第一章 第十部――ロスト・リアリティ次元(7)
俺たちは再び歩き始めた。
やがて辿り着いたのは、果てが見えないほど広大な平原だった。
そこには静寂だけが支配していた。
平原の周囲には巨大な紫色のエネルギードームがそびえ立ち、脈打つように淡く明滅している。その光はまるで、まだ鼓動を続ける巨大な心臓のようだった。
「ここです」
エリシアが足を止め、小さくそう告げた。
俺はゆっくりと視線を上げる。
平原の中央。
そこには巨大な紫色のエネルギー球が、音もなく宙に浮かんでいた。
放たれる光によって空間そのものが揺らぎ、周囲の景色が歪んで見える。
そして――
その前に、一人の女性が立っていた。
ヴォラ。
彼女は瞬き一つせずに俺たちを見つめている。
口元には微笑み。
優しさすら感じさせるほど穏やかな笑み。
だが同時に、それは背筋を凍らせるほど恐ろしかった。
「ヴォラ……やっぱり待っていたんですね……」
エリシアが静かに呟く。
俺たちは歩みを止めることなく、紫色のドームの中へ足を踏み入れた。
その瞬間――
世界が歪んだ。
「……っ!」
視界が激しく揺れる。
頭蓋の内側を無数の見えない手で握り潰されるような激痛。
膝から力が抜けた。
「ぐっ……あぁっ……!」
脳を貫くような痛みに呼吸が詰まる。
「リュウ様!? どうしたんですか!?」
倒れそうになる俺の身体を、エリシアが慌てて支えた。
俺は頭を押さえる。
こめかみの血管が激しく脈打っていた。
な、何が起きてる……?
霞んでいく視界の向こうで、ヴォラがゆっくりとこちらへ歩いてくる。
そして――
突然、記憶の断片が脳裏を貫いた。
◇
黒い無地のシャツ。
破れた黒いズボン。
そんなみすぼらしい格好をした少年が、王都の門近くにある庭園に立っていた。
服は古びている。
貧しさを隠そうともしないほどに。
誰が見ても裕福とは程遠い生活を送ってきたことが分かる。
だが――
その少年の顔立ちは、あまりにも整っていた。
黒髪はセンターで分けられ、センター分けの前髪。
青い瞳は、太陽に照らされた海のような色を宿していた。
その時。
リュウは迷わず駆け出した。
目の前では数人の少年たちが、一人の少女を囲んでいた。
紫色の髪を綺麗に結い上げた少女。
その髪を乱暴に引っ張られ、彼女は苦しそうに身体を折り曲げていた。
「あっ……!」
考えるより先に身体が動いた。
――ドンッ!!
リュウの蹴りが少年の腹に炸裂する。
吹き飛ばされた少年は数メートル先まで転がった。
庭園が静まり返る。
他の少年たちは目を見開き、すぐに怒鳴った。
「おい! 貧乏人のくせに何してんだよ!」
「見ろよ! 怪我したじゃないか!」
まるで自分たちが被害者であるかのように騒ぎ立てる。
やがて、一人の大人の男が走ってきた。
怒りに満ちた顔。
泣いている息子を見るや否や、その男は抱き寄せた。
「父さん……あいつに殴られた……」
少年がリュウを指差す。
男の視線が鋭く変わった。
「おい! よくも息子を殴ったな! お前、何者だ! 不良か!」
その頃の俺――リュウは黙っていた。
胸が苦しい。
なぜ父親は真実を見ようとしない?
「おじさん……すみません。でも、あなたの息子さんたちは彼女をいじめていました」
俺は静かに息を吐いた。
「叱るべきなのは、息子さんの方です」
――パァンッ!!
鋭い音。
頬に強烈な痛みが走った。
身体が地面へ倒れる。
熱い。
痛い。
耳鳴りが止まらない。
紫髪の少女が泣きながら駆け寄ってきた。
「生意気なガキが! 大人に逆らうのか!」
「親から礼儀も教わってないのか!」
怒声が庭園中に響き渡る。
俺は黙って男を見つめた。
その背後では、先ほどまで少女をいじめていた少年たちが勝ち誇ったように笑っている。
「やっぱ貧乏人は教育がなってないな」
男は息子を連れて去っていった。
去り際、その少年はこちらを振り返り、舌を出して嘲笑う。
俺はゆっくり息を吐いた。
そして立ち上がる。
頬はまだ熱い。
少女が震える手で俺の手を握った。
「……助けてくれて、ありがとう……」
俯いたまま、小さな声で言う。
俺は彼女を見て微笑んだ。
「何言ってるんだよ。別に気にしなくていい」
少女は言葉を失う。
紫色の瞳が俺を見つめていた。
恥をかかされても。
殴られても。
それでも笑っていられる少年。
その姿が、彼女の胸を温かくした。
ゆっくりと頬が赤く染まる。
初めてだった。
誰かと一緒にいて安心できると思えたのは。
「困ってる人同士、助け合うのは当たり前だろ?」
俺は再び笑った。
「君の名前は?」
少女は恥ずかしそうに俯く。
「……ヴォラ」
「ヴォラか。いい名前だな」
俺は手を差し出した。
「俺はリュウ・セレスティアル。よろしく」
ヴォラはしばらくその手を見つめていた。
そして。
真っ赤になった頬のまま、その手をそっと握る。
小さく頷いた。
◇
「……っ!」
