第一章 第二十七部 ――リュウ・セレスティア外伝(7)
「本当の絶望というものを……お前に教えてやる」
その言葉は確かに俺の口から発せられた。
だが、それは俺の声ではなかった。
意識が半ば沈みかけたまま放たれたその声音は、凍てつくように冷たく、感情の欠片もなく、まるで氷の短剣が闘技場そのものの心臓を貫いたかのようだった。
リュウの周囲の世界が、静かに凍りつく。
漆黒に染まった瞳から溢れる絶対的な闇は、周囲の光さえも吸い込み、濃紫の瘴気が頭上で渦を巻きながら空間そのものを歪ませていた。
その圧倒的な威圧の前では、あれほど巨大だったクロガネの姿でさえ小さく見える。
純粋な恐怖が彼の魂を掴んでいた。
だが、それ以上に彼の怒りは燃え上がっていた。
「き、貴様……いったい何者だァァァッ!?」
クロガネの咆哮が響き渡る。
次の瞬間、リュウは左手をゆっくりと持ち上げた。
掌の上で空気がねじれ、純粋な闇の渦が生まれる。
それは小さなブラックホール。
闘技場中に漂う魔力さえも、クロガネの大槌を包む炎でさえも、その渦は容赦なく飲み込んでいく。
そして右手には、濃密な紫のオーラが集束した。
やがてそれは巨大な大鎌となって姿を現す。
漆黒に輝く刃は死そのものを具現化したかのようで、その周囲の草木は瞬く間に枯れ果てた。
「し、死ねぇぇぇぇッ!!」
クロガネが激昂する。
全力で振り下ろされた炎の大槌。
山すら粉砕する一撃。
灼熱の奔流がリュウへ襲いかかった。
大槌が迫る。
炎が唸る。
クロガネの踏み込みのたびに闘技場が砕け、空気そのものが激しく震える。
だがリュウは瞬きひとつしなかった。
大槌がその身体へ触れる直前――
リュウの姿が消える。
――ザシュッ。
残されたのは紫の残光だけだった。
クロガネの一撃は虚空を砕き、大槌は闘技場へ激突する。
――BOOOM!!
石畳が爆散し、巨大なクレーターが生まれる。
破片が四方へ飛び散り、結界の壁が大きく揺れた。
細かな亀裂が次々と走り、煙と砂塵が闘技場を覆い尽くす。
やがて煙が晴れた時。
観客たちは息を呑んだ。
クロガネの背後。
そこにリュウが立っていた。
死神の大鎌を肩に乗せ、何事もなかったかのように。
「お、おい……見たか……!?」
観客席の男が青ざめた顔で叫ぶ。
「消えたんだぞ!? あの貧民のガキ……あれはもう人間じゃない!」
「いったい何者なんだ……」
別の観客が震える声で呟く。
「あのクロガネが……まるで相手になっていない……」
負傷した魔導師たちも唖然としていた。
「魔力吸収……武器生成……こんな魔法、聞いたことがない……」
貴賓席ではエヴリンが立ち尽くしていた。
驚愕、安堵、喜び。
様々な感情がその蒼い瞳に浮かんでいる。
握り締めていた蒼剣は静かに消え、彼女のオーラも次第に収まっていく。
ゆっくりと椅子へ腰を下ろし、小さく息を漏らした。
(彼なら……大丈夫……)
隣のマーリン王もまた、その光景に目を奪われていた。
(この少年は……)
胸が大きく脈打つ。
(その力も……その意志も……すべてが常識の外にある。あの黒い瞳……まるで怪物たちの神を見つめているようだ……)
クロガネは狂ったように攻撃を繰り返した。
大槌が振るわれるたびに衝撃波が発生し、結界はさらにひび割れていく。
しかし。
リュウは常にその一歩先にいた。
消え、現れ。
紫の残光だけを残しながら優雅に舞う。
まるで相手の絶望の上で踊っているかのように。
そして。
疲労したクロガネの目前に、リュウが現れた。
何の前触れもなく。
死神の大鎌が振るわれる。
――ザシュッ。
――ザシュッ。
――ザシュッ。
「ぐああああああああああッ!!」
クロガネの絶叫が闘技場を引き裂く。
リュウは無感情のまま大鎌を振り続けた。
圧倒的な速度。
かつて最強を誇ったその肉体も、今では薄紙のように容易く裂かれていく。
紫の斬痕が内臓にまで刻まれ、巨体から大量の血が溢れ出した。
クロガネは崩れ落ちる。
その上に立つリュウ。
左手には再び小さな闇の渦が生まれていた。
終わりを告げる一撃。
その時。
「リュウ! やめて!!」
その声が凍てついた空気を切り裂いた。
エヴリンだった。
彼女は必死の表情で闘技場へ飛び込み、リュウへ駆け寄る。
その瞬間。
俺の意識が少しだけ戻った。
だが身体は動かない。
俺はただ曇った視界の奥から見ているだけだった。
自分の身体なのに。
自分の意志ではない。
「やめて、リュウ! そのままじゃ殺してしまうわ!」
俺は振り返る。
銀髪の少女。
エヴリン……?
