第一章 第六部 ―― ロスト・リアリティ次元(3)
「――見ぃつけた♪」
ヴォラは再び身をかがめ、ベッドの下を覗き込んだ。
細められた紫の瞳が、埃の積もった暗い隙間をゆっくりと舐めるように見渡していく。
だが――
そこには誰もいなかった。
ヴォラの眉がぴくりと動く。
やがて彼女はゆっくり顔を上げた。
その頬は怒りで赤く染まり、今にも爆発しそうなほど表情が歪んでいる。
「よくも私をここまでコケにしてくれたわね……。どこにいるのよ、あいつらは……」
苛立ち混じりに吐き捨てると、彼女は乱暴に踵を返した。
バァンッ!!
木製の扉が激しく叩きつけられ、家全体がびりりと震える。
俺たちはしばらく身動きひとつできなかった。
ヴォラの足音が完全に消え去った後も、俺は息を潜め続けていた。ほんのわずかな物音ですら、あの女を呼び戻してしまいそうだったからだ。
ようやく周囲が完全な静寂に包まれた頃、俺たちはゆっくりとベッドの下から這い出した。
「はぁ……助かった……」
張り詰めていた緊張が一気にほどける。
胸の奥に溜まっていた息を吐き出すと、湿った木の匂いを含んだ空気さえ心地よく感じられた。
そのときだった。
俺はふとエリシアへ視線を向ける。
彼女の顔色は驚くほど悪かった。
もともと白かった肌は血の気を失い、唇まで微かに震えている。
「エリシア。さっき、一体何をしたんだ? どうしてヴォラは俺たちを見つけられなかった?」
確かに俺は見た。
ヴォラは目の前まで来ていた。
あの距離なら普通なら見逃すはずがない。
エリシアは荒い呼吸を整えながら、小さく首を振った。
「実は……私には幻覚を見せる力があるんです。ヴォラの視覚を一時的に操作して、私たちが見えないようにしていました……」
息を切らしながらそう答える。
俺は思わず瞬きを繰り返した。
つまり最初からそんな能力があったのか?
「だったら、なんで先に言わなかったんだ……?」
呆れたような声が漏れる。
もしそんな力があるなら、わざわざベッドの下に潜り込む必要なんてなかったじゃないか。
あんな思いをしてまで。
心臓が止まりかけたんだぞ。
するとエリシアは頬を膨らませた。
「り、リュウ様が勝手に私の手を引っ張って、『早く隠れろ』って言ったんじゃないですか」
腕を組み、ぷいっと顔を背ける。
その仕草は妙に可愛らしかった。
だが――
だからこそ違和感が増していく。
顔色の悪さは演技ではない。
笑ってはいる。
けれど体は明らかに悲鳴を上げていた。
呼吸は重い。
肩は小刻みに震えている。
瞳の奥から少しずつ光が失われている。
まるで――
無理やり平気なふりをしているようだった。
「エリシア……」
自分でも驚くほど静かな声だった。
「顔色が悪すぎる。大丈夫なのか?」
彼女が振り向く。
視線が重なった。
沈黙。
数秒間、言葉はなかった。
その瞳がわずかに揺れる。
何かを隠しているように。
そして――
彼女は笑った。
「リュウ様ったら、そんなに私を見つめてどうしたんですか? もしかして私のこと好きになっちゃいました?」
そう言いながら腕を絡めてくる。
俺は無表情になった。
……まだ冗談を言う余裕があるらしい。
「だってリュウ様、私の顔を見ただけで顔色が悪いって気付いたじゃないですか」
エリシアは不満そうに頬を膨らませる。
「さっき私が怖がったとき、口を塞いだでしょう? あれで息ができなかったんですよ?」
俺は無言で彼女を見つめた。
口元がわずかに引きつる。
本気で心配しているというのに――
この女はまだ誤魔化そうとしている。
胸の奥に小さな引っ掛かりが残った。
直感が告げている。
エリシアは何かを隠している。
「本当か?」
俺は少しだけ距離を詰めた。
薄く笑う。
「でも俺が塞いだのは口だけだろ。鼻までは塞いでない」
