第一章 第九部 ―― ロスト・リアリティ次元(6)
俺たちは再び旅を続けた。
森は先ほどまで以上に静まり返っていた。
巨大な樹木が空を覆い隠し、血のように赤い満月の光は葉の隙間からわずかに差し込むだけだ。冷たい空気には湿った土と朽ち始めた葉の匂いが混じり、足を踏み出すたびに微かな足音が静寂の中へ吸い込まれていく。
そんな中――
エリシアが一本の大樹の前で足を止めた。
幹の裏側には、木肌と一体化するように隠された透明な箱があった。
注意深く見なければ、その存在に気付くことすらできなかっただろう。
彼女は迷いなく箱を開く。
中には二振りの長剣が収められていた。
血色の月光を浴びて、鈍く輝いている。
次の瞬間。
そのうちの一本が俺へ向かって放り投げられた。
反射だった。
考えるより先に手が動く。
俺は柄をしっかりと掴んでいた。
ひんやりとした金属の感触。
重みはある。
だが不思議と手に馴染む。
磨き上げられた刃が赤い月明かりを映し返していた。
エリシアはもう一本を手に取る。
「なあ、いつの間にこんな剣を用意してたんだ?」
俺は剣を眺めながら尋ねた。
「リュウ様がここへ来る前からですよ。ずっと前から準備していました。サトおじさんにも手伝ってもらって、自分で作ったんです」
俺は思わず眉を上げた。
「この次元に剣を作る材料なんてあるのか?」
エリシアは小さく頷く。
「ありますよ。鉄も木も、食べ物も植物も育ちますから」
そう言って彼女は再び歩き始めた。
「この次元は完全な異世界ではありません。現実と幻想の境界にある場所なんです」
俺は隣を歩きながら耳を傾ける。
「ただ、私たちの存在は現実世界から認識されません。まるで幽霊みたいなものですね。今私たちが歩いている場所も、本当は現実世界に存在しているかもしれません」
彼女は空を見上げた。
「見える景色も変化しています。本来なら太陽が見えるはずの場所に、私たちには赤い満月が見えているんです。現実世界にも月はありますが、この世界ではそれが赤く染まっているだけなんですよ」
その説明に俺は黙り込んだ。
つまり――
この次元は本当に二つの世界の狭間に存在している。
存在しているのに、存在しない場所。
そんな矛盾した空間だ。
再び沈黙が訪れる。
聞こえるのは風の音と葉擦れだけ。
「エリシア」
「はい?」
「本当に……俺たちはコアを破壊できると思うか?」
「えっ?」
彼女が足を止めた。
眉をひそめる。
そしてゆっくり近づいてきた。
「リュウ様、どうしたんですか?」
温かな手のひらが額に触れる。
その温もりに一瞬息が詰まった。
「熱でもあるんですか? どうして男性なのに『本当にできるかな』なんて言うんです?」
からかうような口調。
だが笑顔から、本気ではないことは分かった。
「ほらほら、リュウ様。もうここまで来たんですよ? 何をそんなに迷ってるんですか?」
彼女の視線がまっすぐ俺を見つめる。
俺は目を伏せた。
サトの言葉が脳裏によみがえる。
約束したんだ。
エリシアには何も言わないと。
その時――
BRRRAAAKKK!!
大地が激しく揺れた。
「っ!?」
木々が大きく揺れ動く。
俺は体勢を崩し、エリシアもよろめいた。
反射的に彼女の腰を引き寄せる。
地面へ倒れる寸前だった。
だが――
DUAAARR!!
目の前の地面が爆発した。
黒い亀裂が四方へ広がる。
その奥から現れたのは、濃密な紫の瘴気を纏う巨大な存在だった。
姿は巨大なパンダに似ている。
しかし毛並みは夜の闇のような紫黒色。
真紅の瞳が妖しく輝き、長い牙が擦れ合うたびに不快な音を立てる。
黒紫のオーラが絶えず噴き出していた。
あれは――
アベラント。
エリシアは慌てて俺の腕から離れた。
頬がほんのり赤い。
「リュウ様、今のは隙を狙ったわけじゃないですよね?」
少し不満そうに視線を逸らす。
だが次の瞬間には剣を構えていた。
「剣の使い方、忘れてませんよね?」
俺は黙る。
正直に言えば――
使い方なんて知らない。
「リュウ様?」
彼女の目が鋭くなる。
「ぼーっとしないでください。気を抜いたらやられますよ」
全身が戦闘態勢へ切り替わっていた。
RAAAAGHH!!
