第一章 第25部 ―― リュウ・セレスティア外伝(5)
焦げた鉄と錆の臭いが鼻を刺した。
タケオとの死闘を終えた俺は、ふらつく足取りのまま闘技場の端へと戻っていた。候補者たちの視線が突き刺さる。そこにあるのは驚愕と嫌悪。
だが、その中でも世界のどんな氷よりも冷たい視線を向けている男が一人だけいた。
クロガネ。
“門番の怪物”――S級魔導師。
俺はできる限り彼から距離を取った。
あの巨躯から放たれる圧迫感は周囲の空気そのものを重く変え、息を吸うたび肺が軋むような苦痛を伴っていた。
試合は続いていく。
俺は傷だらけの身体を冷たい石柱に預け、荒い呼吸を繰り返しながら次々と行われる戦いを見つめていた。
そして――。
ついにクロガネの名が呼ばれる。
対戦相手はA級魔導師、ソウタ。
水属性の紋様が刻まれたマントを纏い、両手首には淡い蒼光を放つ魔装具が輝いている。
だが、その光は彼の恐怖を隠しきれなかった。
この距離からでも分かる。
膝が激しく震えている。
足元はおぼつかず、呼吸は浅く乱れ、青ざめた唇からはまとまりのない詠唱が漏れていた。
――ドォォォン!!
死刑宣告のような鐘が鳴り響く。
その瞬間。
本当に瞬きする暇すらなかった。
クロガネの姿が消えた。
あの二メートルを超える巨体が、常識を嘲笑う速度で移動したのだ。
速いなどという次元ではない。
黒い雷そのものだった。
――BOOOM!!
ソウタの全身ほどもある巨大な戦槌が振り下ろされる。
必死に展開した水の防壁。
だが、それは防御ですらなかった。
轟音とともに空気が爆発する。
クロガネの戦槌は灼熱の炎を纏っていた。
赤ではない。
白熱する橙色。
離れた場所にいる俺の皮膚すら焼くほどの熱量。
水の結界は砕け散っただけではない。
瞬時に蒸発した。
眩い蒸気爆発が闘技場を覆い尽くす。
ソウタは吹き飛ばされた。
地面を転がり、恐怖に目を見開いたまま後退していく。
服は裂け、蒸発しきれなかった水で全身が濡れていた。
だが、クロガネは追わない。
ゆっくりと歩く。
重く。
静かに。
そして恐ろしい。
巨体が一歩踏み出すたび、闘技場全体が震えた。
巨大な槌を引きずり、石床に深い傷跡を刻みながら。
怪物の口元に歪んだ笑みが浮かぶ。
抵抗する力すら失ったソウタの前で立ち止まり、ゆっくりと槌を掲げた。
そこに慈悲はない。
「やめろ!!」
司会者の声が魔法によって増幅され、会場へ響き渡る。
その声は震えていた。
だが、クロガネは聞いていない。
聞く気すらなかった。
戦槌が振り下ろされようとした、その瞬間。
青い閃光が駆け抜ける。
S級魔導師ヴェリオン。
彼は二人の間へ割り込み、両手を広げた。
透明な魔力の網が展開され、クロガネの槌を空中で受け止める。
クロガネは苛立たしげに舌打ちした。
「……邪魔をするか」
低い唸り声。
「この大会で殺しは禁止されている。クロガネ」
ヴェリオンは静かに言った。
金髪を後ろで結び、青い貴族風のローブを纏ったその男は、優雅な笑みを浮かべている。
その穏やかさが、この狂気の中では逆に恐ろしく見えた。
「少しはルールを守ってくれないかな?」
「貴様ァ……ヴェリオンッ!!」
咆哮。
純粋な怒気が衝撃波となって炸裂した。
クロガネの腕が膨れ上がる。
筋肉が軋む。
そして――。
バキィッ!!
