第一章 第八部 ―― ロスト・リアリティ次元(5)
サトとの短い会話を終えたあと、辺りは再び静寂に包まれた。
彼は真っ直ぐに立っていた。
広い肩は、まるで目には見えない何かを背負っているかのように重たげだった。
しばらく無言でいたあと、サトは俺の方へ歩み寄る。
「戻ろう。あいつがお前を探しているはずだ」
そう言って先に歩き出した。
俺は小さく頷き、その背中を追った。
やがて俺たちは、エリシアが休んでいる質素な木造の家へと戻ってきた。
家の周囲には重苦しい静けさが漂っている。
集まっている人々の表情には、今も不安の色が濃く残っていた。
数人の少年少女は肩を寄せ合い、不安そうに互いの手を握り締めている。
その姿を見て、俺はすぐに理解した。
きっと彼らは――ヴォラから生き延びた子供たちなのだろう。
俺はゆっくりと木の扉を押し開けた。
中へ入ると、エリシアを看病していた老婦人が小さく微笑み、静かに席を立つ。
二人きりにしてくれるらしい。
エリシアはすでに起き上がっていた。
顔色はまだ少し青白い。
それなのに本人は、何事もなかったかのような顔をしている。
「あーっ」
彼女は両腕を上に伸ばし、大きく背伸びをした。
「どうした?」
不思議そうに首を傾げながら微笑む。
「はは……」
俺は苦笑するしかなかった。
なぜだろう。
そんなふうに笑う彼女を見るほど、胸が締め付けられる。
「それで、俺たちの協力関係はどうするんだ? 続けるのか?」
少しでも本音を聞き出したくて、そう尋ねる。
「もちろん」
エリシアはあっさり答えた。
そして再び身体を伸ばす。
まるで本当に何の問題もないかのように。
「あぁ……」
俺は長く息を吐いた。
「エリシア、お前さ……本当に心配したんだぞ」
彼女の方を見る。
「急に顔色が悪くなって、そのあと吐いたと思ったら血だったんだ。正直、かなり怖かった」
できるだけ軽い口調で言った。
「お前が倒れた時、俺は本気で思ったんだ。このまま一生ここから出られないんじゃないかって」
冗談めかして笑ってみせる。
だが――
「ふふっ、リュウ様。私はそんな無責任な人じゃありませんよ」
エリシアは柔らかく笑った。
「ちゃんと約束も、協力も守ります。だから心配しないでください」
そう言って彼女は手を伸ばす。
そして――
そっと俺の鼻先に指先を触れさせた。
温かい。
ただそれだけの仕草なのに、不思議なほど心に残る。
俺は言葉を失った。
優しい瞳。
穏やかな笑み。
それらを見つめているうちに、一つの考えが胸をよぎる。
――もし。
――いつか。
――この顔を二度と見られなくなったら。
サトの言葉が脳裏によみがえった。
胸が苦しい。
俺は視線を落とし、静かに息を吐く。
「どうしたんですか?」
「……いや、何でもない」
エリシアは一瞬だけ首を傾げ、それからいつもの笑顔を浮かべた。
「それじゃあ行きましょう。旅の続きを始めますよ」
軽やかな足取りで家の外へ出ていく。
俺もその後を追った。
外へ出ると、待っていた人々がすぐに駆け寄ってきた。
「エリシア、大丈夫なの?」
大人の女性が彼女の両手を握る。
その顔は心配でいっぱいだった。
続いて、一人の少女が駆け寄る。
「お姉ちゃん! お姉ちゃん大丈夫!? すごく心配したんだから……!」
涙で潤んだ瞳。
エリシアはくすりと笑い、少女の鼻先を優しくつついた。
「大丈夫ですよ」
その笑顔はどこまでも温かかった。
すると他の子供たちも次々と集まってくる。
「約束だよ! 帰ってきたら、一緒に花に水をあげようね!」
「僕もお姉ちゃんにもらった花の種、ちゃんと育ててるよ!」
次々に飛び交う声。
エリシアは一人ひとりの頭を優しく撫でていく。
