第一章 第五部 ―― ロスト・リアリティ次元(2)
俺たちは大聖堂から離れるようにひたすら走り続けた。
背後にそびえていた巨大な建物は、やがて森の闇に呑み込まれるように視界から消えていく。
肺が焼けるように熱い。
息を吸うたび胸が軋み、脚から少しずつ力が抜けていった。
あの忌まわしい拘束具の影響が、まだ身体の奥に残っている。
視界が揺れた。
木々の輪郭が滲み始める。
まずい――。
そう思った瞬間、崩れ落ちそうになった身体を銀髪の女性が素早く支えた。
「おい、まだ倒れないで。ヴォラが追ってくる……! だから頑張って」
普段は落ち着いている彼女の声に、わずかな焦りが混じっていた。
俺は小さく頷く。
身体中が悲鳴を上げていたが、それでも歯を食いしばりながら足を動かした。
森はどこまでも続いていた。
頭上では無数の枝葉が絡み合い、月明かりさえほとんど地面へ届かない。
風が木々を揺らす音だけが響き、不気味な静寂が辺りを支配していた。
しばらく進むと――
木々の隙間から一軒の小さな木造の家が姿を現した。
玄関先に吊るされた松明が揺らめき、黄色い光を闇の中へ滲ませている。
その灯りだけが、この森に残された唯一の温もりのようだった。
彼女は迷わず扉を開き、俺を中へ連れて入った。
室内は質素だった。
古びた木壁からは湿った松の香りが漂い、数本の松明が暖かな光を投げかけている。
「とりあえず座って」
そう言うと、彼女は部屋の隅にある木製の机へ向かった。
俺は入口近くに腰を下ろす。
「はぁ……」
自然と吐息が漏れた。
身体が鉛のように重い。
やがて彼女は木のカップを手に戻ってきた。
湯気が静かに立ち上っている。
「飲んで」
差し出されたそれを、俺は迷わず受け取った。
温かな液体が喉を通った瞬間――
身体の奥で何かが弾けた。
頭を締め付けていた痛みが薄れていく。
霞んでいた視界がゆっくりと晴れる。
重くのしかかっていた疲労も消え去り、代わりに力が満ちてくる感覚が広がった。
むしろ以前より調子が良いとさえ思えるほどだった。
俺は思わずカップを見つめる。
「これは……?」
「何なんだ、この飲み物は。急に身体が楽になった」
彼女は近くの椅子へ腰掛けた。
「私が作った回復薬よ」
「魔力や体力が落ちた時のために調合してあるの」
俺はすぐに立ち上がり、軽く頭を下げた。
「助かった」
「本当にありがとう」
「ふふっ」
彼女は少し困ったように笑う。
「そんなに畏まらなくていいわ」
「この次元じゃ助け合うのが当たり前でしょう?」
「私たちはどちらもヴォラの被害者なんだから」
その言葉に思わず眉をひそめた。
次元?
被害者?
「待ってくれ」
「次元って何だ?」
「え?」
彼女は不思議そうに目を瞬かせる。
「ヴォラにここへ連れて来られた理由を覚えてないの?」
俺は静かに首を振った。
「いや……」
「何も思い出せない」
「……え?」
次の瞬間、彼女の顔色が変わった。
「まさか……記憶喪失?」
信じられないものを見るように顔を近付けてくる。
俺は頷いた。
「ああ」
「たぶんそうだ」
「うわぁ……」
彼女は額に手を当てた。
「それは思った以上に大変ね……」
腕を組みながら顎へ手を添え、しばらく考え込む。
そして再び俺を見た。
「じゃあ、自分の名前は覚えてる?」
俺も考える。
だが何もない。
空白だけだった。
「名前も……覚えていない」
「ただ、ヴォラに聞いた時はリュウ・セレスティアルだと言われた」
「えっ!?」
彼女の瞳が一気に輝いた。
「ほ、本当に!?」
「あなたがリュウ・セレスティアルなの!?」
俺は頷く。
すると彼女は両手を握りしめた。
「すごい……!」
「わ、私、ずっとあなたのファンだったんです!」
「リュウ様!」
「アバレントを何度も撃退した伝説の英雄……!」
「本当に尊敬してるんです!」
まるで憧れの人物に会った子供のように目を輝かせている。
俺はますます混乱した。
しばらくして彼女は慌てて咳払いをする。
「こほんっ」
「すみません」
「リュウ様は記憶を失っているんでしたね」
「だから私が興奮している理由も分からないですよね」
それでも嬉しそうな笑みは消えない。
「だってリュウ様とエヴリン王女こそ、この世界を救った英雄なんですから」
「伝説そのものですよ」
俺は額を押さえた。
話を聞けば聞くほど疑問が増えていく。
「……本当なのか?」
「ええ」
彼女は優しく微笑む。
だがその笑顔は一瞬だけ翳った。
「記憶を失った今のリュウ様には実感が湧かないと思いますけど……」
しかし次の瞬間には再び明るい表情へ戻る。
「でも!」
「そんなリュウ様と協力できるなんて最高です!」
瞳がきらきらと輝いていた。
「リュウ様」
「私と一緒にここから脱出しませんか?」
彼女は深く頭を下げた。
「お願いします」
