第一章 第七部 ―― ロスト・リアリティ次元(4)
――暗闇。
ゆっくりと、Elysiaの意識が浮上していく。
閉ざされていた瞼が微かに震え、やがて少しずつ開かれた。
まだ焦点の定まらない視線が、質素な木造の部屋をゆっくりと見渡す。
その先にいたのは――
俺と、数人の人々だった。
誰もが不安そうな表情で彼女を見つめている。
胸の奥を締めつけていた重苦しさが、ほんの少しだけ和らいだ。
……よかった。
目を覚ましたんだ。
Elysiaは薄い毛布が敷かれた簡素な木製ベッドの上に横たわっていた。
傍らには六十代ほどの老婦人が座り、皺だらけの指先で薬草の匂いが強い軟膏を丁寧に塗っている。時折、彼女の呼吸を確かめるように胸元へ手を添えていた。
俺はベッドから数歩離れた場所で立ち尽くし、知らず知らずのうちに両手を強く握り締めていた。
不安はまだ消えていない。
「Elysiaちゃんは、どうやら――」
老婦人が言葉を続けようとした、その瞬間だった。
Elysiaがそっと片目を閉じ、老婦人へ向けて小さく合図を送る。
老婦人はぴたりと口を閉ざした。
そして長い溜息を吐き、静かに頷く。
まるで何かを理解したかのように。
俺は眉をひそめた。
……何かがおかしい。
二人は明らかに、俺に隠していることがある。
だが、ようやく目を覚ましたばかりの彼女を問い詰める気にはなれなかった。
今は――その時じゃない。
そう思った矢先だった。
「おい、あんた。少しいいか」
低く重い男の声が家の外から聞こえてきた。
振り返る。
入口には、大柄な男が立っていた。
筋肉質な体格。
色褪せた無地の服に、ところどころ破れた黒いズボン。
決して立派な身なりではない。
それでも、その背中からは数え切れない苦難を乗り越えてきた者だけが持つ重みが滲み出ていた。
俺はElysiaを見る。
彼女は小さく頷いた。
俺も頷き返し、その男について外へ出る。
家の前には数人の住民が集まっていた。
全員の視線が、Elysiaが眠る家へ向けられている。
誰も何も言わない。
だが、その表情だけで十分だった。
不安。
心配。
祈り。
まるで――
Elysiaが彼らにとって、かけがえのない存在であるかのように。
男は再び歩き出した。
「ついて来てくれ」
俺は無言で後を追う。
集落から離れるにつれ、人々の気配は遠ざかり、代わりに夜風が木々を揺らす音だけが耳に届くようになった。
そして――
俺たちは足を止めた。
目の前には巨大な湖が広がっていた。
水面は鏡のように静まり返り、空に浮かぶ血のように赤い満月を映し出している。
幻想的だった。
だが同時に、不気味でもあった。
この場所の静寂は、あまりにも完成されすぎている。
「話って何ですか?」
俺は問いかけた。
二人並んで湖を眺める。
夜風に揺れる水面が赤い月光を砕き、まるで絶望そのものが波打っているように見えた。
「君の名前は?」
男が聞く。
「Ryu Celestialです」
「俺は佐藤 蓮。よろしくな」
「こちらこそ」
佐藤は湖畔にしゃがみ込み、水面を見つめた。
俺も近づく。
「Ryu Celestial。どうしてここへ飛ばされた?」
「分かりません」
俺は空を見上げた。
冷たい夜気が肺を満たす。
赤い月が空高く浮かんでいる。
なぜだろう。
まるで俺たちを見下ろしているようだった。
「記憶を失っていて、何も覚えていないんです」
「そうか……」
短い返事。
再び沈黙が訪れる。
俺は佐藤の背中を見る。
彼はずっと赤い月を見上げていた。
「この次元のルールを知っているか?」
「いいえ」
湖面が揺れる。
小さな波が岸辺の石を叩く音だけが響く。
佐藤は長く息を吐いた。
迷っているのが分かった。
これから話すことは、長い間胸の奥に閉じ込めてきたものなのだろう。
「……教えてやる」
彼は立ち上がり、俺の方を向いた。
視線が交わる。
その瞬間、俺は息を呑んだ。
彼の瞳の奥には――
深い悲しみがあった。
後悔があった。
そして、言葉では表せないほどの痛みがあった。
喉が乾く。
嫌な予感がした。
だが、それでも知る必要がある。
俺は自分自身のことすら知らないのだから。
「分かりました」
「その代わり約束してくれ」
「何をです?」
佐藤は近づき、静かに俺の肩へ手を置いた。
「これを知ったことを、Elysiaには絶対に話すな」
俺は頷く。
「約束します」
まだ迷いはあった。
だが、この答えこそが今まで感じていた違和感の正体なのだと、直感が告げていた。
「よし」
佐藤は再び月へ視線を向けた。
そして――
風に消えそうなほど小さな声で言った。
「……この次元は、Elysiaを中心に成り立っている」
――。
心臓が止まった気がした。
息が喉で詰まる。
夜風が急激に冷たく感じられた。
頭が真っ白になる。
理解できない。
理解したくない。
そんな言葉だった。