アベラントが跳躍する。
踏み込んだ地面が砕けた。
凄まじい速度。
空気が悲鳴を上げる。
CLAAANG!!
エリシアが爪を受け止めた。
火花が飛び散る。
金属音が森に響いた。
「リュウ様! 今です!」
「うおおおおっ!」
俺は剣を振り下ろす。
SWIING!!
刃が空を裂いた。
だが――
アベラントは後方へ跳躍。
攻撃は空を切る。
「はあっ!」
今度はエリシアが突撃した。
華麗に身体を回転させながら剣を振るう。
目で追うのも難しいほどの連撃。
CLANG!
CLANG!!
CLANG!!
しかしアベラントは容易く爪で受け流した。
俺も駆け出す。
再び剣を振るう。
だが――
避けられる。
また避けられる。
そして次の瞬間。
アベラントは身体を丸めた。
一瞬で巨大な球体へと変貌する。
BRRRRRR!!
高速回転。
地面が削れ、石や土砂が吹き飛ぶ。
「えっ!?」
エリシアが目を見開く。
球体は彼女へ突進した。
間一髪で回避するが、衝撃で転倒する。
「リュウ様! 危ない!」
俺は振り向く。
視界に映ったのは――
紫色の残像だけだった。
アベラントはすでに目の前。
数十センチ先。
速すぎる。
避けられない。
その時だった。
世界が突然ゆっくりになった。
風の音が消える。
アベラントの呼吸だけが鮮明に聞こえた。
全身の筋肉が自然に緊張する。
恐怖ではない。
これは――
直感。
俺自身ですら知らない、本能。
気付けば足が地面を蹴っていた。
身体が高く跳ぶ。
空中で回転。
バク転――いや、宙返り。
自分でも驚いた。
こんな動き、覚えがない。
そして。
気付けばアベラントの真上にいた。
身体が勝手に動く。
剣を後方へ引き絞る。
全身の筋肉が一斉に収縮した。
そして――
SRRRAAAKK!!
雷光のような速度で落下する。
BOOOOOM!!
凄まじい轟音。
衝撃波が周囲の木々を薙ぎ払う。
大量の土煙が舞い上がった。
俺は何をした?
自分でも分からない。
やがて煙が晴れる。
俺は息を呑んだ。
アベラントの上に立っていた。
剣はその背中を貫き、地面へ深々と突き刺さっている。
アベラントは動かない。
次の瞬間。
身体に紫色の亀裂が走った。
ひび割れは全身へ広がり――
砕け散る。
無数の紫の光粒となり、風に溶けて消えていった。
俺は呆然と立ち尽くす。
今のは――
本当に俺がやったのか?
少し離れた場所で。
エリシアが完全に固まっていた。
口を半開きにし、目を丸くしている。
「わぁ……」
彼女は駆け寄ってきた。
「リュウ様、すごくかっこよかったです!」
「そ、そうか?」
俺は気まずそうに後頭部を掻く。
「さすが『HeavLyの伝説』ですね。強さも戦い方も、本当に素敵でした」
彼女は微笑んだ。
だが俺は――
自分の手のひらを見つめていた。
分からない。
危険を感じた瞬間。
身体が勝手に動いた。
まるで誰かに操られたように。
あの本能は――
一体誰のものなんだ?
風に消えていく紫の光粒を見つめる。
「よかったです。リュウ様がいてくれて」
エリシアがそっと俺の腕を叩いた。
「さあ、先へ進みましょう」
俺は静かに頷く。
だが胸の奥では、その疑問が消えなかった。
俺は――
一体何者なんだ?