俺はしばらく彼女を見つめる。
分からないことだらけだ。
だが少なくとも、一人で彷徨うよりは遥かに良い。
何よりヴォラは今も俺たちを追っている。
「分かった」
「協力しよう」
そう答えると、彼女はぱっと顔を明るくした。
「よしっ!」
拳を握りしめる。
「それじゃ正式にパートナーですね!」
そして背筋を伸ばした。
「改めまして」
「私の名前はエリシア」
「ゼフィリオン王国領・王立魔法学院所属のAランク魔導士です」
「よろしくお願いします、リュウ様」
丁寧な一礼。
俺も軽く頭を下げた。
しかし頭の中には疑問が渦巻いていた。
なぜこの次元が存在するのか。
ヴォラとは何者なのか。
なぜ俺はここへ連れて来られたのか。
そして――
エヴリンとは誰なのか。
「エリシア」
「一つ聞いてもいいか?」
「もちろんです」
「俺たちは今、どんな次元にいるんだ?」
「ああ、そうでしたね」
彼女は小さく息を吐く。
そして表情を引き締めた。
「ここはロスト・リアリティ次元」
「現実と幻想の境界に存在する異常空間です」
部屋の空気が少し張り詰めた。
「この次元はヴォラが獲物を閉じ込めるために作った檻です」
「閉じ込めた相手の魔力や生命力を奪い続けて弱らせる」
「だからこの空間ではヴォラが最も強いんです」
彼女は部屋の中を歩きながら説明を続けた。
「ここから出る方法は一つだけ」
「この次元のコアを破壊することです」
「この世界はアバレントのエネルギーで維持されています」
「だから中心核を見つけて壊せば、次元そのものが崩壊する」
「その時、私たちは現実へ帰れるんです」
俺は静かに頷いた。
「なら、そのコアを探すべきだな」
「はい」
エリシアは力強く頷く。
「見つけて破壊しましょう」
彼女は微笑んだ。
だが――
なぜだろう。
その笑顔の奥に、消えない悲しみが見えた気がした。
綺麗な笑顔なのに。
瞳だけが何かを隠している。
まるで口にできない痛みを抱えているかのように。
俺には分からない。
だが確かに違和感だけが残った。
「ただ――」
エリシアの声が思考を断ち切る。
「油断は禁物です」
声音が真剣なものへ変わった。
「ヴォラは必ず私たちの邪魔をします」
「この次元から出ようとする私たちを見逃すはずがありません」
そして少しだけ声を落とした。
「それに……この次元にはSランク級のアバレントもいます」
空気がひやりと冷える。
「リュウ様は強いです」
「でも、この世界ではヴォラが私たちの力を抑えられるんです」
その言葉に背筋がぞくりと震えた。
その時だった。
外から冷たい風が吹き込み、松明の炎が揺れる。
そして――
聞き覚えのある声が森の奥から響いた。
「あなたぁぁ……」
「あなたぁぁ……どこにいるのぉ?」
「またかくれんぼしてるのかしらぁ?」
全身が硬直した。
俺とエリシアは反射的に顔を見合わせる。
嫌な予感しかしない。
急いで窓の隙間から外を覗いた。
そこには――
ヴォラがいた。
森の中をゆっくり歩きながら辺りを見回している。
獲物を探す捕食者のように。
そして突然。
彼女の視線が真っ直ぐこちらへ向いた。
俺たちは慌ててカーテンを閉める。
心臓が嫌な音を立てた。
隠れ場所を探す。
視線の先にはベッド。
その下に二人が入れる程度の空間があった。
俺はすぐにエリシアの手を掴む。
「急げ」
「隠れるぞ」
二人でベッドの下へ潜り込む。
室内は再び静まり返った。
そして――
カチャリ。
扉が開く音。
「いるのかしらぁ?」
「ふふふっ」
楽しそうな笑い声が部屋中へ広がる。
足音が近付いてくる。
コツ――
コツ――
コツ――
一歩ごとに胸が締め付けられた。
その時。
小さな虫が一匹、エリシアの方へ這っていく。
彼女の瞳が大きく見開かれた。
今にも悲鳴を上げそうになる。
俺は反射的に彼女の口を押さえた。
二人とも身体が強張る。
沈黙。
そして。
くすっ――
耳元で囁かれたような笑い声。
「へぇ……」
「やっぱりここにいたのねぇ」
足音が止まる。
ベッドの下から見えるのは――
目の前で立ち止まったヴォラの足。
血の気が引いた。
ゆっくりと床へ顔を近付けるヴォラ。
ベッドの隙間から覗き込んでくる。
頬はほんのり赤く染まり。
その唇には恍惚とした笑みが浮かんでいた。
見つけた喜びを隠しきれないように。
そして彼女は甘く囁く。
「――見ぃつけた♪」
「この物語をここまで続けてこられたのは、ひとえに皆さんの応援のおかげです。もし各話を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと評価をお願いします。こうした皆さんのあたたかいサポートが、次のお話を書くための大きな励みになります。この物語の旅路に寄り添ってくださり、本当にありがとうございます!」




