第一章 第二十四部――リュウ・セレスティア外伝(4)
彼の口元に、ゆっくりと冷たい笑みが刻まれる。
「いいだろう。そこまで死にたいっていうならな」
ドォォォン――!!
闘技場の鐘が轟音とともに鳴り響いた。
張り詰めていた静寂を打ち砕くその金属音は、まるで命を賭けた戦いの開幕を告げる死神の鐘のように、巨大なスタジアム全体へとこだました。
その瞬間――
世界が、ゆっくりと動き始めた。
Takeoの姿が消える。
いや、消えたように見えた。
彼の身体は黒い影へと溶け込み、白紙へ垂らされた墨汁のように滑るように駆け抜ける。頬を掠める風が、かすかな冷気を運んできた。
――左だ!
本能が叫ぶ。
俺は反射的に身体を捻った。
シュッ――!
避けきったはずだった。
だが、影の刃先はわずかに俺の頬を切り裂いた。
焼けるような痛み。
続いて温かな液体がゆっくりと皮膚を伝い落ちていく。
血だ。
息を整える暇すらない。
Takeoの姿が再び消えた。
全身の毛穴が一斉に開く。
背後。
頭のすぐ後ろに、重い圧力が現れた。
考えるより先に、俺は前方へ身体を投げ出した。
ブォン――!
黒い斬撃が髪の数センチ上を通過する。
宙に舞った髪が何本も切り裂かれ、風に散っていった。
速すぎる。
ただ速いだけじゃない。
こいつは――影そのものを渡って移動している。
俺はひたすら後退を強いられていた。
淡い青色の電撃障壁。
俺が持つCランク程度の防御魔法が、影の攻撃を受けるたびに激しく軋む。
バキッ――!
障壁の表面に細かな亀裂が走った。
一撃ごとに身体が潰されるような衝撃。
胸が苦しい。
肋骨が内側から握り潰されているかのようだった。
膝が震える。
今にも崩れ落ちそうになる。
それでも俺は立ち続けた。
額を冷たい汗が流れる。
呼吸が喉を焼く。
考えろ。
焦るな。
パターンを探せ。
影移動には必ず起点がある。
Takeoの笑い声が闘技場に響いた。
獲物を追い詰めた狩人の笑い。
「ハハハハハッ!」
彼は高く跳躍した。
その足元の影が爆ぜる。
黒い刃が十数本。
まるで針の雨のように俺へ降り注いだ。
俺は身体を回転させる。
両手に雷光が踊った。
バチッ! バチッ!
次々と影の短剣を弾く。
だが、数が多すぎた。
一撃。
その一本が防御を突破した。
ドォン!!
凄まじい衝撃が胸を打つ。
肺の中の空気が一瞬で吐き出された。
身体が宙へ浮く。
そして――
ドガァァン!!
俺は闘技場の石床へ激突した。
冷たい石の感触が全身へ広がる。
視界が回転した。
空。
観客席。
すべてがぼやけて混ざり合う。
耳へ飛び込んできたのは歓声だった。
だが、それは勝利を称える声ではない。
「貧乏人の負け犬め!」
「ははは! みっともない!」
「その程度かよ!」
嘲笑。
罵倒。
それらは身体の傷よりも深く胸を抉っていく。
ゆっくりと顔を上げる。
王族席。
そこにはEvelynがいた。
彼女は俯いている。
小さな肩がかすかに震えていた。
金色の髪が顔を隠している。
だが分かった。
彼女は涙を堪えている。
――まだだ。
終わってない。
司会者が手を上げる。
敗北宣言をしようとしている。
その瞬間、俺は闘技場の床を掴んだ。
指先が震える。
爪が石を引っかき、小さな音を立てる。
残された力をすべて振り絞って。
俺は立ち上がった。
足が揺れる。
今にも倒れそうだった。
全身が悲鳴を上げている。
それでも。
俺は立つ。
「……俺は、まだ負けてない」
掠れた声が闘技場に響いた。
静寂。
スタジアム全体が凍りつく。
Takeoが足を止めた。
目を細める。
そして再び、侮蔑の笑みを浮かべた。
「まだ這い回るつもりか?」
彼はゆっくりと近づいてくる。
余裕。
慢心。
絶対的な自信。
そして――
その時、俺は見つけた。
ほんの一瞬の隙。
Takeoが影から現れる瞬間。
影がわずかに不安定になる。
見つけた。
そこが弱点だ。
俺はわざと隙を見せた。
誘う。
その間に、闘技場の床の一点へ静電気を流し込む。
Takeoは薄く笑った。
予想通り。
一直線に突っ込んでくる。
影の剣が振り上げられる。
――今だ!!
