第一章 第ニ十二部 ―― リュウ・セレスティア外伝(2)
「あれは……何だ?」
思わず声が漏れた。胸の奥で心臓が激しく脈打ち、その振動が肋骨を内側から叩いているようだった。
――まさか……Aberrants?
頭の中を最悪の想像が駆け巡る。遠方からゆっくりと近づいてくる異形の影に、俺は目を見開いた。息が詰まり、気づけば拳を固く握り締めている。
「心配しなくていいわ」
穏やかな声に振り返る。
エヴリン王女は微動だにせず、まっすぐ前を見据えていた。
「あれはこの訓練場の中には入れないもの」
その横顔には、恐怖の色など欠片もない。
俺は深く息を吸い込み、小さく頷いた。不思議なことに、彼女のその一言だけで胸を覆っていた不安が少しずつ薄れていく。
俺は訓練場の中央へ歩み出た。
彼女の前に立つ。
「名前を名乗って」
「は、はい。リュウ・セレスティアと申します、王女殿下」
俺は深々と頭を下げた。
「リュウ……ね。いいわ。それじゃあ、最初の訓練を始めましょう」
◇ ◇ ◇
その日が、俺にとって忘れられない修行の始まりだった。
エヴリンは最初から剣を持たせることも、呪文を覚えさせることもしなかった。
彼女が俺を立たせたのは、数十個もの小さな結晶が宙を漂う透明な魔法陣の中心だった。
「魔法は使わないで」
俺は頷く。
「自分の中を流れる力を感じなさい」
簡単そうに聞こえた。
だが――
何も感じない。
「……空っぽだ……」
「もう一度」
目を閉じる。
集中する。
それでも駄目だった。
エヴリンは次に無数の光球を生み出した。
蛍のような小さな光が、俺の周囲をゆっくりと飛び回る。
「目で見ないで」
彼女の声が静かに響く。
「マナで感じるの」
俺は目を閉じた。
ひとつを捕まえようとする。
失敗。
コツン。
光球が額にぶつかった。
「いてっ……」
エヴリンは小さくため息をつく。
「もう一回」
挑戦。
失敗。
もう一回。
失敗。
何度も。
何度も。
次の訓練はさらに奇妙だった。
薄い石板の上に立たされたのだ。
しかもその石は地面から数センチ浮いている。
「足裏のマナを制御して、バランスを保ちなさい」
三秒後。
どさっ。
俺は盛大に転んだ。
「もう一回」
立ち上がる。
どさっ。
また落ちる。
「もう一回」
どさっ。
石は容赦なく俺を芝生へ叩き落とした。
全身が痣だらけになっていく。
息は荒く、腕も足も震えていた。
だが、エヴリンは一切同情しなかった。
「立って」
俺は歯を食いしばる。
彼女はまっすぐ俺の目を見た。
「ここで諦めたら、その力は一生“可能性”のまま終わるわ」
俺は再び立ち上がった。
次の訓練はさらに過酷だった。
空中に数十もの小型魔法陣が浮かび、複雑な軌道で動き始める。
「指先にマナを流して。魔法にはしないで。その流れを魔法陣に合わせるの」
俺は集中した。
だが集めたマナは指先で小さく爆ぜた。
「あっ……!」
熱が腕を駆け上がる。
「失敗」
もう一度。
失敗。
もう一度。
失敗。
何度繰り返したか分からない。
視界が揺れる。
身体が限界に近づいていた。
その時だった。
古い建物の光景が頭に浮かぶ。
孤児院。
食べ物が足りなくても、いつも笑っていた院長先生。
帰りを待っていた子供たち。
そして――
ヴォラの笑顔。
この王国で初めてできた友達。
『リュウ……きっといつか、すごい人になれるよ』
その声がはっきりと聞こえた。
俺は歯を強く噛み締める。
まだだ。
ここで終わるわけにはいかない。
俺はゆっくり息を吸った。
初めてだった。
マナを無理に引きずり出そうとするのをやめた。
代わりに――
流れに身を任せた。
温かい。
穏やかだ。
まるで岩の間を流れる川のように。
エヴリンの目がわずかに見開かれる。
「……それよ」
彼女が小さく呟いた。
周囲のマナが呼吸に合わせて動き始める。
宙に浮かぶ結晶がゆっくりと俺の周囲を回転した。
「維持して」
俺は頷く。
汗が頬を伝う。
手が震える。
だが今度は暴発しない。
マナが従っていた。
「続けて!」
俺は拳を握る。
流れが掌へと集まる。
――バチッ。
小さな雷光が指先に生まれた。
エヴリンの瞳が輝く。
「いいわ! 止めないで!」
俺は手を掲げた。
小さな火花はやがて細い雷となり、空中で踊り始める。
俺は――
成功した。