魔力の鎖が無理やり引き千切られた。
まるで細い糸でも断つかのように。
ヴェリオンの眉がわずかに上がる。
「……ほう。これを力で破るか。実に興味深いね」
だが。
会場を覆う空気は凍り付いていた。
観客たちは息を呑む。
国王席ではマーリン王が手を上げ、試合中止を命じようとしている。
しかしクロガネは王ですら眼中になかった。
エヴリンは父の隣で震えていた。
彼女の瞳はクロガネを見つめている。
すべての候補者を恐怖で屈服させ、自分だけが勝者になろうとしている怪物を。
そして。
その怪物の妻になる未来を想像してしまったのだろう。
その美しい顔には、はっきりとした嫌悪が浮かんでいた。
「お父様……どうするの……?」
震える声。
マーリン王は重々しく息を吐く。
「クロガネは強すぎる……今ここで止めれば、会場そのものが崩壊しかねない。安心しなさい。ヴェリオンならば勝てるはずだ」
そう言いながらも、王の手は玉座を強く握り締めていた。
そして。
その瞬間だった。
世界がゆっくりと動き始める。
色彩が薄れていく。
俺の視界に映るのはヴェリオンとクロガネだけ。
ヴェリオン。
伝説的な速度を誇るS級魔導師。
だが彼は防御魔法すら唱えられなかった。
ほんの一瞬。
思考が止まったのだ。
◇
【ヴェリオン視点】
見えた。
あの槌が。
それはもはや物理的な一撃ではなかった。
燃え盛る赤い空間そのもの。
人の視覚を超えた速度。
空気が消える。
極限の圧力が全身を押し潰す。
指先に残る魔力すら、まるで他人のもののように反応しない。
恐怖。
純粋な恐怖。
痛みはない。
ただ理解した。
――ここで、終わる。
◇
【リュウ視点】
次の瞬間。
――グシャッ。
嫌な音が闘技場に響いた。
ヴェリオンの頭部が。
巨大な槌によって、一瞬で粉砕された。
KRAAAK!!
肉と骨の砕ける音。
身体は弾丸のように吹き飛び、透明なS級結界へ叩きつけられる。
結界が大きく震えた。
ひび割れそうになるほどに。
観客席から悲鳴が上がる。
歓声ではない。
恐怖そのもの。
血が滴る。
もはや原形を留めていないヴェリオンの顔から。
クロガネは悠然と立っていた。
赤く燃える槌を握ったまま。
「クズが」
低い声が会場を震わせる。
「S級だと? 貴様らと俺を一緒にするな。俺は同じS級でも格が違う」
その眼光が候補者たちへ向く。
「次の標的になりたくなければ……大人しく降参しろ」
誰も動けない。
クロガネは死んだヴェリオンすら見向きもしない。
彼はなおもソウタへ歩み寄る。
片手で身体を持ち上げる。
そして。
殴る。
蹴る。
骨が砕ける音。
悲鳴。
誰も止められない。
司会者が駆け寄った。
だがクロガネはその首を掴み。
まるでゴミでも投げ捨てるかのように放り投げる。
男は結界へ叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
俺はただ見ていた。
理解できない。
観客たちは泣き叫ぶ。
S級結界によって守られているはずなのに。
それでも恐ろしかった。
クロガネはもはや選手ではない。
災害だった。
「みんなで攻撃しろ!!」
誰かの叫び。
魔導師たちが一斉に魔法を放つ。
炎。
氷。
風。
だが。
クロガネは槌を振るうだけだった。
その瞬間、魔法が槌へ吸い込まれていく。
炎はさらに激しく燃え上がる。
そして。
戦槌が地面へ叩きつけられた。
――ドゴォォォォン!!