その手つきには、尽きることのない愛情が宿っていた。
「大丈夫。ちゃんと帰ってきますから」
穏やかな声。
けれど――
俺は見逃さなかった。
その笑顔の奥に、一瞬だけ浮かんだ迷いを。
ほんの刹那。
だが胸が締め付けられるには十分だった。
「なんでそんな顔するの……?」
「まさか、お姉ちゃん私たちを置いて行くつもりじゃないよね……?」
十数人の子供たちが一斉にエリシアへ抱きついた。
小さな手が彼女の服をぎゅっと掴む。
その光景に喉が詰まった。
もう理解している。
彼らはエリシアを救世主だから慕っているわけじゃない。
家族として愛しているのだ。
そしてエリシアもまた――
彼らを心から愛している。
彼女は再び子供たちの鼻先を順番につついた。
「そうだ。みんなにプレゼントがあります」
ぱっと表情を明るくする。
「ほんと!?」
子供たちの目が輝いた。
エリシアは頷き、家の中へ入っていく。
しばらくして戻ってきた彼女の手には、小さな箱が抱えられていた。
「さて、何が入っているでしょう?」
「花の種!」
「違うよ、きっと特別なものだよ!」
「ふふっ――じゃん♪」
箱が開かれる。
中には色とりどりのロリポップキャンディが綺麗に並んでいた。
歓声が上がる。
小さな庭が一瞬で明るくなった。
エリシアは一本ずつ丁寧に配っていく。
誰一人として忘れない。
「ありがとう、お姉ちゃん!」
再び抱きつく子供たち。
その光景を見ていると、胸の重みは増すばかりだった。
もしサトの話が本当なら。
もしエリシアが助かる可能性が本当にわずかしかないのなら。
俺は――
その結末を受け入れられるのか?
「そのキャンディ、私が作ったんですよ?」
エリシアは楽しそうに笑う。
「だから食べなかったら、お姉ちゃん泣いちゃいます」
「大丈夫!」
子供たちは元気よく答えた。
「お姉ちゃんが帰ってくるまで取っておく!」
「帰ってきたら一緒に食べるんだ!」
その言葉に――
エリシアの笑顔がかすかに揺れた。
本当に、ほんの少しだけ。
「……そうですか」
それでも彼女は笑った。
「じゃあ今日はもう休みなさい」
子供たちは頷き、それぞれの家へ戻っていく。
大人たちも少しずつ散っていった。
だが――
一人だけ、その場に残った少年がいた。
彼は真っ直ぐ俺を見つめる。
「お兄ちゃん」
俺は振り向く。
「エリシアお姉ちゃんのこと、お願いね」
優しい笑顔だった。
あまりにも純粋で。
だからこそ、その一言はどんな願いよりも重かった。
まるで世界で一番大切な存在を託されたような気がした。
俺は無理やり笑みを作り、小さく頷く。
少年は満足そうに笑い、走り去っていった。
エリシアは遠ざかる背中を見送る。
笑顔はそのままだ。
だが――
その瞳だけが、どうしようもなく寂しそうだった。
俺が息を吐いた、その時。
温かい感触が指先に触れた。
エリシアが俺の手を握っていた。
「リュウ様。これは私からの小さな贈り物です」
彼女は俺の手のひらに金色の金属片を乗せる。
表面には美しい薔薇の紋章が刻まれていた。
不思議だった。
金属のはずなのに鉄の匂いはしない。
代わりに、かすかな薔薇の香りが鼻をくすぐる。
「私の代わりに持っていてください。いつか役に立つかもしれません」
そう言って微笑む。
そして先に歩き出した。
俺はその金属を強く握り締め、後を追う。
村の入口ではサトが待っていた。
「サトおじさん」
「……行くのか」
その声は重かった。
胸の奥の苦しみを無理やり押し殺しているようだった。
エリシアは力強く頷く。
「サトおじさん」
彼女は大きな手を取った。
そして一通の手紙をそっと握らせる。
それから再び笑った。
「子供たちとみんなのこと、お願いしますね」
まただ。
