仮想のテンペスト、泥濘の迷宮生活
シンギュラリティを迎え、人工超知能(ASI)が完璧なフルダイブ型仮想現実を構築した時代。人々はそれぞれのユートピアへと旅立った。
俺が選んだのは、かつて愛読した『転生したらスライムだった件』の世界。それも、大魔王リムル=テンペストがすべての脅威を退け、完全なる平和を築き上げた「物語完結後」のサーバーだ。
他プレイヤーの介入を一切シャットアウトし、高度なAIで駆動するNPCたちだけが暮らすこの箱庭で、俺は英雄になるつもりも、魔王の幹部と肩を並べるつもりもなかった。
俺の職業は、迷宮で日銭を稼ぐ底辺冒険者である。
浅層の日常
「ふぅ……今日も湿気てんな、第3階層」
魔国連邦テンペストの地下に広がる百階層の巨大迷宮。その最上部付近である第3階層の薄暗い通路で、俺はひんやりとした石壁に背を預けた。
下層に行けば行くほど、希少な鉱石や強力な魔物が落とす宝箱、そして莫大な富が眠っている。しかし、そこは龍や悪魔が跋扈する修羅の国だ。命綱である蘇生の腕輪があるとはいえ、痛覚設定をオンにしているこの世界で、わざわざ巨大な獣に噛み砕かれる趣味はない。
俺の狙いはあくまで低層。スライム、ジャイアントバット、そして目の前に現れたような、硬い甲殻を持つ大兜虫だ。
「ギシィッ!」
大顎を鳴らし、人間サイズの甲虫が突進してくる。
俺が構えたのは、テンペストの路地裏にある安武具屋で買った、刃こぼれだらけの「なまくらな鉄剣」だった。普通に斬りつければ、ビートルの硬い殻に弾き返されて腕が痺れるだけだ。
だが、俺にはこの底辺生活を支える一つの異能がある。
「起動――ユニークスキル『振動者』」
スキルを念じると同時、手の中の鉄剣が「キィィィィン」という微弱な、しかし極めて高い周波数の音を立て始めた。
刀身が目に見えないほどの速度で振動し、周囲の空気を震わせる。超音波カッターの原理だ。どれだけ安物の鉄剣であっても、このスキルを付与すれば一時的に名刀並みの切れ味を生み出すことができる。
俺は踏み込み、迫り来るアーマービートルの眉間に、振動する剣を真っ直ぐに突き立てた。
ズブォッ!
「ギ、ジ……ッ」
分厚い装甲が、まるで熱したナイフでバターを切るように容易く溶け、貫かれる。脳を破壊された魔物はポリゴンとなって砕け散り、後には小さな「魔素結晶」と、換金用の甲殻の一部だけが残された。
「よし、これで今日の宿代とメシ代はクリアだな」
魔素結晶を麻袋に放り込み、俺は剣の振動をオフにする。
派手な魔法も使えない。強力なユニークスキルが溢れるこの世界で、「ただ剣を振動させるだけ」の俺のスキルは、下層の強力な魔物相手には通用しないだろう。だが、こうして浅層でチマチマと日銭を稼ぐ分には、武器の修理代も浮く最高の相棒だった。
泥臭く、穏やかな夕暮れ
迷宮を出て冒険者ギルドの換金所へ向かうと、高度なAIを持つNPCの受付嬢が、いつものように愛想よく出迎えてくれた。
「お疲れ様です、レンさん。今日は第3階層ですか? 相変わらず堅実ですね」
「下層は怖いからな。俺にはこれくらいがお似合いさ。はい、今日の納品分」
「魔素結晶が20個に、甲殻が5つ。……はい、銀貨3枚と銅貨5枚になります。明日もお待ちしておりますね」
硬貨の重みと冷たさが、手のひらに心地よい。
仮想現実とはいえ、泥や汗の匂い、筋肉の疲労感は本物だ。ASIが演算する完璧な物理法則の中で、俺は確かに肉体労働の対価を得たのだ。
ギルドを出ると、テンペストの街は夕日に染まっていた。
大通りでは、ゴブリンやオーク、ドワーフたちが笑い合いながら屋台で串焼きを頬張っている。はるか遠く、小高い丘の上にはリムル様が住まう壮麗な館が見えた。あの館に俺が呼ばれることは一生ないし、それでいいと思っている。
俺は路地裏にある行きつけの安い酒場へ入り、銅貨をカウンターに置いた。
「親父、エールとオーク肉の串焼きを3本。タレで頼む」
「おう、今日も迷宮帰りか! 稼ぎはどうだった?」
「まあ、いつも通りボチボチだよ」
ジョッキに注がれた冷たいエールを喉に流し込む。
完璧な平和が約束された世界で、誰に急かされることもなく、ただ浅層の魔物を狩り、安い酒を飲む。泥臭くも確かな手応えのあるこの日陰の生活こそが、俺が望んだシンギュラリティ後の至福だった。