◇ ◇ ◇
その頃。
ロスト・リアリティ次元の中心部。
巨大な紫色の光球が虚空に浮かんでいた。
闇のエネルギーが銀河の渦のように周囲を巡る。
それこそがコア。
すべての幻想の源であり――
この次元で起きるあらゆる異常の根源だった。
その前に立つ一人の少女。
ヴォラ。
彼女はコアへ背を向け、正面を見据えていた。
待っているのだ。
リュウとエリシアを。
そして少し離れた岩の上には、一人の女性が腰掛けていた。
神秘的な微笑みを浮かべながら。
その名は――
ヴェリスタ・セレスティアル。
長いエレクトリックパープルの髪がコアのエネルギーに揺れる。
頭上にはブラックホールを思わせる紋章の銀のティアラ。
それだけで彼女の存在は、この世界の法則すら超越しているように見えた。
サファイアブルーの瞳。
静かな光を宿している。
だがその視線は、人の秘密をすべて見透かしてしまうかのようだった。
黒紫のドレスが優雅に揺れる。
花模様のレースが夜の影のように両腕を包み込んでいた。
一挙手一投足が王の威厳を放ち――
同時に神の脅威を感じさせる。
「ヴェリスタ」
ヴォラが呼ぶ。
ヴェリスタはゆっくり立ち上がった。
すべてが計算されたように優雅な動きだった。
「本当に来るのか?」
「ええ」
短い返答。
だが微笑みは消えない。
「ヴェリスタ……あなたもリュウが好きなの?」
ヴォラの頬がわずかに赤くなる。
ヴェリスタはちらりと彼女を見た。
そして優雅に歩み寄る。
「私がリュウの力を封印するよう命じたから? それとも、彼の話ばかりしているから?」
「違う。ただ確認したいだけ。あなたとは争いたくないの」
ヴェリスタは片眉を上げた。
「ふふふっ」
鈴のような笑い声。
しかし空気はむしろ冷たくなる。
「それで?」
ヴォラが問う。
「あなたの本当の目的は何?」
「んー……目的?」
ヴェリスタはわざと考える仕草を見せた。
そして微笑む。
「あなたは私の従者ですもの。少しくらい秘密を教えてあげてもいいわね」
人差し指がヴォラの顎に触れる。
優しく。
だが冷たく。
「簡単な話よ。リュウが全盛期の力を持ったままでは、この星を壊せないの」
彼女は楽しそうに笑った。
「だから半分だけ封印してもらった。そうすれば私が人類を滅ぼす時、彼は止められないでしょう?」
その笑い声は先ほどより遥かに不気味だった。
ヴォラは眉をひそめる。
「ヴェリスタ。あなたは元々神だったんでしょう?」
「なぜそこまでリュウに執着するの?」
ヴェリスタは再び微笑んだ。
沈黙を引き延ばす。
そして顔を近づける。
「もう十分な報酬は提示したはずよ。力を封印してくれたらリュウをあなたにあげるって」
囁く声。
氷のように冷たい。
「世界を壊した後は、リュウと一緒に美しい場所へ連れて行ってあげる。大好きな人と永遠に過ごせるのよ。なのに、どうしてそんなに質問するの?」
ヴォラの表情が険しくなる。
「答えて」
声が低くなった。
「人類を滅ぼすくらい、あなたなら簡単なはず」
警戒が滲む。
「まさか……私を利用しているんじゃないでしょうね?」
ヴェリスタは小さく息を吐いた。
そして――
微笑む。
「利用なんてしていないわ」
彼女はゆっくり回り込み、ヴォラの背後へ立った。
身をかがめる。
唇が耳元へ近づく。
「ねえ、あなたがまだ知らない秘密を教えてあげる」
「……何?」
ヴェリスタは妖しく微笑んだ。
「リュウは私で――」
そして。
「私はリュウなのよ」
――。
ヴォラの瞳が大きく見開かれた。
心臓が止まったような錯覚。
全身が凍り付く。
呼吸の仕方すら忘れてしまうほどに。
ヴェリスタは愉快そうに笑った。
「だからあまり彼を刺激しないことね」
その瞳が細くなる。
「でないと――本当の彼を見ることになるわよ」
「ふふふふふふ……」
冷たい笑い声が空間いっぱいに響き渡る。
空虚で。
不気味で。
その場にいたヴォラでさえ、抗えない悪寒に背筋を震わせるほどに。
「この物語をここまで続けてこられたのは、ひとえに皆さんの応援のおかげです。もし各話を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと評価をお願いします。こうした皆さんのあたたかいサポートが、次のお話を書くための大きな励みになります。この物語の旅路に寄り添ってくださり、本当にありがとうございます!」