俺は拳を握った。
バチィィィィィッ!!
青い雷光が地面から爆発した。
荒れ狂う電流が影を伝い、Takeoの身体へと襲いかかる。
彼の目が見開かれた。
初めて。
その自信に満ちた表情が崩れる。
ドガァァァァァン!!
青白い閃光が闘技場全体を包み込んだ。
Takeoの身体が壊れた人形のように吹き飛ぶ。
ガァァァン!!
彼は外壁へ激突した。
巨大な亀裂が壁一面へ走る。
やがて。
その身体は崩れ落ちた。
動かない。
静寂。
聞こえるのは俺の荒い呼吸だけ。
息を吸うたび、肺の奥が焼けるように痛む。
さっきまで嘲笑していた観客たちは固まっていた。
口を開け。
目を見開き。
誰も現実を理解できない。
司会者ですら言葉を失っている。
数秒後。
震える声がようやく響いた。
「しょ、勝者……リュウ・セレスティアァァァッ!!」
会場が再び騒然となる。
だが今度も歓声ではない。
「まぐれだ!」
「インチキだろ!」
「CランクがAランクに勝てるわけがない!」
ざわめきが乾いた草原を焼く炎のように広がっていく。
候補者席では魔導師たちの顔が赤く染まっていた。
「どうしてだ!?」
「俺が相手なら一秒で終わらせてた!」
誰もこの結果を受け入れられない。
俺はゆっくりと顔を上げる。
王座の上。
Evelynは立ち上がっていた。
先ほどまで曇っていた顔は、今や眩しい笑顔に包まれている。
その瞳は輝いていた。
周囲の視線など気にも留めず、彼女は両手を大きく振って俺へ声援を送っている。
その笑顔を見た瞬間。
身体を覆っていた疲労が少しだけ消えた気がした。
その隣で。
Merlin王は静かに微笑む。
(この少年……実に面白い)
力だけならCランク相当。
だが、その精神力。
敵の弱点を見抜く分析力。
それは多くの魔導師を遥かに凌駕していた。
(実に……見事な子だ)
だが――
その勝利の余韻は長くは続かなかった。
ドン。
ドン。
ドン。
重い足音。
その一歩ごとに闘技場が震える。
会話が止まる。
空気が凍る。
一人の巨漢が候補者席へ姿を現した。
身長は二メートル近い。
筋骨隆々の肉体。
その存在だけで空気が重くなる。
血のように赤い殺気が霧となって身体を包んでいた。
背負った巨大な戦槌からは凶悪な圧迫感が溢れている。
――Kurogane。
「情けねぇな。あんな女みてぇな男一人倒せねぇとは、王国魔導師の名が泣くぞ」
低く重い声。
胸の奥まで震わせるような響き。
誰一人として反論できない。
Kuroganeの視線がゆっくりとEvelynへ向く。
口元が歪む。
「この大会は俺が勝つ」
「戦争司令官の座も、Evelyn姫も……全部俺のものだ」
小さな笑い声。
だが、それこそが恐ろしかった。
やがてその目が俺へ向けられる。
治療を受ける俺を。
その視線は敵意ではない。
もっと濃く。
もっと醜い感情。
嫉妬。
会場中の男たちの中でも、ひときわ目立つ俺の容姿。
それが彼の胸を激しく苛立たせていた。
彼にとって脅威なのは俺の力ではない。
俺の顔だった。
Evelynの視線を奪いかねない存在。
それが許せない。
Kuroganeはまるで獲物を見つけた怪物のような目で俺を見つめる。
「次に会ったら、あの女みてぇな男を叩き潰してやる」
低い呟き。
だが、その場にいた誰もが身震いした。
殺気はさらに深まる。
「――俺が殺してやる」
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