって削り取られ、スパイダーが体勢を崩した。すかさず、柔らかい腹部へと刃を突き立てる。
断末魔の痙攣ののち、巨体はポリゴンとなって消滅し、床には目当ての「粘糸」と「毒腺」が転がった。
「よし、一丁上がり……っと」
安堵の息を吐きながら剣の振動を止めると、手元から「チリッ」という嫌な音がした。
刀身を見ると、刃の根元にうっすらと亀裂が入っている。
「……また金属疲労か」
『バイブレーション』は便利だが、代償がある。ただでさえ質の悪い安物の鉄剣が、毎秒数万回の振動に耐えられるはずもなく、すぐにガタが来てしまうのだ。名工に作ってもらったミスリルやオリハルコンの剣なら耐えられるのだろうが、そんなものを買う金があるなら、そもそもこんな浅層で泥水はすすっていない。
「今日の稼ぎの半分は、また新しいなまくら剣の代金に消えそうだな」
苦笑しながらドロップ品を麻袋に詰め込んでいると、通路の奥から足音が聞こえてきた。
きらびやかな魔法の武具を装備した、いかにも高レベルなNPCの冒険者パーティーだ。彼らは俺のような底辺には目もくれず、迷宮のさらに奥、魔王の眷属たちが待ち受ける下層への階段へと颯爽と向かっていく。
俺は通路の壁際に寄り、彼らの邪魔にならないように道を譲った。
羨ましいとは思わなかった。彼らには彼らの、英雄としてのアルゴリズムがある。そして俺には、俺だけの泥臭い日常がある。
亀裂の入った鉄剣を鞘に収め、俺は再び薄暗い通路を歩き出した。
あと3匹。3匹スパイダーを狩ったら、今日は上がろう。そして昨日の酒場に行って、今度はエールと一緒に、少し奮発してドワーフ風の煮込み料理を頼むんだ。
平和すぎる仮想世界の、薄暗い迷宮の浅層。
誰にも知られることのない俺の冒険は、今日も地味に、そして確かに続いていく。