エヴリンの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「それがあなたの力よ」
訓練はその後も続いた。
攻撃の軌道を読むこと。
最小限の動きで回避すること。
最も効率的な瞬間に攻撃すること。
そして、自分の中に眠っていた雷属性魔法を制御すること。
◇ ◇ ◇
気づけば太陽は山の向こうへ沈みかけていた。
空は赤く染まり、夕風が静かに吹いている。
俺とエヴリンは大きな木の下に腰を下ろしていた。
「あー……疲れた……」
俺は温かな草の上へ寝転がる。
胸が上下し、息が荒い。
エヴリンはそんな俺を見てくすりと笑った。
今日は本当に大変だった。
だが、確かな成果もあった。
回避。
基本的な体術。
効率的な攻撃。
そして雷魔法。
これが俺の中に眠っていた力だったのか。
ふと疑問が浮かぶ。
俺は夕焼けを見つめるエヴリンへ視線を向けた。
「エヴリン王女……どうして俺を選んだんですか? どうして魔導闘技大会に誘ったんです?」
彼女はこちらを見る。
年齢は俺とそう変わらない。
だが纏う空気はずっと大人びていた。
強い。
この王国のS級魔導師ですら敵わないと噂されるほどに。
そんな彼女が、どうして俺なんかを。
「……本当に知りたいの?」
夕風が二人の前髪を揺らした。
「たぶん……運命だから」
頬がほんのり赤い。
「王女殿下、誤魔化さないでください。ただ理由が知りたいんです」
彼女は小さく笑う。
「そうね……本当は、あなたの中にある力を見たから」
俺は首を傾げた。
「あなたのエネルギーはとても大きいの。しかも不思議なくらい深い……正直、私にも底が見えないわ」
その瞳が真剣になる。
「だから選んだの」
そして優しく微笑んだ。
「あなたならきっと、この王国の魔導闘技大会で優勝できるって信じてるから」
「つまり俺に賭けてるんですか?」
「違うわよ。賭けるなら最初から優秀な魔導師を選ぶもの」
俺は思わず頬を膨らませた。
完全に遠回しな悪口だ。
エヴリンは苦笑する。
「実は、お父様――マーリン王が悪い予感を感じているの」
声が少しだけ弱くなる。
「いずれAberrantsがこの王国を襲うかもしれないって」
俺は黙って聞いた。
「だから大会を開くの。最強の魔導師を選ぶために。優勝者は王国軍の総司令官になるわ」
「それだけじゃないの……」
再び頬が赤くなる。
「……私が十九歳になった時、その人が望むなら結婚相手にもなる」
「えええっ!?」
俺は思わず立ち上がった。
「つまり王女殿下は、変なおじさん魔導師と結婚したくないから俺を選んだんですか!?」
「しーっ!」
エヴリンが慌てて俺の口を塞ぐ。
「大声出さないで!」
彼女は深く息を吐いた。
「……そうよ」
俯きながら指を絡ませる。
「傲慢な年寄り魔導師とか、自信家の若い魔導師なんて嫌なの」
顔を真っ赤にしながら俺を指差した。
「あ、あなたの方がまだマシって思っただけ! べ、別に好きとかじゃないから!」
俺は思わず笑ってしまった。
「つまり王女殿下も賭けをしてるんですね」
「そうよ……だから、リュウ……お願い」
その目が弱々しく揺れる。
「勝って。もし負けたら……」
身体を震わせる。
「あんな魔導師たちと結婚することになるんだから!」
「いやぁぁぁ!」
顔を覆いながらその場でぴょんぴょん跳ねるエヴリン。
俺は苦笑するしかなかった。
「分かりました。大会、頑張ります」
彼女の瞳がぱっと輝く。
「本当!?」
その瞬間。
エヴリンは勢いよく俺に抱きついた。
俺は完全に固まる。
一歩後ずさる。
エヴリンも我に返った。
視線がぶつかる。
彼女は慌てて離れ、赤くなった顔を隠すように髪を撫でた。
「あ、その……ごめんなさい。嬉しくて……」
ぎこちない笑み。
――これが。
俺とエヴリンの始まりだった。
◇ ◇ ◇
翌日。
明日の昼には大会が始まる。
エヴリンによって、俺の名前はすでに登録されていた。
王国中がその戦いを見る。
そう思うだけで胃が痛い。
緊張。
だが同時に高揚もあった。
大会の前。
俺はヴォラを探してHeavLy王国中を歩き回った。
裏路地。
市場。
公園。
いつも彼女がいた場所。
だが――
どこにもいない。
まるで最初から存在しなかったかのように。
俺は彼女に話したかった。
勝ったらプレゼントも渡したかった。
それなのに。
結局、一度も会えなかった。
