第一章 第26部 ―― リュウ・セレスティア外伝(6)
世界が崩れ落ちた。
目の端を侵食していく闇を感じながら、俺の頭に浮かんだのは、その言葉だけだった。
たった一度――本当に、たった一度瞬きをしただけだ。
次の瞬間、クロガネの姿はもうそこになかった。
目の前の空気が爆ぜる。
視界に巨大な戦鎚が映るより先に、純粋な圧力が顔面を叩きつけた。あの巨体が、常識を嘲笑うような速度で迫ってくる。もはや速いなどという次元ではない。理屈そのものを踏み潰す暴力だった。
叫ぶ暇すらなかった。
最初の一撃が脇腹に叩き込まれる。
轟音とともに俺の身体は壊れた人形のように宙へと弾き飛ばされ、肋骨が嫌な音を立てて砕け散った。
血が口から噴き出し、赤い軌跡を空中へ描く。
世界が痛みに染まる。
クロガネは止まらない。
まだ空中にいる俺を追いかけ、その巨大な戦鎚を再び振り抜いた。
二撃目。
肩に叩き込まれた衝撃で関節があり得ない方向へねじ曲がる。
俺は結界へと激突した。
轟音。
S級結界が激しく震え、俺の身体はそのまま地面へ叩き落とされる。
苦しい。
痛い。
そんな言葉では足りない。
だが、クロガネはまだ終わらせてくれなかった。
「がっ……!」
胸を踏みつけられる。
肺から血が噴き出した。
かつて人から整った顔だと言われたこの顔も、今では原形を留めていない。裂傷と青黒い痣に覆われ、骨すら歪んでいる。
遠くから声が聞こえた。
「リュウ!! だめっ!! やめて!!」
エヴリンの声だった。
悲鳴のようなその叫びは、純粋な恐怖と悲しみに震えていた。
王座の上で彼女が必死にもがいている。
緑色の魔力が荒れ狂い、身体の周囲に溢れ出しているのが見えた。
だが、マーリン王は必死に娘を押さえつけていた。
「エヴリン、落ち着け! 危険すぎる! 王家が直接介入すれば王国の威信に関わる!」
マーリン王は叫ぶ。
そしてすぐに兵士たちへ命令した。
「王国騎士団! 直ちに闘技場へ! あの子が殺される前にクロガネを止めろ!!」
しかし。
遅かった。
王国兵たちが次々と闘技場へ雪崩れ込む。
槍を構え、剣を抜き、クロガネを包囲する。
だが。
何もかもが無意味だった。
「ハハハハハハッ!!」
怪物の笑い声が闘技場を震わせる。
巨大な戦鎚がたった一度振り抜かれた。
それだけだった。
数十人もの兵士たちが木の葉のように吹き飛び、地面を転がる。
誰も立ち上がれない。
誰も止められない。
クロガネは笑いながら、血まみれの俺を見下ろした。
視界が霞む。
世界が揺れている。
俺は……。
ただ、自分にできることを証明したかっただけだ。
この残酷な世界で生きていくための金が欲しかっただけだ。
孤児院の母さんに会いたかった。
行方不明になったヴォラが心配だった。
そして――エヴリン。
俺に向けてくれた、あの優しい笑顔。
『ごめん……エヴリン……』
『ごめんなさい、母さん……』
『ごめん……ヴォラ……』
「俺は……やっぱり、頼りないな……」
腫れ上がった目から涙が流れた。
それが涙なのか、血なのかすらもう分からない。
その時だった。
クロガネが戦鎚を振り上げる。
巨大だ。
あまりにも巨大だ。
ぼやけた視界の中ですら、その死の重みだけははっきりと分かった。
観客たちが悲鳴を上げる。
誰もが目を覆った。
何が起きるか分かっていたからだ。
俺は思った。
――ここで終わるんだ。
そして。
轟音。
戦鎚が全力で振り下ろされた。
――――。
痛み。
それはもはや痛みなどではなかった。
骨が砕ける。
内臓が破裂する。
神経という神経が絶叫する。
千匹の魔物に引き裂かれ、灼熱の釜で煮られ、氷獄へ閉じ込められる。
そんな苦痛が一瞬で押し寄せてくる。
身体が壊れる。
魂が壊れる。
存在そのものが砕けていく。
闇が俺を包み込んだ。
終わりではない。
ただ、この苦しみから逃れるための唯一の場所として。
――――。
リュウ・セレスティアの身体が空高く吹き飛んだ。
粉砕された肉体が空中を舞う。
観客たちは言葉を失った。
エヴリンの瞳が震える。
自分を助けようとしてくれた少年が、ただの肉塊へと変わっていく光景。
やがてリュウの身体は地面へと墜落した。
轟音。
闘技場に巨大なクレーターが生まれる。
クロガネは勝ち誇ったように笑った。
「ハハハハハッ!! 下等なゴミは所詮ゴミだ!!」
エヴリンの瞳から光が消えていく。
希望をくれた少年は、もういない。
彼女の顔が怒りに染まる。
拳が白くなるほど握り締められる。
激しい緑の魔力が小さな身体から噴き出した。
誰もが息を呑む。
王女エヴリンの怒り。
その恐ろしさを誰もが肌で感じていた。
エヴリンは俯いた。
涙が止まらない。
マーリン王が慌てて声をかける。
「エヴリン……落ち着くんだ……」