見えている。
だが、分からない。
誰なのか。
感情がない。
友もいない。
敵もいない。
ただ――標的。
彼女もまた、標的だった。
紫の闇がさらに濃くなる。
胸の奥には二つの感情が存在していた。
俺自身。
そして、俺ではない何か。
「……死ね」
空虚な声。
次の瞬間、掌のブラックホールがエヴリンへ放たれた。
闇が唸る。
空気が吸い込まれる。
エヴリンの瞳が恐怖に見開かれる。
彼女は寸前で回避した。
紫の渦はそのままS級結界へ直撃する。
――CRAAASH!!
結界は砕け散った。
無数の光の破片が宙を舞う。
闇の渦は観客席へ突入し、竜巻のように暴れ始めた。
「きゃあああああ!」
「逃げろォ!!」
数千人の観客が悲鳴を上げ、闘技場は地獄絵図と化す。
その混乱の中。
マーリン王がエヴリンと共に降り立った。
俺の視線が向く。
新たな標的。
俺は消える。
王ですら追えない速度。
二人の前へ。
闇の渦を携えて。
リュウの攻撃が放たれる。
エヴリンの最強の魔法障壁。
決して破られないはずの盾。
――パキッ。
彼女の瞳が揺れた。
盾に亀裂が走る。
その時。
突如、一人の女性が現れた。
緑のローブ。
子供たちの紋章。
俺は知っている。
母さん……?
女性は迷わなかった。
右手を振り下ろし、緑の衝撃波を放つ。
リュウの身体が吹き飛び、小さなクレーターが生まれる。
黒い瞳が彼女を見つめる。
その奥に、わずかな迷いが浮かんだ。
女性は左手で魔法印を結び、呪文を唱える。
――ガァァァン!!
闘技場の地面から無数の鎖が噴き出した。
鮮やかな緑色に輝く魔法鎖。
それらがリュウの両手両足を拘束する。
紫のオーラが暴走する。
鎖が悲鳴を上げる。
限界が近い。
女性は駆けた。
右拳に緑の魔法陣が凝縮される。
鎖が砕ける寸前。
彼女はリュウの胸へ拳を叩き込んだ。
その拳は胸元――星のペンダントへと直撃する。
俺は感じた。
それは痛みではなかった。
純粋な衝撃。
緑の力が胸へ流れ込む。
絶対の闇が崩れていく。
知らない感情が消えていく。
身体の主導権が戻ってくる。
星のペンダントが激しく震える。
黒い視界がゆっくりと薄れていく。
世界が灰色へ戻る。
そして。
あの激痛が再び全身を蝕み始めた。
意識が沈む。
すべてが暗闇へ溶けていった。
エヴリンとマーリン王は、その光景をただ見つめることしかできなかった。
そこに立っていたのは、リュウ・セレスティアを育てた孤児院の院長だった。
彼女は深く頭を下げる。
その顔には深い悲しみが浮かんでいた。
「申し訳ありません、陛下」
静かだが強い声だった。
「この子の中にある力は……時として本人にも制御できないのです。私が……きちんと見守れませんでした」
生き残った王国兵たちが集まり、リュウ、倒れたクロガネ、そして彼女を包囲する。
槍が向けられる。
警戒は消えない。
だがマーリン王は一つの確信を得ていた。
リュウ・セレスティア。
その少年は恐るべき闇の力を持つ。
そしてその力こそが、アバレントの脅威に蝕まれつつあるヘブリー星を救う鍵なのかもしれない。
こうしてリュウ・セレスティアは若くして王国軍総司令官へ任命された。
それは栄光の勝利ではない。
他に選択肢がなかったからだ。
王国は彼を拘束し、その力を調査した。
尋問。
魔法実験。
だが何も判明しない。
孤児院の院長だけが知っていた。
その力は意識を失った時にのみ現れる。
だからこそ、エヴリン、マーリン王、そして限られた者たちだけが、その暴走を封じる方法を知らされた。
やがてリュウは解放される。
しかし。
あの日の恐怖は王国から消えなかった。
黒い瞳。
死神の大鎌。
絶対の闇。
その記憶は人々の心に深く刻まれた。
噂は瞬く間に広がる。
リュウは災いを呼ぶ貧民。
怪物よりも恐ろしい存在。
ヘブリー王国へ呪いをもたらす男。
そして。
まるでその噂を裏付けるように、彼が総司令官へ就任して以降、王国には次々と災厄が訪れた。
ゼフィリオン近郊の村で起きたアバレント襲撃事件。
貴族の子供の誕生日会が血に染まった惨劇。
そして。
人類史上最大級の悲劇。
二千万もの命を呑みかけた大災害――
アバレント侵攻。
すべては偶然なのか。
リュウが王国へ現れたからなのか。
誰かが彼を脅威として認識しているのか。
そして。
リュウ・セレスティアの力の正体とは何なのか。
その力は世界を救う鍵なのか。
それとも。
より巨大な破滅の前兆なのか。
闇は目覚めた。
そして――
リュウ・セレスティアこそが、その中心に立つ存在だった。
「この物語をここまで続けてこられたのは、ひとえに皆さんの応援のおかげです。もし各話を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと評価をお願いします。こうした皆さんのあたたかいサポートが、次のお話を書くための大きな励みになります。この物語の旅路に寄り添ってくださり、本当にありがとうございます!」