意識が戻る。
頭痛は嘘のように消えていた。
俺は目を見開く。
あれは……。
俺と……ヴォラ……。
「リュウ様? 大丈夫ですか?」
エリシアの声が現実へ引き戻した。
俺はゆっくり頷き、顔を上げる。
ヴォラはすでに数歩先まで来ていた。
「ねえ……あなた、浮気するつもり?」
彼女は微笑む。
だがその笑顔は、背筋を凍らせるほど冷たかった。
「それだけじゃないわ。せっかく私があなたのために作った場所から逃げようとするなんて……私を大事にしてくれないの?」
その声音は悲しげだった。
まるで被害者は彼女自身であるかのように。
「俺は……」
記憶の断片がまだ頭に残っている。
拳を握る。
爪が掌へ食い込むほど強く。
「俺はこんなこと望んでない!」
声が平原に響いた。
「もうやめてくれ! お前は何の罪もない人たちの命を奪った! 頼む……ヴォラ、もう終わりにしてくれ!」
ヴォラは首を傾げる。
「終わりに?」
腕を組む。
「どうして終わらせなきゃいけないの? 私は私たち二人のために、この世界を作ったのよ……?」
その顔に後悔はない。
俺は真っ直ぐ彼女を見据えた。
「俺は、お前みたいな悪魔の女とは一緒になりたくない」
その言葉は。
真っ直ぐに彼女の胸へ突き刺さった。
ヴォラの笑みが止まる。
瞳が震えた。
胸が締め付けられる。
かつて自分を救ってくれた少年。
生きる理由そのものだった存在。
その彼が、今、自分を拒絶している。
「……ふふ……あはははは……」
笑い声が響く。
だがその奥にある悲しみは、魂が砕けそうなほど深かった。
エリシアが剣を構える。
俺は眉をひそめた。
「……そう」
ヴォラの声が変わる。
冷たい。
鋭い。
「それなら……あなたが私をそうさせるのよ」
ゆっくりと顔を上げる。
涙が頬を伝っていた。
「もし私たちが一緒になれないなら……みんなここで一緒に死ねばいい」
笑い声が再び響く。
今度は遥かに恐ろしい。
背筋が凍る。
空がさらに暗く染まる。
空気が重くなった。
地面が激しく揺れる。
四方八方から無数の紫色の魂がエネルギー球へ集まっていく。
子供たちの魂。
若者たちの魂。
胸が苦しくなる。
俺は剣を地面へ突き立て、揺れに耐えた。
「リュウ様……ヴォラがアベラントを呼び出しています!」
エリシアの声に焦りが滲む。
紫のオーラがヴォラの身体を包み込んだ。
涙に濡れた瞳が俺を見つめる。
「これが私たちの物語の終わりなら……リュウ、あなたと一緒に死ぬ。そして死後の世界でも一緒よ」
彼女はゆっくり手を掲げた。
「アベラントよ……目覚めなさい」
――BOOOOOOM!!
大地全体が紫の光に染まる。
地面が裂けた。
闇の霧が噴き上がる。
次々と現れるアベラント。
巨大な鎌を持つ黒衣の人型。
紫の毛皮を持つ巨大狼。
熊。
パンダ。
虎。
獅子。
ゴブリン。
すべてが濃密な紫の瘴気に包まれている。
満月の赤い光の下。
その赤い瞳だけが不気味に輝いていた。
俺は息を呑む。
数が……多すぎる。
ありえない。
恐怖がゆっくりと胸を侵食していく。
「これが……本当に終わりなのか……?」
隣ではエリシアが真っ直ぐ立っていた。
その顔に恐怖はない。
赤いマントが夜風に揺れている。
まるで今日という日を、ずっと前から受け入れていたかのように。
「……そうですか」
俺は静かに息を吐いた。
「リュウ様……私を失望させないでくださいね」
エリシアが微笑む。
「怖いですか?」
俺は黙る。
「かつてリュウ様は王国の指揮官に任命された時、こう言いましたよね。何かを成し遂げるためには、必ず犠牲が必要だと」
その言葉が胸を打つ。
絶望に沈みかけていた何かを呼び覚ますように。
俺はゆっくり笑った。
「もし俺が本当にそんなことを言ったのなら……」
剣を掲げる。
「……俺はもう怖くない」
眼前にはアベラントの大群。
だが視線は揺るがない。
「男ってのは、自分の言葉を裏切らないものだからな」
エリシアは誇らしげに微笑んだ。
「それこそ、多くの人々が知るリュウ・セレスティアルです」
彼女が前へ出る。
抜き放たれた剣。
夜風に踊る赤いマント。
俺も隣に並んだ。
「賭けよう」
俺は前を見据える。
「あいつらを倒して、この場所に囚われた子供たちの魂を解放するために」
「GRRRRRAAAAAAA!!」
アベラントたちの咆哮が夜空を震わせる。
大地が再び揺れた。
そして――
数千もの怪物たちが、一斉に俺たちへ襲いかかってきた。
「この物語をここまで続けてこられたのは、ひとえに皆さんの応援のおかげです。もし各話を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと評価をお願いします。こうした皆さんのあたたかいサポートが、次のお話を書くための大きな励みになります。この物語の旅路に寄り添ってくださり、本当にありがとうございます!」