「ど……どういう意味だ……?」
俺の声は震えていた。
佐藤は俯く。
肩が微かに震えている。
「俺たちがここを出たがらない理由は……」
ぽたり、と。
涙が地面へ落ちた。
「Elysiaが、この次元のコアの一部だからだ」
言葉を失った。
胸が苦しい。
心臓を素手で握り潰されているようだった。
質問はいくらでもあった。
だが何一つ口にできない。
佐藤は続ける。
今にも壊れそうな声で。
「俺たちの村がVoraに襲われた時……あいつは子供たちの魂を奪った。そしてこの次元へ引きずり込んだんだ」
拳が強く握られる。
「親である俺たちも巻き込まれた」
声が震える。
「子供たちは殺された。苦しめられた。俺たちはそれを見ていることしかできなかった」
涙が止まらない。
「大切なものを失った絶望で、俺たちも壊れかけていた」
佐藤の声が掠れた。
そして――
「そんな時に現れたのがElysiaだった」
俺は黙って聞く。
割り込めるはずがなかった。
「彼女は手を差し伸べてくれた」
「慰めてくれた」
「生きろと言ってくれた」
嗚咽が混じる。
「子供たちも、自分たちの親が苦しみながら死ぬことなんて望んでいないって……そう言ってくれたんだ」
肩が震える。
「だから俺たちは生きた」
「Elysiaのために」
そして――
最も重い言葉が落とされた。
「この次元を出る唯一の方法は……Elysiaを殺すことだ」
胸が締めつけられる。
「だから俺たちは出たくない」
佐藤は唇を噛み締めた。
血が滲みそうなほど強く。
「Elysiaは俺たちを救ってくれた」
「支えてくれた」
「守ってくれた」
涙が頬を伝う。
「俺たちにとって、あの子は娘みたいな存在なんだ」
拳が震える。
「子供たちの魂も……今は彼女の中に宿っている」
声が崩れた。
「だから殺せない」
「たとえ本人が、自分を殺してくれと望んでも……!」
俺は何も言えなかった。
感動したからじゃない。
胸が苦しかったからだ。
佐藤の言葉には嘘がなかった。
痛みしかなかった。
優しさしかなかった。
そして何より――
あまりにも悲しかった。
Elysiaが。
この次元の核だったなんて。
俺は俯いた。
何を言えばいいのか分からない。
俺は彼らではない。
Elysiaでもない。
苦しみを知らない人間が何かを語る資格なんてない。
佐藤は涙を拭う。
俺は深く息を吸った。
胸を圧迫する苦しさを押し返すように。
そして顔を上げる。
「……きっと、他に方法があります」
佐藤が振り返った。
視線がぶつかる。
「Elysiaもこの次元から出たがっている」
俺は言った。
迷いながらも。
「だったら彼女は、みんなで一緒に出る方法を探しているはずです」
「それが……Elysiaの望みなんだと思う」
佐藤は目元を拭った。
「Abberentsのコアを壊すって話か……?」
「はい」
彼は再び俯く。
希望はまだ小さい。
消えかけた灯火のように。
「仮に可能だとしても、コアは生きている」
「動くし、抵抗もする」
「しかもS級Abberentsだ」
絶望に慣れすぎた人間の声だった。
俺は拳を握る。
「やってみなければ分からないでしょう」
佐藤は静かに首を振った。
「いや……」
声が弱々しい。
「たとえS級Abberentsを倒せても、Elysiaが助かる保証はない」
夜風が吹く。
彼は空を見上げた。
「こんな残酷な世界で、あの子だけは本当に優しい人間なんだ」
「そんな子が、次元を動かすための電池みたいに扱われるなんて……」
拳が震える。
青筋が浮かび上がるほど強く握り締められていた。
「Voraの野郎……!」
憎しみのこもった声だった。
しばらく沈黙が続く。
そして――
聞こえるか聞こえないかほど小さな声で、彼は尋ねた。
「お前も……Voraみたいに、Elysiaを俺たちから奪うのか……?」
涙が再び零れ落ちる。
俺は答えなかった。
ただ――
今まで見てきた光景が頭の中で一つに繋がっていく。
青白い顔。
重い呼吸。
そして。
あの血を吐いた姿。
そうか。
Elysiaはずっと――
この次元に力を吸われ続けていたのか。
俺は両拳を固く握り締めた。
視線が静かに鋭くなる。
俺はElysiaを信じる。
彼女はきっと、すべてを考えた上で行動している。
そして俺は信じている。
いつか必ず――
俺たちはVoraを倒す。
この次元を縛る呪いごと。
すべてを打ち砕いてみせる。
……Elysiaを信じているから。
「この物語をここまで続けてこられたのは、ひとえに皆さんの応援のおかげです。もし各話を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと評価をお願いします。こうした皆さんのあたたかいサポートが、次のお話を書くための大きな励みになります。この物語の旅路に寄り添ってくださり、本当にありがとうございます!」