あの笑顔だ。
見れば見るほど分かる。
それは幸せな笑顔じゃない。
安心した笑顔でもない。
大切な人たちを泣かせないために、自分の傷を隠している人の笑顔だった。
「サトおじさん、そんな顔しないでください」
エリシアは冗談っぽく笑う。
「こんなに立派で筋肉もあるのに、その顔は似合いませんよ?」
そう言って彼の腕を軽く叩いた。
サトはかすかに微笑む。
しかし目尻は赤く染まっていた。
「それじゃあ行きましょう、リュウ様」
エリシアは先に歩き出した。
ぴょんぴょんと小さく跳ねながら。
まるで遠足へ向かう子供のように。
けれど俺は知っている。
その明るさが仮面であることを。
彼女がどれほど重い覚悟を背負っているのかを。
数歩進んだところで振り返る。
サトがこちらを見ていた。
そして静かに頷く。
「……それがエリシアの望みなら、俺は止められない」
俺は黙って頭を下げた。
そして再び歩き出す。
エリシアの背中を追って。
――――――
二人の姿が完全に見えなくなったあと。
サトはゆっくりと手紙を開いた。
手が震えている。
紙の隅には、小さなハートと笑顔の落書きが描かれていた。
それを見ただけで――
彼の目は潤んだ。
胸の奥から込み上げるものを必死に押さえ込む。
そして手紙を広げ、読み始めた。
――――――
サトおじさんへ。
おじさんは本当にすごい人です。きっと現実世界に帰れたら、立派なリーダーになれると思います。あんなに頼もしくて筋肉もあるんですから、みんなを導くのにぴったりです。
それから――ごめんなさい。
私はもう決めました。
みんなを、この恐ろしい次元から救います。
少なくとも、みんなには本当の世界で幸せに生きてほしいんです。
私は、もう一度おじさんたちに会えるのか分かりません。
子供たちの笑顔を見られるのかも分かりません。
でも、このままヴォラにみんなの命を吸い続けさせることはできません。
この次元に留まり続ければ、いつかみんな死んでしまうから。
だから――
一人の命でたくさんの命が救えるなら、それはきっと悪い選択じゃないと思うんです。
ごめんなさい。
こんな場所で、みんなと出会えて本当に幸せでした。
もし来世があるなら、また会いたいです。
みんなと過ごした時間は、私の宝物でした。
どうか皆さんによろしく伝えてください。
そして――
私のことを忘れないでください。
私は、忘れられてしまうのが少し怖いから。
約束してください。
おじさんが、みんなの素敵なリーダーになるって。
心からの愛と感謝を込めて。
エリシアより
――――――
その瞬間。
サトの膝から力が抜けた。
巨体が地面へ崩れ落ちる。
手紙が激しく震えていた。
呼吸ができない。
見えない手に胸を掴まれたようだった。
堪えていた涙が、ついに決壊する。
彼は深くうつむいた。
屈強な肩が大きく震える。
最初は声にならない嗚咽だった。
やがてそれは、胸を裂くような慟哭へと変わっていく。
誰よりも強く見えた男。
決して折れないと思われていた男。
その男が今――
最愛の娘を失った父親のように泣いていた。
冷たい大地の上で。
サトは手紙を胸に強く抱き締める。
まるでそうすることで――
少しずつ遠ざかっていくエリシアの温もりを、まだ繋ぎ止めていられるかのように。
「この物語をここまで続けてこられたのは、ひとえに皆さんの応援のおかげです。もし各話を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと評価をお願いします。こうした皆さんのあたたかいサポートが、次のお話を書くための大きな励みになります。この物語の旅路に寄り添ってくださり、本当にありがとうございます!」