わざと意地悪く言う。
「嘘をつくなら、もう少し上手くやった方がいいぞ」
エリシアの目がぴくりと引きつった。
「は、ははは……その話はもう終わりです!」
彼女は露骨に話題を変える。
「今はここを離れましょう。ヴォラにまた見つかる前に」
俺は小さく笑った。
やはり避けている。
「分かった」
俺たちは再び移動を開始した。
エリシアが慎重に扉を少しだけ開く。
細い隙間から外の様子を確認する。
冷たい風が吹き込み、湿った土と腐葉土の匂いが鼻をくすぐった。
しばらく外を確認した後、彼女は小声で言う。
「大丈夫です」
先に外へ出ると、音を立てないよう静かに扉を閉めた。
俺も後に続く。
一歩一歩、慎重に。
視線を右へ、左へ。
前方だけでなく何度も背後を確認する。
森は異様なほど静かだった。
風に揺れる葉擦れの音と、湿った地面を踏む足音だけが耳に届く。
不思議なことに、雨など降っていないはずなのに地面は濡れていた。
まるでこの森だけ時間が止まっているかのように。
「エリシア。これからどこへ向かうんだ?」
俺が尋ねる。
「この次元に閉じ込められた人たちの集落です」
何気ない答えだった。
だが俺は思わず足を止めた。
「……は?」
心臓が跳ねる。
「他にも人がいるのか?」
「ええ」
エリシアは立ち止まり、こちらを振り返った。
「私たち以外にも何人かいます」
穏やかな笑みを浮かべながら続ける。
「最初はみんな、この世界から脱出しようとしていました。でも今は……ここで暮らすことを選んだ人がほとんどです」
ますます意味が分からない。
「なんでだよ。こんな場所で?」
俺は眉をひそめた。
「こんな不気味な世界に住み続けたいなんて思うのか?」
エリシアの表情が変わる。
笑顔が消えた。
その瞳に強い意志が宿る。
「でも私は違います」
静かな声。
それなのに驚くほど力強かった。
「私は絶対にここを出ます」
俺はゆっくり頷いた。
「……そうか」
彼女は再び歩き出す。
「だから、一緒に頑張りましょう」
俺も後を追った。
しばらく進むと――
木々の隙間から橙色の光が見え始めた。
近づくにつれて輪郭がはっきりしていく。
松明だった。
その灯りに照らされるように、森の中に小さな木造集落が姿を現す。
周囲の静寂とは対照的な光景だった。
「あれが……?」
「はい」
だが――
あと少しというところで。
エリシアの足が止まった。
ぴたりと。
まるで時間が凍ったように。
「エリシア?」
返事はない。
背中が小刻みに震えている。
ただでさえ悪かった顔色が、さらに真っ白になっていた。
血の気が完全に引いている。
嫌な予感が胸を掠めた。
「おい、エリシア」
肩に手を置く。
その瞬間――
彼女は突然駆け出した。
近くの木まで走ると、その場にしゃがみ込む。
胸を押さえた。
次の瞬間。
「――っ、うぇっ!」
鮮血が噴き出した。
ぽたり、ではない。
どくどくと。
止まることなく地面を赤く染めていく。
鉄臭い匂いが一気に広がった。
俺は目を見開く。
頭が真っ白になる。
理解が追いつかない。
何が起きている?
どうすればいい?
「エリシア! 一体どうしたんだ!?」
自分でも分かるほど声が震えていた。
彼女の体から力が抜ける。
そのまま前へ倒れそうになった。
反射的に俺は彼女を抱き留める。
軽い。
あまりにも軽すぎた。
「エリシア!」
肩を揺する。
だが反応はない。
瞳は閉じられたまま。
意識を完全に失っていた。
俺は腕の中の彼女を見つめることしかできなかった。
青白い顔。
か細い呼吸。
胸を締め付けるような不安が広がっていく。
――一体、彼女に何が起きているんだ……?
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