「どうして……落ち着けるんですか……」
涙に震える声。
「目の前で……人が殺されたんです……」
「しかも……その人は……」
言葉が途切れる。
「私を助けようとしてくれた人なんです……」
肩が震える。
「私が巻き込まなければ……彼は……生きていたかもしれない……」
エヴリンの心は完全に砕けていた。
クロガネはそんな彼女を見て嗤う。
「俺が最強だ!! ハハハハ!!」
怒号が闘技場を揺らす。
「昔からお前らは俺と同じ土俵にすら立っていなかった!! 醜い顔だからという理由で門番に追いやった!! だが今は違う!! この王国で最強なのは俺だ!!」
観客たちは恐怖に震える。
マーリン王は娘を押さえ続ける。
だが。
エヴリンは剣を抜いた。
蒼い光を宿す魔剣。
強大な魔力が彼女の周囲を包み込む。
クロガネは笑う。
「来いよ、エヴリン王女。未来の夫に触れられたいなら、相手になってやるぞ?」
その笑みは醜悪だった。
エヴリンの胸が怒りと悲しみで焼ける。
彼女は父の手を振り払おうとした。
その時だった。
――――"ドォォォォォォン"
紫色の大爆発が天へと突き上がった。
巨大な紫のドームが闘技場を覆う。
晴れていた空は一瞬で闇に飲み込まれる。
黒雲が渦巻き、世界そのものが夜へと変わった。
誰もが空を見上げる。
魔術師たちも。
兵士たちも。
マーリン王も。
エヴリンも。
クロガネでさえ。
その爆発が起きた場所。
そこは。
クロガネがリュウを叩き潰した場所だった。
「……リュウ?」
エヴリンの瞳に再び光が宿る。
観客たちがざわめく。
マーリン王が立ち上がる。
結界すら激しく震えていた。
空気が冷える。
息が白くなる。
骨まで凍えるような死の気配。
そして――。
崩壊したクレーターの中央。
一人の少年が立っていた。
リュウ・セレスティア。
僅かに俯いたまま、その場に立っている。
砕かれた顔は元に戻っていた。
裂傷は消え、痣は消滅し、折れた骨は何事もなかったかのように繋がっている。
まるで。
最初から傷など存在しなかったかのように。
だが。
最も恐ろしかったのはその瞳だった。
澄んだ青だった瞳。
それが今は。
永遠の闇を映したような漆黒へと変わっていた。
ゆっくりと顔を上げる。
黒い瞳がクロガネを見据える。
クロガネの目が見開かれる。
「ハハ……面白い……! まだ終わっていなかったか、坊や!」
笑う。
だがその笑いは先ほどとは違う。
わずかな緊張が混じっていた。
「そんな力を隠していたとはな!!」
戦鎚を構える。
しかしその動きには明らかな警戒があった。
観客たちは息を呑む。
エヴリンはリュウから溢れる力を感じていた。
違う。
大きいなどという話ではない。
測れない。
深さが分からない。
その魔力はまるで――。
人間ではない。
闇そのものが形を取った存在。
「これが……彼の本当の力……?」
エヴリンは眉を寄せる。
そして黒い瞳を見る。
「意識を失っている……?」
それはマーリン王も同じ結論だった。
静寂。
重苦しい沈黙が闘技場を支配する。
クロガネは無理やり笑った。
「いいだろう!! 本気になったなら教えてやる!! 二度目の絶望というものをな!!」
戦鎚を石畳へ引きずる。
火花が散る。
一歩。
また一歩。
巨大な怪物が迫る。
だが。
リュウ・セレスティアは動かない。
紫の闇を纏いながら。
ただ静かに立っている。
そして。
黒い瞳がクロガネを見つめた。
『下等な存在が……誰にも負けないかのように振る舞うとはな』
その声は冷たい。
感情がない。
心臓を凍らせるほど冷酷だった。
クロガネの身体が震える。
恐怖。
純粋な恐怖が胸を刺した。
「貴様ァァァァ!!」
大地を揺らしながらクロガネが突進する。
燃え盛る炎を纏った戦鎚を振り上げる。
再びリュウを粉砕するために。
しかし。
その動きは。
あまりにも遅かった。
リュウの黒い瞳の中では、クロガネの動きはまるで止まっているかのようだった。
リュウはただ視線だけを動かす。
身体は微動だにしない。
そして。
空虚な声が闘技場全体へ響いた。
「教えてやろう……」
「本当の絶望というものを」
その瞬間。
クロガネが相手にしているのは、先ほどまでのリュウ・セレスティアではなかった。
それはまるで――。
死そのものが、この世界に再び目を覚ましたかのようだった。
「この物語をここまで続けてこられたのは、ひとえに皆さんの応援のおかげです。もし各話を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと評価をお願いします。こうした皆さんのあたたかいサポートが、次のお話を書くための大きな励みになります。この物語の旅路に寄り添ってくださり、本当にありがとうございます!」