雷と炎の衝撃波。
稲妻のような速度。
魔導師たちは次々と吹き飛び、結界へ叩きつけられていく。
マーリン王が立ち上がった。
顔色は蒼白だった。
神聖であるはずの大会。
それが目の前で崩壊していく。
そして。
クロガネだけが立っていた。
倒れ伏す魔導師たちの中央で。
「ハハハハハ!!」
岩が崩れるような笑い声。
「俺が勝者だ!! マーリン王!!」
王座を見上げる。
「約束を果たせ!! 俺を王国軍総司令官にしろ!! そしてエヴリン王女を俺の妻にしろ!!」
牙を見せた笑み。
それはまさしく怪物だった。
エヴリンは顔をしかめる。
嫌悪。
怒り。
恐怖。
「お父様……こんなの、認められません……!」
マーリン王は深く息を吐いた。
肩が落ちる。
まるで一瞬で老いてしまったかのように。
「マーリン王」
クロガネが近づく。
「俺の力を見ただろう? まだ疑うのか?」
王は目を伏せる。
「エヴリン……約束は守らねばならない……」
その言葉に。
エヴリンの瞳が震えた。
だが次の瞬間。
彼女は立ち上がる。
「……私ならクロガネを殺せます」
冷たい声。
澄んだ声。
会場全体が凍り付いた。
「もし彼が私に勝てないのなら……私は誰のものにもなりません」
マーリン王は沈黙した。
観客たちも息を呑む。
「エヴリン王女が……あんな男と……?」
「あの顔……まるで怪物じゃないか……」
「王女様が可哀想だ……」
その囁きは。
クロガネの耳にも届いた。
彼の顔が真っ赤に染まる。
怒り。
憎悪。
苦痛。
咆哮が炸裂した。
「なぜだァァァァァ!!」
轟音。
結界に亀裂が走る。
「この醜い顔を持っているだけで、俺は女を望んではいけないのかァァァ!!」
荒い呼吸。
真っ赤な瞳。
再びマーリン王を睨みつける。
「さっさと勅命を下せ!! 俺は全員を倒した!!」
俺はエヴリンを見た。
彼女は震えている。
力が怖いんじゃない。
あれは嫌悪だ。
怪物と共に生きなければならない未来への恐怖。
自由を奪われる恐怖。
暗い未来への恐怖。
俺の拳が石柱を強く握り締める。
白くなる指。
全身の痛み。
心の恐怖。
そのすべてが一つになっていく。
俺は。
このままにはできない。
エヴリンの未来を。
あの怪物に奪わせるわけにはいかない。
残された力。
残された勇気。
最初に賭けた覚悟。
そのすべてをかき集める。
「おい……俺はここだ」
俺の声が。
静寂を切り裂いた。
「まさか……俺のことを忘れたわけじゃないよな?」
観客が凍り付く。
マーリン王も目を見開く。
エヴリンは――。
恐怖に震えていたその瞳に。
再び光が宿った。
希望。
魔導師たちも驚愕していた。
傷だらけの身体を引きずりながら。
俺は崩壊した闘技場へ歩き出す。
一歩。
また一歩。
激痛が身体を貫く。
それでも止まらない。
「ば、馬鹿な……!」
負傷した魔導師が呟く。
「ヴェリオンも……全員がやられたんだぞ……! あいつは何を考えてる……!」
観客たちは沈黙した。
貧しい少年が。
怪物へ立ち向かう。
クロガネは笑う。
「ハハハハハ!!」
侮蔑に満ちた笑い。
「ようやく出てきたか……可愛い坊や」
重い声。
「姿が見えなかったから、逃げたのかと思ったぞ」
そして。
彼は笑った。
純粋に――恐ろしい笑みだった。
当然だ。
俺の身長は百七十センチ。
クロガネは二メートル。
全身を覆う筋肉。
無数の傷跡。
俺はまるで蟻だった。
身体は震えている。
怖い。
本当に怖い。
顔を見るだけで足が竦む。
勝てない。
そんな確信さえあった。
それでも。
せめて。
始めたのなら。
終わらせるのも俺だ。
たとえ。
その結末が俺自身の終わりだったとしても。
――俺は始めた。
だから逃げない。
それが自分との約束。
エヴリンとの約束。
「いいだろう、坊や」
クロガネの笑みがさらに深まる。
燃え上がる戦槌。
「お前を……叩き潰してやる」
戦槌が回転する。
炎と暴風が渦を巻く。
そして。
怪物は俺に向かって駆け出した。
エヴリンの目が見開かれる。
叫ぼうとした唇。
観客たちは息を呑む。
恐怖。
絶望。
そのすべてが闘技場を支配する中――。
クロガネの巨体が、一直線に俺へと迫っていた。
「この物語をここまで続けてこられたのは、ひとえに皆さんの応援のおかげです。もし各話を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと評価をお願いします。こうした皆さんのあたたかいサポートが、次のお話を書くための大きな励みになります。この物語の旅路に寄り添ってくださり、本当にありがとうございます!」