胸の奥にぽっかりと穴が開く。
苦しい日々を一緒に歩いた友達。
その存在が、跡形もなく消えてしまった。
「わっ!」
突然肩を掴まれた。
「うわっ!?」
飛び上がる俺を見て、エヴリンが楽しそうに笑う。
「王女殿下、人を驚かせるのはやめてください……心臓止まりますよ」
「こんなところで何してるの? 一時間後には始まるのに」
「友達を探してたんです。でも見つからなくて……」
俺は人混みへ目を向ける。
「へぇ? その人があなたの友達なら、私の友達でもあるわね」
「どうしていなくなったのか分からないんです」
胸騒ぎが消えない。
「大丈夫よ。大会が終わったら、一緒に探してあげるから」
なぜか彼女の頬はまた赤くなっていた。
俺は苦笑するしかない。
――ゴォォォン。
巨大な鐘の音が王国全体へ響いた。
参加者集合の合図だ。
「始まるわ」
エヴリンが俺の手を引く。
二人で通路を駆け抜ける。
そして――
闘技場へ出た瞬間。
数千人もの歓声が空気を震わせた。
俺は立ち尽くす。
巨大な観客席。
人、人、人。
その先には、王座に座るマーリン王と王国の重臣たち。
闘技場は巨大な透明結界によって囲まれていた。
まだ呼ばれていない参加者たちが並ぶ。
老魔導師。
若い魔導師。
誰もが強者の空気を纏っていた。
エヴリンは俺をその中へ連れていく。
すると――
一人の男性魔導師がこちらを見た。
「エヴリン王女。その男は?」
「今回の出場者よ」
彼女の声は冷たい。
鎧を纏った魔導師は大笑いした。
「どこでこんな負け犬を拾ってきたんです? 身体は細いし、顔は女みたいだ。男に見えませんよ」
俺は拳を握る。
「確かにな」
老魔導師が鼻で笑う。
「そんな細い腕で戦闘杖など持てるものか」
「ははは! 道に迷って入ってきたんじゃないか?」
「平民の服だぞ。本当に魔導師か?」
「平民なんて召使いがお似合いだろ」
「戦ったことすらないんじゃないか?」
「坊主、家へ帰れ」
「一撃で終わるな」
「いや、相手の魔力圧だけで気絶するさ」
「はははは!」
嘲笑。
侮蔑。
軽蔑。
視線が全身に突き刺さる。
見た目。
身分。
平民というだけで。
彼らの目には、俺は高望みする貧しい少年にしか見えていない。
その時だった。
エヴリンが俺の手を握る。
温かい。
優しい。
「私はあなたを信じてる」
彼女がそっと囁く。
「彼らは身分しか見ていない。でも私はあなたの才能を見たわ」
締め付けられていた胸が少し楽になる。
俺は小さく頷いた。
あと二分。
大会が始まる。
「私は行くわね」
俺は頷いた。
エヴリンは王座へ向かう。
俺はその場に立ち続けた。
どれだけ侮辱されようとも。
◇ ◇ ◇
マーリン王が娘へ視線を向ける。
「エヴリン。あの少年は誰だ?」
「お父様。彼はリュウ・セレスティアです。私が育てた優勝候補です」
彼女は真っ直ぐ答えた。
「私はあの傲慢な魔導師たちと結婚したくありません。それに、結婚相手は将来お父様の後継者になる可能性もあります。彼らには王国を任せられません。私はリュウを信じています」
マーリン王は長く息を吐いた。
「お前が自ら育てたのか……だが、たった数日訓練した少年がB級からS級魔導師に勝てると思うのか?」
「お父様、賭けませんか?」
エヴリンが微笑む。
「もし彼が優勝したら、十九歳になった時の結婚相手をリュウにしてください」
マーリン王は面白そうに笑った。
「つまり好きなのか?」
「ち、違います!」
エヴリンは慌てて否定する。
頬が赤い。
「ただ……あの人たちよりリュウの方がいいと思っただけです! 好きとかじゃありません!」
マーリン王はくすりと笑う。
「いいだろう。娘の賭けを受けよう」
その言葉に、エヴリンの顔に笑みが広がった。
――ゴォォォン。
再び鐘が鳴る。
会場全体が静まり返る。
誰もがその瞬間を待っていた。
HeavLy王国魔導闘技大会。
その幕が、ついに上がった。
「この物語をここまで続けてこられたのは、ひとえに皆さんの応援のおかげです。もし各話を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと評価をお願いします。こうした皆さんのあたたかいサポートが、次のお話を書くための大きな励みになります。この物語の旅路に寄り添ってくださり、本当にありがとうございます!」




